ガンコ社長がweb小説家の女に恋する話
「おいっ! 外のトイレにべっとりウンコつけといて掃除してないの誰だっ!?」
俺は事務所に入るなり、そう言って怒鳴った。
従業員5人は既に出社していて、一斉に俺の顔を振り返る。
俺は一瞬で見つけた。
その中で一際びくびくしているヤツを。
「社長。おはようございます」
「トイレ汚かったんですか?」
「っていうかトイレより前に事務所に顔出してくださいよ(笑)」
「おい。朝に共同トイレ使ったヤツ、誰だ~?」
一人だけ声も出さずに、オドオドしているやつがいる。やはりそいつがあからさまに怪しい。
「苧環……、お前だな?」
俺はオレンジ色をした髪に黒縁メガネをかけた、つまようじみたいに色気のない女に声をかけ、睨んだ。
「いい加減にしろ! 汚したら自分で掃除するのが人間として当たり前のことだろうが!」
「わっ……、私じゃないです!」
苧環一美は生意気に口答えして来た。
「なっ、なんであたしだって思うんですかっ!?」
小賢しそうな丸型の黒縁メガネが鼻につく。コイツが化粧っけなく、ひっつめ髪のくせに、どことなく超絶美人のように偉そうなのは、自分のことを特別な、選ばれた人間だと思ってやがるからだ。ブスではないのに彼氏作りにちっとも興味がなさそうなのも、自分に釣り合うオトコなんてこの世には有名な学者レベルしかあり得ないと思っているからに違いない。
俺はコイツが嫌いだ。理由があって嫌いだ。嫌いだから何でもすぐにコイツのせいにする。
「お前しかいないだろうが!」
俺は高いところからゲンコツを落とす勢いで言ってやった。
「他に誰がいるってんだよ!? ウチの従業員はお前以外はちゃんとした善人ばっかりだ!」
「ひどいです……!」
苧環の黒縁メガネの奥に涙が浮かび、さすがに俺はちょっと後ずさった。
「証拠もないのに……。言っておきますけど、あたし、肛門にイボ痔があるんで、あんな和式トイレでウンコはしないんですよっ!?」
こういうところだ。
コイツはいつも、あまりにも正直に、人が聞いて引くようなことを口にしすぎる。
みんな引いていた。誰も助けようとはしない。やっぱりコイツは従業員みんなからも嫌われている。
「社長……」
伊集院茜が黒いハイヒールを鳴らして前に出た。
「おトイレのことは私がみんなに注意しておきます。それより今日のスケジュールのことですが……」
伊集院にそう言われ、たちまち俺は機嫌が直ってしまう。彼女は俺が一番信頼している社員だ。
いつも綺麗にセットしている栗色の髪、当然のエチケットとして毎日不快感のない程度にたしなんでいる化粧。見た目の好感度が高いだけでなく、まだ27歳の若さとは思えないほどにしっかりしている。苧環よりたった一つ年上だとはとても思えない。
この女に『社長』と呼んで貰える俺は幸せ者だと、つくづく思う。
俺の名前は熊田豊、54歳。自動車の陸送会社を3年前に立ち上げ、今では従業員5人を抱える社長様だ。頭は薄く、顔は怖いがイケメンで気も優しい。見た目と名前から『熊レスラー』を縮めて『クマラー』と親しみを込めて呼ばれている。
まだまだ会社は小さいが、俺には天下のM自動車にコネクトがある。面白い冗談を言って人を楽しませる才覚もある。みんな俺について来い。俺と未来の一流企業を作り上げよう。
苧環のような不良人間も憐れんで世話をしてやれるような俺、立派な人間だとは思わんか?
