好きな香りは何ですか?
それは俺が大学がきまって4月から引っ越しをするための荷造りをしていた時期の話だった。好きだったマンガをなんとかギチギチに段ボール箱に押し込めて十数年ぶりに何もなくなった部屋を見渡した後、ひと段志ついて居間でくつろいでいた時にふとやっていたニュースを見ると大雨の予報をしていた。
メイなんちゃらとかいうので今週末に台風並みの暴風が来るとか言っていた。台所からニュースを見ていた母さんが「才志が東京に行く前日じゃないの、なんとか行ければいいけど。」と言っていた。
そう。俺は東京に引っ越すのだ。どこに行くのにも車が必要なほどの田舎に住んでいた俺は電車だけでどこにでも行ける東京を夢見て東京の大学を選んだ。1時間に2本しか電車が来ないような場所とはわけが違う。遊び場だってどこにでもあるしなんたってすべての施設が徒歩圏内にあるのだ。もう自転車をシャカシャカして床屋に行く必要もないし山を越えて友達の家に行く必要もない。
さて向こうでどう大学生活を満喫してやろうかなどと思い浮かべてにやにやしていたがやっぱり寂しいものは寂しい。じいちゃんばあちゃんにも顔を見せてしっかり挨拶をした。
そして迎えた出発の土曜日、完璧に前倒しでやってきた雨雲はすべての公共交通機関をストップさせ足止めを食らってしまった。それどころか雨が強すぎて窓がすごい音を立ててガタガタしていて屋根でもはがれるんじゃないかと思ったぐらいだった。
そしてしばらく雨風が弱まる様子がないということで避難指示が出された。外に出ると風も強いし雨も強くて腕を伸ばせば指先が見えなくなりそうなほどだった。まだ朝も早いのにじいちゃんばあちゃんが心配だからと父さんと母さんが俺まで連れてじいちゃんとばあちゃんの家まで行って避難所の小学校に連れて行った。
俺はかなり文句を言いながら行ったものの実際行ってよかったと思った。風のせいで体育館の扉を閉めるときは全体重をかけてようやく閉まるほどだったしまだ9時なのに街灯がつくぐらい外は暗かった。何はともあれ一安心したので2度寝でもしようと思い壁にもたれて体育座りの体制で寝ようとしたら急に「才志も来てたんだね。」と声をかけられてびっくりした。顔を上げるとそこには由季。
由季は中学から一緒で高1から付き合い始めた彼女だ。対面で別れの挨拶をすると悲しくなってしまいそうで避けていたのだ。由季は近所の高齢者夫婦のことを心配して両親と一緒に避難を手伝ってきたらしい。そんな話をしているとやっぱり悲しくなってきた。そんな俺を察したのか持ち前の天然さからか「そんなに私と別れるのが悲しいの?ついて行ってあげようか?」と言ってきた。「由季はこっちで勉強があるんだから無理に決まってるだろ。」由季は福祉の仕事に就きたいといって地元の福祉学科のある大学に進んだのでしばらくは会えないのだ。その寂しさを何とも思っていなさそうなくらいの陽気へのいらだちと照れ隠しが混じってかなり強く言い返してしまった。「ふーん。ならいいけど。」少し機嫌を損ねてしまったかもしれない。何とか弁明しようと口を開こうとしたら雷までなってきた。
なんだよ。もう。微妙な間が相手変な感じになったじゃないか。なんて言おうかまた考えていると急に由季が立ち上がった「雷神・・・」雷神は俺たちが中2の時に見つけたぶち柄の野良猫でおでこに雷みたいな柄があったので名前が雷神になった。
中学卒業までは一緒に遊んだり餌をやったりしていたが高校に入ってからは道が変わって俺は一切通らないので見に行くのをやめてしまった。それでも由季はちょくちょく行っては遊んでいるそうでたまに話は聞いていた。野良だったので住所不定なのに俺たちが見つけた空き地で名前を呼ぶとどこからか出てくるヤツだ。
雷神を助けに行こうとしているのだと気づいたときにはもう由季は靴を履いていて出るところだった。「これから雨も強くなるかもしれないんだから危ないだろ!」と言って呼び止めたが笑ってあしらわれた。「元陸上部なんだから大丈夫だって。それよりも戻ってきたときの言い訳でも考えといてよ!」
