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感情が無いのが悲しい

_人人人人人人_


> 登場人物 <


 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄


笑美(えみ)

- だんだん感情が失われていくことになってしまった少女


陽介(ようすけ)

- 笑美のクラスメイト。お笑い芸人を目指している


由佳(ゆか)

- 笑美のクラスメイト。明るい少女

 感情が無いのが悲しい。

 笑美はベッドの上で乱暴に寝返りを打った。肩までのくせっ毛がさらに乱れた。

 昔はこれでも、ちょっと表情の薄い子だなあという程度だった。

 最初に無くなった感情は怒りだ。笑美はよく覚えている。

 夏休み前の騒々しい教室。隣の席の男の子はいじわるな性質だった。その日は新作ゲームの発売日だった。別の、少しおとなしい男の子が、そのゲームを入手していた。「みんなでやろうぜ」と隣の席の男の子が言った。

「じゃあ、私も」

「は? 何言ってんだよ、女子は家で勉強でもしてろよ」

 理不尽な言葉に、笑美は一旦は怒りを覚えた。視界が真っ白になる感覚を思い出せる。しかし次の瞬間、その怒りは、風船が勢いよくしぼむように、その力を失った。

 男の子にどう言い返したのかは覚えていない。何しろ、感情を失う体験は初めてだったから、そちらの方に意識が向いていたのだ。聞いた話では、笑美は理路整然と反論をして、男の子を黙らせたらしい。その後、ゲームもちゃんと遊んだそうだ。