俺は好き・嫌いで人を差別しない。デキるヤツは尊敬するし、ダメなヤツもちゃんと俺が矯正してやる。そんな素晴らしい人間なのだ、俺は。
「お客さんのところへ車を引き取りに行く。ついて来い」
そう言うと、俺は伊集院と苧環二人をダブルキャビンの1トントラックに同乗させた。もちろん伊集院が助手席、苧環は後部座席だ。
「車はデミオとレクサスLS……。2台とも自走可能ですね?」
伊集院がいい匂いを口から出しながら俺に聞く。
「ああ。伊集院がレクサスに乗って帰ってくれ。苧環はデミオな」
「ガソリン抜いていいですか?」
苧環が目を輝かせ、悪い心を丸出しにして聞いて来る。
「あたしの車、もうガス欠間際なんですよ。ホースとポンプで移しちゃっていいですか?」
俺は溜息を一つ、大きく吐くと、言ってやった。
「お前、それ、泥棒だって、わかってるか?」
「えー? だって男性社員の人、みんなやってますよ?」
「みんなやってるからって、悪いことでもお前はやるのか?」
「役得じゃないですか。みんながやってるの社長も黙認してるでしょ? なんであたしだけダメなんですか!」
「お前は日頃の行いが悪すぎるからだ! ちっとは自分のことをわかれ!」
「それ、差別ですよ!?」
「何が差別だ! 人によって許されることと許されんことがあるんだ! いいか? ジュースの自動販売機が壊れてて、一本買ったら二本出て来たとするぞ? その場合、普通の人には『ラッキーだな』と言うだけだが、お前には一本は返せと命じる。窃盗癖のあるヤツに二本取るのを許したら、調子に乗るからな!」
そう。苧環一美には窃盗癖があるのだ。
コイツは一つ前の会社をクビになって路頭に迷っていたところを知人に頼まれて俺が引き取った。
何でも運送会社でドライバーをやっていたらしいが、そこで会社のトラックの燃料タンクから軽油をこっそり抜いて、その時自分が所有していたクリーンディーゼルの自家用車に移していたらしい。
俺はコイツを矯正し、善い人間にしてやるために引き取った。
「だって社長、入った時『俺には隠さずなんでも言え』って、言ってくれたじゃないですか!」
苧環が子供のようにそんな文句を言うので、助手席の伊集院がクスッと笑った。俺は説教してやることに決めた。
「他人が聞いて不快に思うようなことぐらい、わかれ。『前の会社では私、燃料泥棒してたんですよ〜』なんて正直すぎること聞かされて、良く思うヤツがいると思うか?」
「隠さずなんでも言えって言ってくれたくせに……!」
苧環は唇を尖らせて繰り返した。
「この人アニキだ! って思って、信頼できると思ったのに……」
「泥棒に信頼されても困るわ……あ!」
俺はけしからんものを見つけ、急いで左ウィンカーを出した。
「ちょっとコンビニ寄るぞ」
「あらあら」
伊集院は俺が見つけたものをすぐにわかったようで、可笑しそうに言った。
「おかわいそ〜。よりによって社長に見つかっちゃうなんて」
コンビニの前でタバコを吸っている若いカップルを見つけたのだ。今時のコンビニは灰皿を撤去しているところが多い。その店には灰皿が置いてあったが、カップルはそこから離れた場所で喫煙しており、俺が見た時にちょうど男のほうがポイ捨てをしたのだった。
「なぁ、君達」
俺はカップルに歩み寄るなり、穏やかな声で説教をしてやった。
「今時のコンビニがなぜ、灰皿を撤去しているところが多いか、知ってるか?」
「はぁ?」
「何、このオッサン」
「お前らみたいのがいるからだッ!」
俺は声を荒くした。
「俺はタバコは吸わんが、きちんとマナーを守ってらっしゃる喫煙者の人に同情するッ! 自分は真面目にタバコを嗜んでいるのに、お前らみたいなのがいると喫煙者みんなが同類と見られてしまうんだッ! 今捨てたタバコを拾え! 拾って、持って帰れ! ポイ捨てをした犯人に灰皿を使うことは許さんッ!」
「めんどくさ……」
「アタマおかしいんじゃないの?」
「なんだとッ!? もういっぺん言ってみろッ!」
俺は若い頃レスリングをやっていたので強い。『クマラー』と呼ばれているのはそういうわけだ。その強さが体中からオーラとして立ち昇っている。悪人カップルは恐れをなして吸い殻を拾うと、ブツブツとアホな呟きを残して去って行った。
今日もまた善いことをしてしまった。