次の言葉を言おうとしたときにはもう由季はいなくなっていた。雨は確かに弱くなっていたが雲が一層どんよりして見えた。
やっぱり追いかけよう。げた箱から靴を出した瞬間父さんに呼び止められた。「才志、外なんて出るな。危ないんだからそんなことより倉庫から災害用品出すの手伝ってくれ。」
否定する言葉も見当たらずしぶしぶ手伝うしかなかった。非常食の詰まった箱を持ったが重いし大きくて持ちづらかったのでかなり汗びっしょりになってしまった。
1箱おいてタオルで雨と混ざった汗を拭いていると急にポケットのスマホがでっかい音でアラームを鳴らしだした。避難レベルの引き上げかとスマホを握った瞬間地面が揺れだした。地震だ。身を低くしているとすぐに収まったがそのあミシミシとメキメキが混ざったような音と一緒にどぉぉんと大きな音が鳴った。怖いと思ったが雨がまた強くなりだしたので倉庫にまた急いだ。
すべてを運び終わって疲れて休んでいると父さんが飲み物を持ってきてくれた。「お疲れ様。助かったよ。高齢者は避難してくれているが若い人はなかなか避難していないから人手が足りなかったらしくてな。」父さんもすでに若くはないのに一番動いていた。そんな状況でも人をねぎらえる父さんをすごいと思った。
言い終わるとお茶を一気に飲み干してまた父さんは立ち上がった。「そういえばさっきの地震の後にあっちのほうで土砂崩れがあったらしいぞ。ただでさえ雨で地盤が緩いんだから中でおとなしくしておけよ。」そういって由季が言ったほうを指さした。そういえば大きな音が鳴っていた。俺はすぐに由季のことを思い出したがその場ではどうすることもできなくてじれったい気持ちでいることしかできなかった。
でも帰ってくるだろうとどこかで楽観視していた。それなりの時間作業していたので雷神を拾ってかなり帰ってきているだろうから10分もすれば帰ってくると思っていたのにそれに反して1時間待っても由季が帰ってくることはなかった。
ここで俺はようやく自分の馬鹿さ加減に気づき、由季の両親に由季はかなり前に風神を助けに行ったっきり帰ってきていないこと、その風神がいる空き地のところで土砂崩れが起きていることを話した。話している途中でさえ由季の両親の顔は引きつっていて真っ青になっていた。俺はぶん殴られ当然だと思っていたのに由季の父さんは「そうか・・・」とつぶやき黙って車に乗って行ってしまった。
なにもされないことで俺はかえって罪悪感が強くなり動転して傘も持たずに由季を探しに行こうとしていた。いつの間にか近くにいて話を聞いていた俺の父さんが俺の腕をつかみ「車に乗れ。一緒に行くぞ。」といった。そこで俺は初めて自分の状態に気づき驚きつつも車に乗った。
土砂崩れのところへ行くまでおれはさっきまでが嘘のように何も考えていなかった。本当になにも考えられなかった。空地まで200mぐらいのところで道が土砂でふさがれていた。「ここから歩いていくぞ。」父さんは静かに言ってスコップを渡して言った。まだ頭の回っていない俺は返事もせずただいうことを聴いてついて言っているだけの状態でいた。そんな気の抜けた顔でのろのろ歩く俺を見て父さんは「走れ! お前がそんな顔をしてどうするんだ!」と怒鳴った。
父さんが怒鳴ったのなんて俺が幼稚園の時に三輪車で道路に飛び出した時以来なのでその衝撃と頭が理解を拒んだ由季のことが同時にきて俺は一気に正気に戻り少し涙ぐみつつ全速力で駆け出した。
空地のあたりまで行くと建物の一階くらいまで土砂とがれきがあってそれを由季の父さんが由季の名前を叫びながらあちこちを掘り返していた。土砂はぬかるんでいたから掘ったそばからまた土砂がながれこんでいて意味がないとわかってからただひたすら大きな声で由季を呼び続けていた。それでも強烈な雨風に俺たちの叫びはかき消されていった。
