第六十六話 恋のパワーは強力で残酷➂
エマは真っ暗な自分の部屋で、クリスにもらった音楽プレーヤーで大昔の音楽を聴いていた。
―あいみょん “君はロックを聴かない”。
記憶の中で何度も聞いていた曲。
やはり小瀧夏の記憶とエマの人格は切っても切れない関係であるらしい。気づくとこの曲を聴いていた。
音楽プレーヤーには新しくイヤホンが取り付けられ、薄暗い沈黙の部屋の中、一人哀愁を帯びた表情をするエマ。
リリィ曰く、エマは彼女の友人の子であり、その頭の良さは父親譲りということだった。
父の名はサイラス。
現在の超蒸気機関技術を大幅に先へ進めた人物。
惜しくも彼は電気技術へと手を出し、それが政府にバレて殺された。
結局エマへ小瀧夏の記憶を移植されたのは、エマのポテンシャルの高さからだった。
彼女と小瀧夏なら世界をひっくり返すような発明家になれるだろう。
その思惑がリリィにはあった。
エマは机に伏せ、クリスのことを考える。
やはり気になっていたのは佐藤雄志のことであり、クリスとは関係ない。
そう彼女は思っている。
クリスが佐藤雄志の転生者だと初めて知った、というより勘違いした時、彼女の心を温めたのは記憶の中の小瀧夏だった。
そこにエマの気持ちはない。
そう思っている。
とは言え、エマはクリスにいい印象を持っていた。
何なら最近会っていないから会いたくなってき…。
「いやいやいや、あいつは別に友達。あんな乱暴なやつ誰が好きに。それに、私は今自分の人格で悩んでんのに、なんで…」
すぐさま頭からクリスを振り払うエマ。
しかしその考えとはとは裏腹に、ラオでクリスと共に首長交代の祝祭へ訪れた時の記憶が甦る。
「あれ、すごい!ウシヒツジカの串焼きだって。寄って食べようよ!」
エマがそう言うと、クリスは首を横に振る。
「駄目。リラにお使い頼まれてんだから、それ買ってから。お金が余ればだけど」
エマは呆れた風な顔をするが、クリスは構わず先へ進む。
「ちょっと待ってよ~」
立ち止まっていたエマはしょぼしょぼとクリスの後ろを付いて行くが、速足で歩くクリスの背はいつの間にかエマから見えなくなった。
「あれ、クリス?」
祝祭によりにぎわったラオの街は様々な人であふれている。
見渡す限り人、人、人。
「クリスー?クリスー?」
エマがクリスの名前を呼ぶが、街の喧騒に飲み込まれて声はかき消される。
だんだんエマが不安になってきた。
群衆に飲み込まれていくような感覚。
暫くエマが探していると、後ろから長身の獣人がぶつかり、エマがバランスを崩した。
「あっ」
”こける”
そう思ったとき、誰かがエマの体を支えた。
「おいおい、迷子さんですか?明日からステティアに戻るんだろ?怪我されちゃ困る。ほら、行くぞ」
エマを支えたのはクリスだった。
「あ、ありがとう」
いつだってエマを支えていたのはクリス。
カシム一派の件も、エマはクリスに助けられた。
クリスはエマの手を取ると、ぐいとエマを引き寄せて人混みを進んで行く。
エマは、手汗は大丈夫か、だとか、恥ずかしい顔をしていないか、と考え始める。
段々少し照れ臭くなってきて、クリスの顔を見られなくなってきた。
そんなことを考えていると、あっという間に人混みを抜ける。
人が減り、少し歩きやすくなった外れ道。
決して裏道や路地ではないが、中央の通りから一つ外れた道。
「ありがと。もう、大丈夫」
エマがそう言って握った手を緩め、少し手が離れる。
そのままエマは手をポケットにしまおうとするが、クリスはむしろもう一度手を差し出した。
「お嬢様は人混みの中も歩けないのかよ」
―クリスはそう言うと、小さなエマの手を再びぎゅっと掴んだ。
「...走馬灯かと思った。なんであの時のことを思い出したかは知らねぇけど、取り敢えず生きてりゃ大儲けだ」
クリスはそう呟き、濁流の中で掴んだボロボロの鉄筋を再び握りしめる。
朦朧とした意識の中掴んだエマの手は、現実ではギリギリ壊されずに残った鉄塔の細い柱だった。
給水塔の水はクリスを飲み込み、取水塔もろとも全てを破壊しつくす。
鉄塔は悲鳴にも似た音を上げながら倒れ、クリスは唯一残った中央の支柱にぶら下がっていた。
真ん中に建てられた柱から、少しだけ枝分かれした赤色の鉄柱。
クリスの命はこのわずか30センチの幅にかかっていた。
回復しかけの左手と右手の両方で柱を掴み、上を見上げる。
そこには下を覗くミラーが立っており、勝利の笑みを浮かべていた。
「しぶといなぁ。まぁ、こっちが有利なことには変わらんが」
ミラーはそう言うとナイフを取り出す。
両手にずらりと並んだナイフは、どれか一つがクリスに当れば十分に奈落の底へ突き落とせるほどの殺傷能力を持っていた。
「俺のナイフはでけぇぞ☆」
ミラーがそう言うと、十分に狙いを定めてから一投目をクリスに投げた。
クリスは少し体をずらし、攻撃を躱す。
