第十話 証明
本作は、日常の違和感がじわじわ積み重なるタイプのホラーです。
信也が、笑っている姿が見えた気がしたが、
あまりに一瞬だった。
一度瞬きをすると、そこには別の人が立っていた。
気のせいだったのかもしれない。
自転車をこぐ。
ペダルがやけに重い。
さっきまで人で溢れていた通りを抜けると、住宅街に出た。
まだ昼なのに、不自然なほど静かだ。
風の音だけが聞こえる。
呼吸が浅い。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「大丈夫。 まだ間に合う」
そう思った瞬間、
胸の奥が、ひくりと波打った。
――嫌な感じがする。
こういうのは、たいてい良くない時に感じる。
大丈夫だと思いたいのに、俺の勘が大丈夫じゃないと言っている。
ハンドルを握る手に力が入る。
心の家が見えてきた。
以前見た時と同じ外観のはずなのに。
おかしい。
雰囲気が明らかに違う。
カーテンは閉まっている。
「急がないと!」
俺は自転車を止める。
門の前で、足が止まる。
インターホンを押す前に、
胸の奥で何かが囁いた。
――無事でいてくれ。
インターホンを押す。
数秒、返事はない。
もう一度押そうとした瞬間、玄関の向こうで物音がした。
慌ただしい足音。
ガチャリ、と鍵が回る。
ドアが開いた。
「純……!」
立っていたのは翔太だった。
顔色が悪い。
額に汗が滲んでいる。
目が落ち着かない。
俺の顔を見た瞬間、ほっとしたような、それでいて追い詰められたような表情を浮かべた。
「やばい……ほんとにやばい!」
声が、かすれている。
「心の……感情と行動がおかしいんだ!」
「ど、どういうことだよ!」
「……純、とりあえず早く来てくれ!」
電気はついているはずなのに、なぜか暗く感じる。
翔太の後ろを追うように入った。
廊下を進む。
「ドン」という音が奥から聞こえてくる。
リビングの前で、翔太が立ち止まる。
ドアは、半開き。
翔太が振り返る。
目が、助けを求めている。
俺は、頷いた。
ドアを、ゆっくり押し開ける。
そこには、心がいた。
壁の前に立っている。
額を、壁につけたまま。
――ドン。
鈍い音が響く。
もう一度。
――ドン。
一定の間隔。
感情が、ない。
「......おい」
返事はない。
三度目。
――ドン。
「やめろ!」
俺は駆け寄る。
心の肩を掴む。
振り向いた顔は――
笑っていた。
目は、笑っていない。
「わぁー!」
突然、叫ぶ。
声が、重なる。
高い声と、低い声。
二つが、同時に響く。
背筋が凍る。
心を押さえつける。
これ以上ぶつけさせるわけにはいかない。
だが。
ぐい、と腕を振り払われる。
ありえない力。
抵抗する間もなく、体が軽く浮く。
次の瞬間、
俺は床に叩きつけられていた。
心は、ゆっくりこちらを見る。
首を、不自然な角度で傾けて。
にやり、と笑った。
そのまま。
両手を頭に当てる。
最初は、掻くように。
次第に爪を立てる。
ざり、と音がする。
「やめろ……!」
翔太が叫ぶ。
だが、心は止まらない。
髪を掴み、引きむしろうとする。
(なんとか、お守りを離さないと......)
そう思ったが、お守りは心のポケットの中にある。
「どうやったら影響受けないで取れるんだよ......」
喉の奥で呟く。
注意事項が、頭の中にながれる。
対象者以外が触れた場合、何かしらの影響を受ける。
“何かしら”ってなんだ。
軽い頭痛か?
それとも。
取り返しのつかない何かか。
それでも――触れるしかないのか。
心が、急に動きを止めた。
ゆっくりとこちらを見る。
掻きむしったせいで、前髪の隙間から額が見える。
赤くなっている。
「な、なんだよ......その目は」
心の目が真っ黒だった。
まるで、何かに操られているかのように......
「翔太! 救急車に電話してくれ! このままじゃやばい!」
「わ、分かった!」
翔太は震える手でスマホを取り出す。
画面を何度も押し間違える。
俺は心の肩を掴む。
「心! 俺が分かるか」
「理性を失っちゃだめだ!」
次の瞬間、
「わぁーーー!」
混ざった声が、部屋を震わせる。
心が暴れ出す。
俺の手を、乱暴に振り払う。
力が、異常だ。
踏ん張れない。
視界が揺れる。
その勢いで足を取られ、床に倒れ込む。
次の瞬間。
重み。
心が、俺に覆いかぶさっていた。
距離が、近すぎる。
黒い目。
焦点が合っていない。
叫びながら、
両手が俺の首に置かれる。
冷たい。
「心! やめてくれ!」
ぐっと、締まる。
空気が、潰れる。
「あ――」
声が、出ない。
息も、吸えない。
喉の奥が焼ける。
視界の端が暗くなる。
指を掴む。
外せない。
(やばい……ダメだ……)
意識が、遠のきかけた、その時。
「心! やめろー!」
衝撃。
横から体当たり。
心の体が、横に吹き飛ぶ。
俺は咳き込みながら、床を掴む。
視界が滲む。
翔太が、心を押さえつけている。
「落ち着け! 落ち着けって!」
必死の声。
もみ合いになる。
その最中。
翔太の手が、
心のポケットに深く入り込む。
そして。
黒い布が、引きずり出される。
――お守り。
翔太の手の中に、ある。
「……これだろ!?」
その瞬間。
心が、ぴたりと動きを止めた。
部屋が、静まる。
あまりにも急な静寂。
俺の背筋が凍る。
翔太の指先が、
お守りを、しっかりと握っている。
第10話まで読んでいただきありがとうございます。
ここで一つの「可能性」が形になりました。
まだ確定していないこともあります。
でも、もう戻れません。
次回から物語はさらに動きます。




