第一話 生きているって実感がわかない
〈次のニュースです。本日14時頃に新宿で仮面をつけた男が暴れているとの通報がありました。男は現在逃走中であり、警察は捜査を続けております。仮面をつけた人が暴れているとの通報は今月で6件目となります〉
生きているって実感がわかない。そんな平凡な日常。いつものようにニュースを垂れ流しながら朝の準備をしていると、今、世間を騒がせている事件について報道されている。少し気になったのでコーヒーを飲みながら目線だけをテレビに向けるが、表示されている時間が8時を回っているのに気づき、急いで洗面所へと向かった。
〈仮面をつけた人物を見かけたら、その場で対処しようとせず、すぐにその場を離れて危険を自ら避けるようお願いします〉
髭を剃っている時間が人生で最大の憂鬱を感じる時間だ。毎日仕事に行く前に必ずやるからだろう。そして、毎日同じ職場に出勤する。それが当たり前のことなのかもしれないが、少々退屈だと感じることがある。だからといって、遊んで暮らせるほどのお金もなければ、自由に稼げるような才能も能力もない。毎日が変わらない。
〈また、血だまりの中に仮面が落ちているとの通報も今月で8件と非常に多く、出かける際には細心注意を払ってください。できるだけお出かけは控え、家で過ごすようにしましょう〉
部屋には平日の朝限定で匂うコーヒーの香りがほのかに残っている。カフェインで目を覚ますために毎日飲んでいるが、効いたためしがない。疲れがとれていない体を無理やり動かし、俺は代り映えのしない日常に足を踏み出していった。
ああ、生きているって実感がわかない。
〈この件で4名の方が犠牲になっており―〉
◇◇◇◇◇
「おはよう北上君。ニュースは見たかい?」
今朝のニュースのことだろう。出勤の途中何度も「仮面」という言葉を耳にした。社内でもこの話題で持ち切りなのだろう。
「仮面のやつですか。世の中も物騒になりましたね」
「見ているのなら話が早い。出社した後に言うのもなんだが、うちの部署、今日からリモートワークだ。必要な資料とかまとめたらすぐに帰宅したまえ」
おそらく最後に出勤したであろう俺に先輩はそれだけ伝え、そそくさと帰っていった。その姿を横目で見送り、自分のデスクで必要な資料をまとめていると、遠くからパトカーのサイレンがけたたましく聞こえてくる。
「あ、北上君。まだいたんだ。早く帰らないと課長が怒るよ~って、その課長もう帰ったんだった」
同期の楠もまだ残っていたらしい。手には持ちきれないほどの資料を抱えていた。優秀な彼女もリモートワークに切り替えている真っ最中であるのは間違いないが、その量の資料を持って帰ろうとするのはさすがに心配である。資料を落としてしまったら課長が怒るどころでは済まないはずだ。
「持って帰るの手伝うよ。楠の家、ちょっと遠いだろ」
「いいの?ありがと。いや~北上君は気配りができる男ですな~」
「小柄な楠が目の前で潰れないか心配になっただけだ」
「心配性だね。でも優し~。いつも疲れた顔してんのもったいないよ。せっかく若いんだから、シャキッとしてさ」
「余計なお世話だ」
からかうように笑う楠を無視して自分の作業を進めることにした。さっきのサイレンや楠の声を含めても、いつもより社内は静かだった。ふと、見渡してみると、ほとんど物の置かれていない机がめにとまる。毎日忙しなく動いていたコピー機の音や怒りっぽい部長の怒声も聞こえてこない。それだけで、非日常的であると錯覚してしまう。再び外からサイレンの音が鳴り響く。今度はさっきよりも近い。
「おお、今日パトカー多いね。私たちも早く帰っちゃおうか」
「ああ」と無意識に返していた。俺の意識には、サイレンの音にかき消されながらも微かに聞こえてくる異音があったからだ。しかもそれが近づいてきているように感じる。いや、近づいてきているのはサイレンの音で、この風を切るような異音の正体は…。
「楠!伏せろ!」
ガシャンと窓の割れる音が響き、衝撃が建物ごと俺を揺らす。まとめていた資料も宙を舞っていた。ガラガラと何かが崩れる音が耳に纏わりつく。自身が今どのような状態であるかも分からない。ただ、この体で受けた衝撃を全て出すかのように、大きく息を吐きだすことしかできなかった。焦点が合わない目をどうにか窓の方へと向けると、そこにはパトカーが突き刺さっていた。乗っている警官は気を失っているように見える。
脳の処理が追い付かない。さっき遠くで聞こえていたサイレンはこのパトカーのものか?いや、そうじゃない。楠はどうなった?生きているのか?