気づけば夕方になっていたと思う。あたりは真っ暗で父さんが持ってた懐中電灯がなかったら俺も遭難してたんじゃないかと思うほど何も見えなかった。「今日は危険だ。帰ろう。」かすれた声で父さんは優しく俺に言った。「うん」耳元で言っても聞こえないほど小さな声で俺は返事をして車に乗り込んだ。避難所に戻ると由季の父さんと鉢合わせた。由季の父さんは一瞬目を見開き何かを言おうとしたが首を振ってどこかへ行ってしまった。その日はひどく疲れていたのか時計はまだ7時過ぎだったのに味のしないカップラーメンを食べてすぐ寝られた。
朝になると風はまだあったが雨は完全にやんでいた。由季の父さんはもう起きていて寝袋の上に正座して何かをぶつぶつ言っていた。3月も終わりで暖かくなってきていたのに上着を着ても寒くなるほど気温が下がっていたがそんなのはどうでもいいほど何も感じなかった。
そんな感じでぼんやり外を眺めていると自衛隊がやってきて物資の受け渡しをしているのを眺めていたらまた別の自衛隊員が車でやってきた。由季の両親のところに歩いていき話をしていた。「由季の遺体が見つかった。」そうわかるくらい顔をくしゃくしゃにして声をあげて泣いていた。その時俺が何を考えていたかはわからない。何も考えていなかったかもしれない。あれだけ好きで一緒にいた由季にもう会えないというのに涙とかそういうのは出なくてただ目の前の情報として受け取っていた。
「才志くん。こっちへ来なさい。」まだ声が上ずっている由季の父さんに呼び止められた。今度こそ殴られるのだろう。そう覚悟した。由季の父さんの腕がこちらに伸びてくる。俺は無意識に顔に力を入れただ頬の感触を待っていた。
でも感触が来たのは頭だった。俺は頭をなでられていたのだ。一体どういうことかわからずに混乱していると由季の父さんが口を開いた。「一緒に由季を探してくれてありがとう。もう一度由季に起こったことを話してもらってもいいかな。」俺は戸惑いつつももう一度順を追って説明した。
すべて言い終わると由季の父さんが「よかった。」といった。「由季は見つかった時5匹も猫を抱えていたらしい。きっとほかにも猫がいて見捨てられなかったんだね。そういう性格の子だから。」何も言えなかった俺に対して由季の父さんはつづけた。「由季が飛び出していったのも君を守るためだったんじゃないのかな。きっと君の性格ならあそこで止まっていたら由季を引っ張ってでも止めていただろうから。」
その時初めて俺は泣いた。昨日叫び続けたせいで少しかすれた声で泣いた。その時の感情が由季を守れなかった罪悪感から来たものなのか自分の無力感から来たものなのか、あるいはそのどっちもなのかその時の俺には到底考える余裕もないほどに感情の波が押し寄せていた。
そこからのいろいろはあまり覚えていない。俺たちは土砂崩れの被害のない地域だったので避難指示が解除されると帰ることはできたが由季の両親含め家が被害を受けた地域の人たちは土砂の運び出しとかで忙しそうにしていて俺の父さんもその手伝いに行っていた。俺はというと大学のほうで申請をして3か月の休学をもらった。
その期間に由季の葬式に参列した。遺体の損傷がひどかったらしく棺桶のようなものは見当たらなく、家もほとんど壊滅状態だったらしく遺品と呼べるようなものもないといった状態だったので俺は引き出しから古い巾着袋を持ってきた。中身はキンモクセイの花。由季が一番好きだった花で5年前の秋にもらったものだったのでもうにおいなんてしないし多分中身も枯れて茶色に変わっているだろう。そのはずなのにこの袋をかいでみるとどこかにおいを感じる。この中にはまだ由季が残っている気がした。
そこからはただ何をするということはなく、あっという間に3か月が過ぎ大学に通うため俺は東京に引っ越した。最初はバイトに講義に忙しい毎日で由季のことを忘れられると思っていたがことあるごとに由季を思い出してしまう。
