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短篇

人間は緑色

作者: 半ノ木ゆか

 朝。洗面所の鏡を見たら、顔が緑色に染まっていた。


 高校生の彼は、目を丸くして固まってしまった。こうなることは解り切っていたが、いざ目の当りにするとぎょっとする。


 水で洗っても、タオルでごしごし拭いても、色は落ちなかった。落ちるはずがなかった。彼もあの病気にかかってしまったのだ。


 ――人々が新しい感染症に気付きはじめたのは、三年前の冬のことだった。


 赤道近くの小さな島に住む、幼い女の子の喉に、ある日、緑色のあざのようなものができた。病院で診てもらっても、原因はちっとも分らない。そうこうしているうちにも、痣はどんどん大きくなる。一週間後には、ついに全身が若葉のような緑色に染まってしまった。


 同じ症状が、同じ村の人々にも現れた。次の週には島全体に広がり、その次の週には国全体に広がった。未知の病の存在がおおやけになったのは、病気が世界中に散らばったあとだった。


 やがて、生物学者たちが緑色の正体を突き止めた。病気の原因はウイルスでも細菌でもなく、飛沫感染する新種の藻類だったのだ。体が緑色に見えるのは、肌の細胞の中に、その藻が生きたまま居坐っているせいだ。海の動物には、自分の体の中に藻を住まわせているものがいる。初めに症状が現れた女の子は、海産物を食べたことで藻を体に取り込んでしまったと考えられている。


「わっ! びっくりした」


 袋から食パンを出していたら、大学生の姉がのけぞった。トースターの蓋を閉め、彼は眉尻を下げた。


「そんなに驚かないでよ。傷付くから」


 姉は「ごめんね」と唇の前で手を合せた。彼女はつむじから足の裏まで、すっかり緑色に染まっている。


「緑の部分、一日でかなり広がったね。昨日はコンシーラーで隠したけど、どうする?」


 化粧ポーチを片手に、わくわくした目で弟に訊ねる。


「隠す必要ないよ。もう、緑色じゃない人間のほうが珍しいんだから」


 焼きあがったトーストを一喰ひとはみする。サクリ、と美味しそうな音が響く。しかし、彼は顔を歪ませた。


「……味がしない」


 そういえば、夕辺ゆうべからお腹もすいていない。通りすがりに母が言った。


「味覚障害と食欲不振ね」


 この病気にかかると、食べ物の味を感じなくなる。食欲もなくなって、最後には水以外、口にしようとしなくなるのだ。だが、健康に影響はない。お日さまの光を浴びれば、藻が勝手に光合成をして葡萄糖ぶどうとうを作ってくれる。窒素やミネラルさえ補えば、食事を摂らなくても生きてゆけるのだった。


 姉も両親も、去年のうちに緑色に染まった。三人ともすっかり新しい暮しを受け入れている。だが、食べる楽しみが消えてしまうのが、彼にはどうしようもなく淋しかった。


 この病気を治すすべはない。世界中の医者が藻を取り除こうとしたが、すべて失敗に終っている。


 鞄を肩にかけ、高校へと続く道を歩いてゆく。気氛きぶんは落ち込んでいたが、朝日を浴びていると、どこからともなく力がみなぎってくるような気がした。



「――という具合に、若いころの私は緑色ではなかったんです」


 高校生だった彼は言った。今ではすっかり歳を重ねて、中学生に理科を教えている。


 電子黒板にヒトの細胞の絵が映し出されていた。核や糸粒体と一緒に、緑色の物体が細胞の中を漂っている。


「大昔、植物の祖先は緑色ではありませんでした。光合成をせず、他の生き物を食べて暮していたんです。ところが約十五億年前、植物の祖先の細胞の中に藍色らんしよく細菌が住み着きました。植物の祖先は物を食べるのをやめて、藍色細菌から葡萄糖を仕入れて生きるようになりました。これを細胞内共生説といいます」


 緑色の生徒たちの前で、彼は続けた。


「私が高校生だった頃、ヒトにも似たようなことが起りました。新種の藻類がヒトの細胞に入り込み、ヒトと共生するようになったんです」


 あれから半世紀。地球上のすべての人間が緑色に染まってしまった。藻は親から子へ伝わるので、生れてくる子供もみんな緑色だ。もう、これを病気と見做みなす人は一人もいない。


 変ったのは肌の色だけではない。世界の食料問題はきれいさっぱり解決した。物を食べなくても、生きてゆくことはできるからだ。


 漁業、農業、畜産業は静かに途絶えた。漁船は海に沈み、魚たちの隠れ家になった。小麦畑だった場所には草花が芽吹く。牧草地は森に戻り、鳥や獣が帰ってきた。人間は、自分勝手にふるまう暮しをやめて、本当の意味で自然界の仲間に加わりつつあるのだ。


「今日の授業、やばかったよな」


「やばかった!」


 夕焼色の通学路を三人の中学生が歩いている。一人が嫌悪と興味の入り交じった表情で言った。


「何がやばいって、先生が見せてくれた昔のテレビ番組だよ。和食屋で、まだうねうねしてる鰻を客の目の前で捌くんだ。それだけでやばいのに、蒲焼になった鰻を喰って、芸能人が『美味しいですね』って言うんだもん。俺、理解できなかった。俺に言わせてみれば、昔の人間の一番エグいところって、食べ物を食べ物としてしか見られないところだよ。食べ物である前に、それは生き物なのに」


 ミネラル飲料の容器を片手にぶら下げながら、もう一人がほっとしたように言った。


「人間が緑色になってよかったよ。おかげで、鰻も鮪も絶滅せずに済んだんだから。――なあ、お前もそう思うだろ?」


「いや、僕は思わない」


 理科の授業の録画を見ていた、三人目が答える。スマートグラスの電源を切り、彼は顔を上げた。


「ウナギやマグロが滅びかけたのは、ヒトが食べるからじゃない。ヒトが、食べる以上の数を殺すからだ。獲る量や買う量を自分たちの意思で調節できていたら、緑色にならなくても共存できたと、僕は思う」


 二人は黙り込んでしまった。彼は「ふっ」と笑って、付け加えた。


「まあ、絶滅させる未来しか見えないけどな」


 澄み渡った星空に、三人の笑い声が響いた。

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