第三十七話 死んでも死にきれない➁
「ハァッ、ハッハッ」
貴族街も夜になるとその華々しさを隠し、どこか寂しさすら覚える景色に変わる。
その高級な住宅街が眼下に見える山の中腹で響く吐息。
「クソ!来るなァ!」
何者かが一人の男を追い詰め、崖の先へと追いやった。
「どこまでついてくるんだ貴様は!」
「さぁ、吐け。オスカルとラーラはどこだ。…第一、ユマ教の禁忌を犯してまでここに来る必要があるのか?」
「貴様に情報は渡さん。だが、俺はここで死ぬわけにはいかない。まだオスカル様への恩を返せてへんからな!」
追い詰められた男はナイフを取り出し、追いかけてきた女司祭へとその切っ先を向けた。
「まぁいい。どうせこちらにはカシム様方のバックアップがある。では、お願いします」
女司祭がそう言うと、その背後に広がる暗闇から、ぬるりと一人の男が現れた。
「どうもどうも。私、吸血族のザザと申します。長年ブルート様の配下をしておりましてね。いえ、今はカシム様ですが。今回はカシム様が宗教国家ユマからの資金援助を得る代わりに、ビサ、ユマの反乱分子である数人の殺害を任されております故、その命、もらい受けたいと思います」
ボロボロのマントを羽織ったそのザザと名乗る男は、何の武器も持たずに手を正面に出すと、その右手が歪に変化し、一瞬で刃物のような形になった。
「化け物め」
追い詰められたオスカルの従者はそう言って足を一歩踏み出すが、彼が気づいたときには既に自分の首が地面に落ちていた。
ザザと言う男の手には血がべっとりと付き、彼はその血を一度舐めた後、振り返って女司祭に語り掛けた。
「どうですか?今回の件はアーティファクトが絡んでいないので、残念ながらカシム本人はいらっしゃいませんが、私一人で十分でしょう?ジーナ様」
それを聞いた女司祭は鼻を押さえ、気色悪いとでも言わんばかりに顔を顰めて答えた。
「ええ。異端が消えてしまえばそれで結構ですわ」
「おい!オスカル!多分おまえの従者しんだぞ。しんおんがきこえんくなった」
「そうか、死んでしもたか。クソ!―ジョシア、君のことは忘れへんで」
「言葉遣いが汚いぞ」
「はいはい、僕はええねん。ラーラは使わんどきや」
「わかっとるわ」
貴族街の中を進むオスカルは、ラーラを肩車してなるべく暗い道を選んで走っていたが、オスカルの体力も遂に尽きて、橋の上でラーラを地面に下ろした。
「ここまで来れば大丈夫」
オスカルはまた肩車をせがむラーラを足から引きはがし、橋の欄干にもたれかかって息を整える。
敵に追い掛け回されていた緊張感から解放され、オスカルは胸ポケットからペンを取り出した。
不貞腐れたラーラがオスカルの足元に座り込もうとした時、ふと街灯の下に怪しい男がいるのを見つけた。
「だれだ?あれ」
すぐにオスカルもそれに気づき、街灯の下を見た。緊張が解けていたはずの体はいつの間にか強張り、今まで仄かに暖かく感じた月の明かりも、謎の男を照らすスポットライトのように不気味だった。
「誰や!自分もビサ共和国の追っ手か!」
オスカルがそう叫ぶと、男はゆっくりと近づいて来て、そこそこの声量で二人に語り掛けてきた。
「こんにちはー。どうも、ここら辺で情報収集してるんですけど、お話いいです?」
「追っ手か。近づくな!これ以上近づくと、自分の首、この剣でぶった切ったんで」
オスカルはペンを放り投げ、鞘から剣を抜いた。それは片刃の剣であり、鍔は丸く、その下端には扇が描かれている。
それを見た怪しい男は目を輝かせ、手にグローブをはめた。
「それは…刀じゃないか?すごい!刀があるんだ」
「近づくな!自分、ユマか?それともカシムか?」
「オスカル!こいつきゅうけつきのにおいする!」
オスカルとラーラが警戒している中、怪しい男はずんずんと近づいてくる。
「見たところ戦闘経験がなさそうだね、オスカル君」