ナイフはクリスの肩を掠り、ローブがバッサリと切れた。
しかしクリスは動揺しない。
それどころか、逆にゆっくりとジィジからもらった剣“アンブリエル”を右手に持ち、左手で体を支えてミラーに狙いを定めた。
「バカかお前は。そこから正確に投げても、投擲された剣がここに来るまでに何秒かかる?余裕で避けられるわ。俺には当たらん」
ミラーは二投目を構え、ナイフをクリスの眉間目掛けて投げる。
ナイフは少し逸れてクリスの右耳を切り裂き、数百メートル下の地面に落ちていった。
血が噴き出すクリスの耳。
それでもクリスは慌てなかった。
クリスの感覚が研ぎすまされ、辺りの音が遠のいていく。
ミラーが三頭目を投げるが、ナイフは見当違いな場所へ落ちて行ったらしい。
ミラーが笑っている。
どうやら最後のナイフでクリスを仕留めるつもりだった。
クリスの目が赤く光る。
左手の出血と、耳からの出血。吸血族が飢えるには十分の流血だった。
そして最後に、クリスが深呼吸をしてから言う。
「オファクの教え其の一。オファクでは全身を使う」
クリスは呼吸を整え、酸素を右手に集め、風を読み、世界を聞いた。
遠くで聞こえるハゲワシの声、フィシニアから聞こえる人々の喧騒。
そして目の前に立っている男の体の大きさ、距離、動きの癖。
「其の二。相手の全身も、使うべし」
観察したミラーの筋肉の動き、自分がこう動けば相手もこう動くだろうという何百通りもの予想、そしてその正解。
確実に剣がミラーを貫く、唯一の軌道。
「そして其の三。姉御による最後の教え。相手への敬意を忘れるな。いや、俺にこの教えはいらない。目の前に立ちはだかるものを切るのみ。それに敬意や敵意すらもいらない。俺が勝つという信念だけだ」
クリスはそう言うと、右手に全ての力を込め、全身の力全てを掛けて剣を投げた。
恐ろしいスピードで宙を走る剣は、ミラーの心臓目掛けて美しく飛んでいく。
ミラーはクリスが剣を投げたのは分かった。
「そんなもの避けてy…!」
しかし、剣に夕日が反射して一瞬目がくらむ。
全ては計算の内だった。
オファクの、クリスの、ジィジの、エアリアの戦術の勝利だった。
投げられた剣は吸い込まれるようにミラーの腹部に刺さり、そのまま貯水タンクに刺さってミラーを給水塔に縛り付ける。
「は?こ、これは」
銀の合金で作られたその剣は、本来ならば働くであろうミラーの回復力を蝕んだ。
そして腹部の痛みが、遅れて脳に伝わってくる。
「あ、が、ぎやあああああああ。いてぇ!こんな痛みは初めてだ!クソッ。この野郎!!」
ミラーは腹を押さえるが、流れ出る大量の血と、強力な銀の効果に、むしろより痛みが増した。
ミラーが腹に刺さった剣を貯水タンクから抜き、自らの腹からも引き抜く。
「ぐあああああああ!!!」
痛みに悶えるミラー。
しかし、ミラーはまだ負けを認めていなかった。
心臓に当るのは避けられた。後は上からクリスを殺るだけ。
ミラーはそう思っていた。
しかし、ここにいないはずの男の声が後ろから聞こえる。
「いや、もう遅い。こっちの給水塔に飛び移るのは大変だった。でも鉄塔の間隔は一メートル。飛び移れない距離じゃないぜ」
ミラーが後ろを振り向くと、そこにはクリスがいた。
ミラーは自らの腹を貫いた剣をタンクの上に落とし、腰が抜ける。
夕日を背に、クリスがゆっくりと迫ってくる。その影は長く伸び、暖かな橙色の光の中で揺らめいていた。
彼の姿は力強く、毅然とした雰囲気をまとい、一歩一歩が確かな決意を感じさせる。風が彼の髪をそっと揺らし、その瞳には揺るぎない意志が宿っている。
夜の輝きが彼の輪郭を藍色に縁取り、その姿はまるで光と影の狭間から現れた英雄のようだった。
彼の歩みは静かでありながらもどこか威圧感を放ち、周囲の空気すら彼の存在感に引き締まるようだった。
クリスの足音が鉄板に響くたび、その音はミラーの胸に響き、彼の近づく足音が終わりを告げるように感じられた。
「ま、待て。タイムだ、な?いったん立て直してから、正々堂々やろうぜ。対等なルールで殺し合いをしねぇと。な?相手に敬意をって言ってたろ!な!」
ミラーの命乞いも虚しく、クリスは首を縦には振らなかった。
「俺は王子様だぞ?俺は俺の好きなようにやる。この勝負、俺の勝ちだ」
そう言うとクリスはミラーの顔面を思い切り殴り、ミラーをタンクの上に這いつくばらせる。
「クソ!」
「あばよ」
「#$%&ァァア!!!!!!」
ミラーの叫び声も虚しく、クリスは彼を数十発殴ると、そのまま給水塔から蹴り落とした。
叫びながら落ちていくミラー。
地面に到着する音と同時に、一気に静かになった。
クリスは下を覗き、落ちたミラーを見て顔を顰めた。
「ハァ、なかなか強かったぜ」
クリスはそう言い捨てると、給水塔の横に付いた梯子から、両手で地面へと降り始めた。