一日一善。俺って最高だな。
さぁ、行くぞと振り返ると、苧環が灰皿のところでタバコの煙をくゆらせていた。
「苧環ッ! 何やってんだッ!」
「は? ダブルキャビンの中、禁煙なんで、ここで一服してるんですが? ちゃんと灰皿使ってるんだから文句言われる筋合いないです」
「女がタバコなんか吸うなといつも言ってるだろうがッ! 子供を産む時に後悔することになるんだぞ!?」
「社長に関係ないと思いますが?」
「あ……。お前、引き取った車の中で吸うなよ? たとえ灰皿があっても吸うな。商品なんだからな。お客さんの誰かにもし見つかったらウチの信用が……」
「吸いませんよ」
「信じられんわっ!」
俺は言ってやった。
「どうせ窓を全開にして吸うつもりだろうがッ! だからお前にはデミオなんだッ! レクサスには乗せれんのだッ!」
デミオとレクサスは別の場所にあった。俺はまずデミオの置いてあるM自動車直営の中古車販売店で苧環を下ろすと、一応釘を刺しておいた。
「タバコ……吸うなよ?」
「はーい」
自由になった苧環は楽しそうに仮ナンバープレートの入った袋を抱えて店の中へ入って行った。
「アイツ……、絶対吸うよな」
「苧環さんは自由すぎますね」
クスクスと笑う伊集院からいい匂いが漂って来る。
伊集院と車内で二人きりになると、俺はいつもちょっとワクワクしてしまう。もちろん俺には妻がいるし、二人のまだ幼い子供もいる。不倫など絶対にしないが、しかし妄想するぐらいは構わないだろう?
「ところで茜くん」
俺は社長の特権で彼女を下の名前で呼んだ。
「小説投稿サイトって閲覧したことあるか?」
「あら。もしかして、パソコン音痴のクマラー社長がそんなものにご執心なんですか?」
「パソコン音痴は関係ないだろ。スマホで見てんだ。スマホで」
「私は読んだことないですけど……。お気に入りのネット小説でも見つけたんですか?」
「ああ。素晴らしく善い物語を書く女性がいるんだ」
俺は苧環にひっかき回された心を穏やかにして、微笑んだ。
「聖母マリア様かと思うぐらい、心が正しい女性だよ。彼女の作品に大ハマりしてしまってね……」
「あらあら。恋をされたんですのね」
「精神的な恋だよ。それなら家族持ちでも構わないじゃないか?」
「まぁ、大目に見て差し上げますわ」
伊集院がまたクスクスと笑う。
「実を言うと……君じゃないかと思ってたんだが……」
「え?」
「いや……。その……作者が……ね」
「あらあらあら」
伊集院に大笑いされてしまった。
「私は小説なんて書いたこともありませんよ〜」
「とりあえず、君も読んでみろ」
俺はスマホを取り出し、ファンになってしまったその女性作者のページを開き、俺のお薦め作品をタップすると、彼女に渡した。
「あら?」
伊集院は作品ページを見るなり、声を上げた。
「お名前、『小田マキ』さんですのね?」
「おいおいおいおい。言いたいことはわかるが……」
俺は慌てて彼女がそれ以上言うのを止めさせた。
「言いたいことはわかる。だが、あの苧環とは関係ない。あるわけがないだろ」
伊集院が言うには、苧環は仕事の待機時間にはいつもスマホで何かをシコシコ書いているとのことだった。
しかし、あり得ない。心根の腐った、何も出来ないくせに偉そうなこのダメ女が、あんな素晴らしいものを書くわけがない。
事務所の隅で折り畳み椅子に座って、スマホで何かに没頭している苧環に、俺は出来るだけ穏やかに声をかけた。
「何をやってるんだ、仕事中に?」
うるさそうに軽く睨まれた。
「ゲームか?」
「今は待機中なんだから自由にしてていいはずです。そうでしょう? そして私が何をやっていようと私の自由です」
黒縁メガネの奥の目が鋭い。
伊集院の言ったことが気になっていたわけじゃない。なんとなくだ、なんとなく俺は聞いてみた。
「最近、小説投稿サイトというのが流行っているそうだが……。もしかしてお前もそういうのを書いているのか?」
苧環は表情一つ変えずに、無言でスマホを操作し続けている。いかにも俺が近くにいるのが邪魔だという感じだ。
「どうなんだ?」
返事がないのでもう一度聞くと、フッと意味のわからない笑みを浮かべた。どういう笑いなんだ、それは。バカにしてんのか? それとも、まさか……本当に……お前が……? 俺の大好きなあの……小田マキなのか?