「楠!どこにいる!大丈夫か!怪我はないか!」
「あいたた、心配し過ぎだって。私は大丈夫だよ。でも、足が震えてうまく動かないや」
とっさに机の下に隠れたのだろう。楠の無事は確認できた。しかし、大きな棚が倒れていたりと足場が不安定になっているため、楠を抱えてここを離れるのは難しい。楠は身動きが取れなくなっている。この状況で、楠の安全を確保するならどうしたらいい?
「北上君は先に逃げなよ。私は足が動くようになってから逃げるよ」
置いていけるはずがない。楠は俺を安心して行かせるようためか、優しく微笑んでいる。警察に連絡して助けを待つ?騒ぎを聞きつけてすぐに救助隊なり何なりが出てくるはずだ。いや、この状況を巻き起こしたのがその警察が乗っているパトカーなんだから頼れるはずがないだろう。
ガチャッと、突然ドアの開く音が俺の思考を止める。乗っている警官が目を覚ましたのならよかったのだが、開いているのは後部座席の方だ。フロントガラスからも視認することのできるその仮面が、こちらを捉え蠢いている。鋼色の仮面はいたってシンプルなものだった。特徴といえば真ん中に赤い線があるくらいだろか。
バリンッ!とガラスのはじけ飛ぶ音が、仮面をつけた男の接近を教えてくれる。ボトリと頭部だけになった警官が転げ落ち、ドアを開けたのは乗っていた警官を外に捨てるためだったのだと、血に染まった男の右腕を見てひしひしと感じる。グチャ、と仮面をつけた男の通り道に落ちていた頭部だったモノが弾け、鮮血が飛散し、俺たちの元へと届く。
恐怖をどうにか抑えていた楠ですら、この状況で怯えを隠せなくなっている。
「楠。ここに隠れてろ」
気持ち程度の盾にならないかと、着ていた上着を楠に渡す。今度は俺が楠を安心させるようにどうにか微笑んで見せた。俺も冷静な判断ができなくなっているのだろうか。たまたま近くに落ちていた消火器を持って、音を立てないようにゆっくりと仮面をつけた男との距離をつめる。
楠だけでも助かるならそれでいい。俺は死んだって構わない。違う。最初から俺は死人のようなものだ。この状況ですら『生きているって実感がわかない』。
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既に言葉ではなくなっている。この男は本当に人間なのか?そんなことを考えている場合ではない。障害物が多い分、視界を奪えば時間を稼げるはずだ。イチかバチかやってみるしかない。
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覚悟を決めたというのに、体が言うことを聞かない。五感も狂い始めているように感じ、先ほどの風を切るような異音が、再び微かに聞こえてくる。その音の発信源が、仮面をつけていないただの人間であると、一瞬見えたかもしれない情報で視覚が脳に訴えかけている。
「縺溘☆縺代※繧ゅ≧縺溘∴繧峨l縺ェ縺?シ」
仮面をつけた男が飛びかかると同時に、上の階からガガガッという音が降ってくると感じた時には、俺たちのいる階の天井が突き破られ、気づけば、この数秒の出来事を全て起こしたと思われる人物が目の前に立っていた。
「生きているか?」
瞬間、俺は初めて生きているって実感が全身を駆け巡った。