 とにかく、その日から、笑美は怒りの感情を失った。

 ほどなくして、妬みの感情を失い、恐怖の感情を失い、さらに喜びの感情を失った。

 まだ『悲しみ』は残っている。何と言っても、感情が無いことが悲しい。しかしその悲しさも、薄いカーテンを透かしてみるように、ぼんやりとしていた。

 笑美に『恐怖』は無いが、この先の人生どうなってしまうんだろうという疑問はあった。窓の外の闇のように、真っ暗な世界が広がっているように思われた。


*


「おっはよ〜」

 登校中。笑美は後ろから背中を叩かれて振り返った。クラスメイトの由佳が、いつものように振りまくような笑顔で笑美を見ている。

「おはよう」

 笑美は会釈した。

「相変わらずのクールビューティーだねえ」

 笑美に感情が無いことは、クラスメイトの中でも知っているものと知らないものがいた。由佳は知っているほうだ。

「クールかもしれないけど、ビューティーはないよ」

 笑美はそう言って、由佳の顔を見た。

「そうでも無いよ。笑美は可愛いし、なかなか雰囲気のある子だよ」

「そうなんだ」

 昔だったら、喜びとか嬉しさを覚えたのだろうか。

「実際岸井のやつとか……」

 由佳がクラスメイトの岸井の名前を出したとき、ちょうど天然の茶髪の男子が通りかかった。岸井陽介だ。

「なに? なんか噂してた?」

 陽介は二人の横に並んで歩き始めた。

「べっつに〜」

「特には」

「噂してくれていいぜ、なんたって俺は10年後には東京でお笑い芸人のトップに立ってる男だからな」

「そうなんだ」

「そうなんだよ。だから遠慮せずに、笑ってくれていいんだぜ。ええと、これは俺のオカンの失敗談で……」

 陽介はそれから、オカンの失敗談を話し始めた。お笑いを目指しているだけあって、その口調はなかなかなめらかだった。

「……それでジイジが、『誰に似たんだか』って言ったんだよ。まったく、誰に似たんだろうな。この話はこれで終わり。笑えるだろ?」

 陽介は笑美と由佳を見た。

「笑えるよ」

 笑美はそういうと、口角を少し上げた。

「なんか冷たい笑顔って感じだけど……、笑ってくれたんなら良かった。俺はお前、感情が無いのかと思ってたからな」

「感情は無いよ」

 陽介はひとしきり笑った。冗談だと思っているのだ。陽介はまだ、笑美の感情が失われていることを知らない側の人間だった。

 陽介が元気に去ってしまうと、由佳が意外そうな顔をして笑美を見た。

「笑美って、笑うこともできたんだね」

「訓練した」

 笑美はそう言って、もう一度口角を上げた。

「……訓練?」

「面白いものを笑うときの感情って、なんていうのかな。それも、もうすでに無くなっている。でも、ほっぺたの筋肉を収縮させれば、人はそれを面白がっていると認識する」

「笑顔を作っているってこと?」

「私の表情は、だいたい全部演技」

「それは……、悪女っぽいね」

 由佳は悪女にあこがれているのだ。笑美はまた口角を少し上げた。


*


「本格的に演技を勉強してみたら?」

 出し抜けに由佳にそう言われたのは、文化祭で劇をやった次の日の昼だった。

「知ってるかどうか分からないけど、あんたのシンデレラ役、ものすごい評判だったよ。文化祭の劇で、あんなに噂になるなんて」

「気づかなかった」

「絶対才能あるって。それに、クールビューティーだし」

 笑美は少しの間考えた。

「そうだね、演技を勉強するのは、今後の生活の役にも立ちそうだし……、やってみようかな」

 恐怖という感情も無い笑美は、躊躇なく挑戦することができた。

 まず演劇部を考えたのだが、残念ながら、今の学校には無かった(知らなかった)。そこで、外部の演劇教室に通うことにした。両親は大げさなくらい協力的だった。

 演劇教室に通いだして、笑美の、動作のコピー技術はさらに精度を上昇させた。他の人間には見つけられないちょっとした所作も、笑美は見分け、コピーすることができた。発声はまだ棒読みではあったが、それでも、演技の力は大きく上がっていた。

「よっ」

 演劇教室の帰り、笑美は陽介に声をかけられた。

「あれ、岸井くん」

「俺さ、ここのダンス教室に通ってんのよ」

「そうなんだ。お笑い芸人を目指してるんじゃなかったの?」

「芸人たるもの、ダンスもできないとな」

 どこまで本気か分からない陽介の言葉に、笑美は笑った。今回は目で笑ってみた。

「実はちょっと前にさ、噂で……、お前が本当に感情を無くしてるって聞いちゃったんだ。ごめん」

「うん。隠してないから良いよ」

「いつも無理に笑わそうとして、悪かったな」

 陽介はいつになく真剣な表情で言った。笑美の観察によれば、紛れもなく真剣なようだ。

「いいけど……。私がつまらなそうにしてたから、助けようとしてくれてたんでしょう?」

 その後の陽介の動作は、笑美の観察でもよく分からなかった。いわゆる、挙動不審だ。

「まあ、そんな、もんだな。俺お前のこと好きだし!」

 陽介は怒鳴るように言うと、夜の闇へ駆け出していった。

 笑美は、見送ることしかできなかった。ついで、陽介が自分のことを好きだということが、自分の中にどういう変化をもたらすのか、それを見極めようとした。

 喜び? 本来ならそれが妥当だろうが、喜びの感情はもう消えてしまっていて、再び蘇ることはないようだった。怒り? 恐怖? 特に怒る場面でも無いし、笑美は陽介を恐れてはいなかった。

 悲しみが、小さな悲しみだけが、笑美の中に残っていた。


*


 日記をつけることにした。悲しみしか残っていないなら、悲しみの記録をつけるのも一興だろう。なお、面白がったり、興じたりする気持ちも残っていない。

 演劇教室からの帰り道にあるコンビニで、ノートを買った。さっそくそのノートを開き、今日の日付を記入する。

 それから、陽介のことを書いた。

 書きながら、笑美は、ノートに何か汚れのようなものがついているのに気がついた。それは涙の跡だった。自分でも気づかない間に、笑美は泣いていたのだ。

「悲しみか……」

 珍しく一人ごとを言うと、涙をぬぐった。そして、ハッと思いあたった。

 怒りの感情が消えたのは、ゲームがらみでからかわれて怒りの感情が高まったときだった。もしかすると、この、普段より高まった悲しみが、今後笑美の悲しみの感情を消し去る可能性がある。

 それは嫌だった。

 悲しみというネガティブな感情であっても、それが無くなるのは嫌だった。陽介の告白は、笑美の中に傷を残した。その傷までも消し去ってしまうのは、陽介に申し訳ない気がするし、笑美としても悲しいことだった。

 しかし、始まった一連のサイクルを止めることはもうできなかった。笑美は一旦は悲しみを爆発させ、そして、次の瞬間に悲しみの感情を失った。それらの流れを、一段高い位置から冷めた目で見る笑美もいた。

 最後に笑美は、日記に「悲しい」と書いた。この言葉を残して、笑美の中から悲しみの感情は失われた。


*


 それでどうなったかというと、実は大したことにはならなかった。

 少なくとも陽介は気にしなかった。

「ん〜、悲しみの感情が無くなったっていうのは、見ようによっちゃ良いことのような気もするしな。

 俺のこといろいろ考えてるうちにそうなったっていうのも、なんか嬉しいかもしれないし」

 陽介はそう言って笑った。

 由佳の態度も変わらなかった。

「悲しむことができなくなったのが、なんかこう、喪失感があるっていうのは、分かる気がするよ」

 由佳はそう言って、にっこりと笑ってみせた。

「でも、あんたはまだ笑えるしまだ生きれるし、それでいいんじゃないかな」

 そうだね。笑美は口角を少し上げた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 由佳のラストの台詞が印象的でした。 たとえ感情の伴わない笑いであっても、他の人がそう認識したら笑いなのかなと。本人も笑おうとしているわけですから、たとえ感情が喪われていたとしても、彼女は確か…
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