その日、バイト騎士はヘルメットを脱いだ
学校からの帰り道。 俺の足取りは重かった。
原因は、朝のリュミエの様子だ。 『ただの代謝異常だ』と言って袖を隠した彼女の、あの焦ったような顔。 そして、一瞬だけ漂った「焦げ臭い」匂い。 嫌な予感が、胸の奥で黒い澱のように広がっていた。
「……考えすぎか? あいつに限って」
俺は思考を振り払おうと、角の自販機でジュースを買おうとした。 その時だ。
グイッ。
突然、背後から襟首を掴まれ、路地裏へと強引に引きずり込まれた。
「うわっ!? な、なんだ!?」
「静かにしろ、地球人」
俺を壁に押し付けたのは、作業服にヘルメット姿の男――ヴォルグだった。 だが、今の彼にいつもの「貧乏バイト騎士」の情けなさはない。 その瞳は、凍てつくように冷徹だった。
「……ヴォルグ? お前、こんなところで油売ってていいのか? 日給引かれるぞ」
「軽口を叩いている場合か」
ヴォルグは低い声で遮ると、俺の胸ぐらを掴んだまま、睨みつけてきた。
「単刀直入に言う。……貴様、殿下の『身体』を見たな?」
心臓が跳ねた。 朝の出来事。あの手首の黒い亀裂。 俺は唾を飲み込み、頷くことしかできなかった。
「あれは……なんなんだよ」 「『魔素欠乏症』。……いや、貴様らに分かりやすく言えば、『存在の崩壊』だ」
ヴォルグは手を離し、苦々しげに吐き捨てた。
「高次元存在である我々にとって、この星の大気は毒に等しい。呼吸をするだけで、魂の構成データが削げ落ちていく。……殿下は、その身を削りながら、無理やりこの次元に留まっているのだ」
「身を、削って……?」
俺の脳裏に、リュミエの笑顔が浮かぶ。 カップ麺を食べて喜ぶ顔。 ダンジョンで無双する姿。 そして昨夜、俺の腕の中で「ずっとそばにいて」と甘えた弱々しい声。
あれは、ただのデレなんかじゃなかった。 消えてしまいそうな不安と、命を削る痛みの中での、SOSだったのか。
「……じゃあ、なんであいつは帰らないんだよ! 帰れば治るんだろ!?」 「殿下は帰らない。……いや、帰りたくないのだ」
ヴォルグは俺を指差した。
「貴様がいるからだ、九条湊」 「……俺?」 「殿下は、貴様との『つがい』としての生活に、何よりも価値を感じておられる。たとえ、その代償が自らの死であってもな」
言葉が出なかった。 あいつ、俺なんかのために命を? バカだろ。銀河最強の皇女が、なんでこんな平凡な高校生のために。
「だが、問題はそれだけではない」
「本国からの定時連絡を傍受した。……あと14日だ」 「14日?」 「殿下が帰還しない場合、帝国艦隊はこの星を『皇女をたぶらかし、監禁した汚染惑星』と認定する。……14日後に、地球全土への**『浄化』**が開始される」
「浄化って……まさか」 「焼き尽くすということだ。人類も、文明も、全てな」
足元の地面が揺らいだ気がした。 リュミエが死ぬか。 地球が滅ぶか。 究極の二択が、唐突に突きつけられた。
「……おい地球人。貴様に覚悟はあるのか?」
ヴォルグはヘルメットを脱ぎ、初めて俺に頭を下げた。いや、それは懇願だった。
「私は騎士として、殿下を死なせるわけにはいかない。だが、力ずくで連れ戻そうとしても、今の殿下は聞く耳を持たないだろう。……説得できるのは、貴様だけだ」
彼は血走った目で俺を見つめた。
「殿下に……『貴様のことなど嫌いになった』と告げてくれ。そうすれば、殿下は諦めて帝国へ帰る」
「……っ!」
「頼む。この星と、あの方の命を救ってくれ。……嫌われ役は、貴様にしかできない」
ヴォルグはそれだけ言い残すと、夕闇の中へと消えていった。 路地裏に残された俺は、拳を握りしめることしかできなかった。 爪が食い込み、血が滲む。
嫌いになったと言え? あいつを救うために、あいつを傷つけろって言うのか?
空を見上げると、一番星が光っていた。 あの光の向こうから、破滅が近づいている。 俺の平穏な日常は、とっくに終わっていたんだ。