「なんで僕の名前を知ってんねん、追っ手やろお前!」
「さっきそこのちびっ子が言ったじゃないか」
「ラーラはちびっ子じゃないぞ!12歳だぞ!吸血鬼と狼のハーフだから幼いだけだぞ」
「なるほど、成長速度が遅いとそうなるのか。俺もこれからはそうだな」
「お前ぇぇええ!覚悟しろ!僕はやらなあかんことがあんねん。このオスカルは、ここで死ぬわけにはいかへんねん!」
オスカルが刀を構え、男を左から右に薙ごうとしたが、目にもとまらぬ速さでその切っ先を止められた。
男は右手の指先だけで刀を止め、刀の刃先はグローブのせいで肉を断てなかった。
「は、はや…!」
「落ち着け。話を聞くに、君たちは俺の味方だ。手を組もうじゃないか?悪くない提案だろ」
オスカルは刀の柄に力を入れるが、とてつもない力が込められているのか、その刃はビクともしなかった。
「お前はまず、誰だ?この腐りきったビサにどんな善人がおる?」
「そうだね、善人なんてこの国にはいないだろうね。俺もまぁ大量殺人鬼だし、俺がいるとみんなが死ぬし。コ〇ンみたいな?」
「誰だコナ〇て。じゃぁ誰だよ、自分は」
「俺はクリス。お前が追われているっていうカシム達の敵だね。まぁ詳しくは俺の根城で話そう」
オスカルが力を緩め、クリスへと押し付けていた刀を鞘に納めたが、ラーラは話を聞いていなかったのか、クリスの股間を蹴り上げた。
「このやろー!」
「あがッ!」
―数分前
クリスはオファク族長ジィジからの頼みで、一人カシムにつながる情報を求めていた。
その為に彼は夜の貴族街を歩き、暗躍する怪しげな人物を探していたのだった。
「すごい。吸血族になってから初めて街に来たけど、世界が違う!」
クリスがかつて見ていた町と、吸血族になってから視界に入ってくる町は全く違うものだった。
今まで暗闇では全く見えなかった世界も、その赤い目で見通せば、遥か先風でゆらゆらと揺れている銀杏の葉の一枚一枚が確認できた。
それに、砂漠では砂交じりの風で分からなかったが、クリスは月明かりの何と明るいことだと感じた。
ヒト属は主に太陽信仰が多い。植物に栄養を与え、陸上動物に活動する熱を与え、人々が活動する時間を与えてくれる存在への畏怖。
一方の吸血族は月信仰が多かった。月が闇夜の生き物たちを照らし、潮汐を働かせ、海の生き物に多様性をもたらす。
クリスは何故彼らが月を信仰するのかが分かった気がした。吸血鬼の目に、月は少し赤く、輝いて見えるのだ。さらにその光はスパンコールをまぶしたような輝きを見せ、夜の世界へと、吸血鬼の為の時間を作り出していた。
その時、クリスは山の方から血の匂いがしていることに気づいた。
それも人の血。獣の血ではなく、人の血であるとすぐに分かった。幼い頃からすぐそばにあって、あの屋敷でも鼻に吸い込まれてきた不快な匂い。
その時、クリスの足が動かなくかった。
彼の足が、無意識に戦いから己を避けているのだ。
「動け!動け動け動け!」
クリスが足を叩き、山の方へと歩き出そうとするが、その足が地面から浮くことは無かった。
「頭では分かってるんだ。俺がやんないと、誰もできないって」
暫くクリスが道端で止まっていると、前方から怪しい二人組が来るのが分かった。
一人は獣人の子供、一人は人間。それも外国の人間なのか、独特な香水の匂いがクリスの鼻に入ってくる。
獣人の子供は男の足にしがみつき、相当彼に懐いているようだった。
外国からの人間だからなのか、単純に寛容な男だからなのか、獣人差別をしていないようだった。
その時、クリスは自身の、それまでの人生を振り返る。
戦争や革命で死んでいく若い人々。ラオで見たたくさんの孤児。故郷で見た獣人差別の数々。
それを変えられるのは、己だけであるという事。
彼らが世界を見る目は怒りと悲しみで満たされ、そこに輝きは無かった。
そしてクリスは、彼らの下へと歩き出したのだった。




