sigh~クレアside story~
クレアのサイドのお話です。
iらんどでの改訂前のものには入っていないお話です。
読まなくても先の話には繋がります。
ただ読むとちょっとお話に深みが増すかなあ~?
いや、そうでもないかも。
スイが去り、近衛兵も去った部屋の中は驚くほど静かだった。
気密性に優れた部屋は窓を閉めてしまえば外界の音を全て遮るように造られている。砂地の要塞ならではの趣向だ。
その静寂の中でクレアは声を押し殺すようにしてクツクツと笑っていた。
最初は呆けたスイの表情を思い出して込み上げてきた思い出し笑いだった。しかし、時間がたつにつれて純粋な笑いは自嘲に変わった。
スイと付き合い始めたのはそもそもシンへの当て付けだった。自分が幾ら想いを告げても全く動じないシン。虚空一の美女と謳われた自分に跪かない男がいることに自尊心がいたく傷つけられた。だがその一方で彼は自分の姉の婚約者であることも十分承知していた。それ故に生まれる罪悪感から自分を拒否するのだろう。本当は彼も自分を愛してくれているはずだ。そう根拠もなく信じていた。
しかし、ある時シンの傍らで慈しむような瞳に見守られているスイの存在を知った。それは姉や他の社交界の令嬢たちに向けられていた眼差しとは全く異質のものだった。勿論自分に向けられているものとも。
彼女の中で嫉妬というには激し過ぎる闘争心のようなものが燃え上がっていた。
それはスイが彼の継弟であるとか男であるとかそんなことも全く関係無なかった。
日頃、他者に対して無関心なシンが心を傾ける存在が居るというだけで彼女の心は嵐のように激しい怒りが渦巻いた。それはかつてシンが姉と婚約したと知った時より激しい感情だった。
最早手段を選んでいる場合ではない。彼女は彼を手にするためにスイを利用することにした。
スイと付き合い始めて暫くすると、彼は凄い剣幕で彼女を追求した。
彼女は有りのままを彼に告げ、彼に姉との婚約破棄と自分との結婚を要求した。
姉アリシアはそのころクレアの策にハマり失脚していた。心を病んだアリシアは聖職者の道を歩むとの名目で神殿に幽閉されていた。そのため、姉とシンとの結婚は実質白紙も同然だった。
「穢らわしい女だ」
彼の発した言葉が胸を抉るようだった。彼は全てを知っているのだろう。そうして彼女は半ば脅迫するような形で彼に結婚の承諾を取り付けた。そして、約束通りスイに別れを告げた。いかにも「貴方が悪いのよ」とスイの心に植え付けるようにして。
それにも関わらず……
“いったいどういうつもりなのだろう”
クレアは大きなため息をついた。勿論原因は先ほどバルコニーから蹴落としたスイだ。
まず王女の部屋に浸入するなど狂気の沙汰。君主の娘に手をだせばただではすまない。しかも、あのように襲い掛かったことが明るみに出れば極刑は間違いない。
“あれは自分の手駒のはず”
完全に操れていると自負していただけに余計に悔しい。誇り高き彼女にとって不本意に唇を奪われたことは耐え難い屈辱だった。クレアは唇に手の甲を押し当てて押し潰すように強く拭った。
近衛兵の去った室内は未だシンシアグラスの苦味を含んだ香りで満ちている。その中に微かに含まれる金属臭は先ほどの近衛兵たちのものだろうか。それともーー。
甘く疼くような胸の痛みに耐え兼ねてクレアは再びため息をついた。そしてバルコニーへ続く窓に目を向ける。窓はしっかりと施錠されている。そして厚い記事のカーテンで隠されていた。
隠す必要なんて本当はどこにもない。寧ろその向こう側に落ちている不届き者を軍部につき出すべきだろう。
しかし、彼女には出来なかった。
「何たる屈辱」
彼女は自分の体を抱き締めた。先ほど侵入者がそうしたように。未だ腕に残る感触が生々しくて彼女は小さく震えた。
「スイ……」
そして、ふと口をついて出た名前にクレアは青ざめる。自分でも信じられないくらい甘いその響きに一瞬目眩がした。
“穢らわしい女だ”
罪悪感からだろうか。頭の中で愛しい婚約者の声が響いたような気がした。
クレアは水差しを手にとると、ゆっくり平たい大きな器に向けて傾けた。零れ落ちる水の筋を見つめながら彼女は自嘲する。高ぶっていた感情が覚めていくの分かる。
そう、あれは手駒なのだ。そして、あれはもう必要ない。大切なものは既に彼女の手の中にある。
彼女は水差しを器の横に据えた。そして、たっぷりと水が注ぎ込まれた丸い器に視線を落とした。
一度で流れ出した水を元に戻そうとするなど無駄な作業だ。元のように戻せるわけがないのだから。それならば、新しく用意したほうがよっぽど効率的だ。彼女は一人頷いた。