映画を見るときには女子のくせに戦闘シーンがいいんだなんて言ってファンタジー物のバトル映画を見に行きたいといった由季、やけに大人びた声を出すのが得意で放送部から猛烈なスカウトを受けていた由季、キンモクセイが好きすぎてキンモクセイの香りの香水をいつもつけていた由季、この間はキンモクセイの香水を付けた人と街ですれ違っただけで思わず振り向いてしまったくらいだ。
でもそれも1年くらいで日に日に思い出す回数も減ってきた。
時が過ぎるのはあまりにも一瞬で俺はもう大学を卒業する時期になっていた。すでに就職の内定をもらっていた俺は就職を機に職場の近くにもう一度引っ越すのでその前に一度帰省することにした。
みんなに顔を見せて3日滞在の2日目に差し掛かった俺は意を決して由季の両親が住む新しい家に向かった。「おお、才人君か。君が来てくれて由季も喜んでいると思うよ。」やっぱり優しい由季の両親は俺を殴ってはくれなかった。おれは由季の写真の前で線香を上げ、献花というにはあまりにも小さなキンモクセイの花を一輪だけおいた。俺はこの一輪は小さいけど由季のいるところまで香りが届くと確信していた。なんせ鼻がよすぎて「雨のにおいがする。」なんて言って雨を100%あてるので天気予報士とかいうあだ名がついたくらいだ。きっと気づいてくれる。そう考えているとリビングの大きなテレビがあの日のニュースをしていた。
「大雨と地震が重なり死傷者は300人にも及ぶ悲劇の土砂災害から今日で4年がたちます政府はこれについて・・・」家を出た俺は時間が余っていたので急に新しい家ばかりになり、斜面に砂防ダムがたったあの災害があった場所を見て回った。その時ふとキンモクセイの香りがしたので反射のようにそのほうに向かってみると山頂のところに十数本のキンモクセイが咲き乱れていた。でもおかしい。由季は秋に咲くといっていたはずだ。
帰って聞くとそれは四季咲きという種類だということとあの山はキンモクセイ山と地元の人に呼ばれていることを聞いた。でもなぜそこだけ生えたのか、もしくは植えられたのかはわからない。でも由季を知る人からは由季がそこにいるのだ、ということになっていた。
夜になって明日はどこに行こうか、あと挨拶しておきたい人は・・・とか考えていたのに結局すぐ寝てしまった。
そのあと俺はまだ日も昇っていない時間にけたたましく鳴るスマホの音で飛び起きた。スマホの画面を見ると地震。「地震だ!父さん母さん外に出ろ!」急いで階段を下りて一階で寝ていた2人と合流したところで一瞬体が浮き上がったのかと思うほど大きな揺れが来た。急いで外に出た後で伏せていると3回ほどの余震で地震は収まった。俺のスマホはさらに津波が来ると言っていたので家に戻ろうとする両親を急いで強引に車に乗せた。とにかく遠くに。そう考えていた俺は一番近くて高い山を越えて昨日通って印象が強かった倍ほど距離があるキンモクセイ山に行った。
その選択が幸いしたのか近くにあった山は傾斜がなだらかなせいで波の勢いが受け止められず道路がないほど高いところに到達していたらしい。それに対して距離も傾斜もあったキンモクセイ山はほとんどが無事。
俺は一緒に避難した人たちと一緒にオレンジ色に輝く朝日を見た。その光を受けてさらにいっそうきれいに光るキンモクセイは由季がここにいると自己主張しているようだった。俺はまた2度も由季に助けてもらったのか。そう考えて頭をかくと急に風が吹いてきてキンモクセイの香りが花いっぱいに入ってきた。「何かあると困ったように頭をかく癖は変わらないんだね。」といって由季が笑っているようだった。おれはそう感じながらもまた自分が頭をかいていることに気づいて苦笑いした。
そしていま社会人として頑張っている自分の玄関にはキンモクセイの香水がある。俺もいつの間にかこの匂いも好きになってしまっていた。毎朝家を出る前に一吹きするのだ。