僅かに波立つ水面には輝く美しい2つのエメラルドが揺らぎながら浮かんでいる。その水面はさながら夜の闇で暗く陰りながら彼女を蠱惑的な深みにさそうあの男、スイのようだ。時折揺らめく黒いうねりが緑の宝玉を飲みこんでしまおうと襲いかかっているようにも見える。
彼女はその水面に手を差し入れた。
“取り込まれてなるものか”
不要と切り捨てようとしても、あの熱を孕む視線が脳裏に浮かぶ。それを自覚すると怒りにも似た焦燥感が彼女を苛む。
「下僕め。所詮は黒なのよ」
苦し紛れに水面を叩きつけ飛沫を上げる。そんなことをしても新月の闇より深い漆黒の瞳は眼下から拭いさることは出来なかった。
「私は王の娘。黒に汚されてはいけないわ」
ようやく波が収まった水面には再び愛する婚約者と同じ色をした自らの瞳が映り込んだ。彼を手に入れるために自分はどれほどの犠牲をはらったことか。彼女はそう思いながらうっすらと笑った。
“そう、必要なものはもう私の内にある”
誰にも自分の邪魔はさせないと。
そのために彼女は実の姉を失脚させた。
あとは王位の継承権をあの女に捨てさせれば、私は王になれる。彼女は頬を緩めた。
彼女は自分の野望のために努力を惜しまなかった。
彼女にとって姉は目の上のたん瘤でしかなかった。姉は母の前の夫の子だった。その男が早くに亡くなったために母はクレアの父を伴侶に迎えたのだ。
そうして誕生したクレアは評判の悪い父親のせいで王族としては冷遇されていた。王位は彼女に与えるべきではないと誰もが公然と口にするほどに。
それゆえ母はそういった醜聞から彼女を守るために、幼い彼女は西の修道院に預けた。しかし外界から隔離された生活は彼女の心を病ませるのに十分だった。宮殿での様子が綴られた家族の手紙を見るたびに彼女は自分の境遇に不満を募らせていったのだ。そして姉に対する劣等感が膨れていくのを感じていた。
唯一の救いは隣接した聖堂で生活する北の貴公子シンの存在。その美しい姿を目にする時だけが彼女の心を人間らしい温かさで満たしてくれた。
そのため彼が姉の婚約者だと知った時の絶望はひとしおだった。
しかしその絶望が彼女の自尊心と闘争心に火を付けた。そして彼女は姉から全てを奪おうと決めた。
彼女は王位継承権の破棄を餌に修道院から出た。
そして議会を味方につけるべく議員となった。父親を助ける献身的な娘を演じた。それは誰の目にも好意的にうつった。
更には政治的にも優れた手腕を発揮した彼女は大変評価された。こうなると平等を謳う議会も、最早彼女の手駒のひとつに過ぎなかった。
これならば王位継承権の復権は何の障害もなく速やかに行われるだろう。思った以上の成果に彼女は笑んだ。
一時的だが王位継承権を破棄したことも良い方向に働いた。民はそこまでして自分達に尽くす姫君に好感を持ってくれたようだ。そしてスイは何やら勘違いをしてくれたようで非常によく働いてくれた。
スイとの別れや、姉の婚約者だっシンとの結婚も哀れな姫君を演じるのに好都合だった。
自分は絶対的な支持を得て女王に即位する。彼女はそう確信していた。
彼女は至極楽しそうに口角をつり上げた。絶世の美女と謳われる美貌が醜く歪み、いやらしい笑い声が漏れだした。
ただ、そこにスイはいない。居てはいけない。
彼女は胸に刺さった小さな棘に唇を噛んだ。
ずっと幼い頃から恋焦がれてきた人と婚約までたどりついたのに。 それなのになぜかちっとも甘い気分にはなれなかった。
それは姉や民に対する罪悪感からだろうか。いや、そうではない。
「オレにしろよ……か。バカみたい」
馬鹿馬鹿し過ぎて笑えた。将来に何の保証もない、どう想像してもその先に見えるのは苦労だけなのにと。
それでも彼女の心は驚くほどに震えた。
彼は、スイはもしかしたら自分自身を求めてくれているのではないか? 本当に自分に惜しみない愛を注いでくれるのではないか? 良い君主やその娘である自分でなくても、それにすがりつくために汚れきってしまった自分でも……。
ふと浮かんだ戯言に彼女は奥歯を噛み締めた。それを今更望むなど愚かにもほどがある。何て女なのだろうと自分すら己を罵る。浅ましいことこの上ない。
「同じ台詞を」
シンに言って欲しかった。言葉を濁すようにクレアは水面に顔を浸した。
自業自得なのだ。こんな風に最愛の人から蔑まれるのは目に見えていたのに。それでも欲しいと思った結果なのだ。
それなのに今更あんな言葉に心が揺れるだなんて。
決してそんな言葉を吐かない婚約者のことを思いながら彼女は目を閉じた。
どうでしょう?
クレアって黒い設定なんです。
綺麗で有能で黒いって最強。