そんなことはあり得ないッ!
「何するんですか!」
苧環が叫ぶ。
俺は思わず苧環のスマホを奪い取っていた。構わず画面を見てやる。あり得ないんだ。しかし……もしかしたら……!
画面にはヘタクソな猫の絵が描かれていた。
もし俺がこんなものを人に見られたら恥ずかしさで自殺するかもしれないというほど、ヘタクソな。
苧環の顔を振り返ると、泣きそうになっている。
「す、すまなかった……」
滅多にしない謝罪をした。
苧環は勢いよくスマホを俺の手から奪い返すと、事務所の外へ走り出して行った。
俺は社長椅子に座り、小田マキさんの小説を読む。
ブラックコーヒーを飲みながら。これが俺の至福のひとときだ。
俺は彼女に恋をしている。本名も顔も知らない彼女に。だからこそ恋してもいいのだ。妻も子供もいるこの俺が恋をするなら芸能人か、ウェブ小説の作者しかない。
【人はすぐに人をバカにする】
心温まる善良なヒューマンドラマの中で、彼女は書いていた。
【その人自身を知りもしないで、勝手な『型』に当てはめて、それが見下すべきようなものなら、『型』で一緒くたにしてバカにしてしまうのが楽なのだ】
そうだよな、と俺は考えさせられる。
タバコをポイ捨てするような輩はその一事だけで見下してやるのが正しいが、タバコをポイ捨てしそうなやつだからといって見下してやってはならない。しっかりと、先入観に流されず、そいつ自身を見てやらなければな。それが善良なる社長としての務めだ。
もちろん苧環は見下すべきだが。何しろアイツは前の会社で燃料泥棒をしたのだからな。
小田マキさんの活動報告が上がっていた。
【現在、イラストの練習中。自分の小説に挿絵を入れたいのです。前に投稿した『公園のマリアと呼ばれた猫』の主人公、猫のマリアを描きたいのですが、何しろ絵心がないので難しくて、難しくて……】
えっ? と、俺は声が出そうになった。
小田マキさんの絵が近々見られるのだろうか? 心がウキウキした。
あんな美しく善良な文章を書く人の絵だ。きっと絵心がないなどと謙遜しながら、とんでもなく目に心地良いことだろう。
俺はたまらず活動報告に書き込みをした。
【挿絵、楽しみにしております。 (クマラー)】
初めてのメッセージ送信だった。ポイントはいつも入れていたが、恥ずかしいので感想すら書いたことがなかった。まるでラブレターを送ったようにドキドキした。彼女は俺なんかに返信の言葉をくれるだろうか。書き込んだメッセージを削除しようか。今ならまだ彼女は見ていないかもしれない。でも返信もらったらさぞかし飛び上がるぐらいに嬉しいことだろう。でも恥ずかしい……。書いたばかりのそれを削除しようかどうか、迷っていると、隣の休憩室から誰かの甲高い声が聞こえた。
「クマラー!?」
誰の声なのかはすぐにわかった。俺が怖い顔をしながらドアを開けると、ジュースを前に置いて苧環が、スマホを両手で持ちながら、振り向いた。
「俺がどうした? 何が言いたい?」
そう言いながら睨むと、へらへら笑い出す。
「何でもないです」
人をバカにしたような笑顔だ。
「スマホで遊んでる暇があるなら掃除でもしろ! まったく、やる気のないやつだな!」
ドアを閉めたが掃除を始めた気配はない。まったく、使えないやつだ。
スマホを再び開き、彼女の活動報告を見る。
なんと! 俺のメッセージに彼女から返信がついているではないか!
【ありがとうございます。本当に下手なので、あまり期待しないでくださいね汗 (小田マキ)】
『ほっこりする』というのはこういう気持ちのことだろうか。
俺は彼女からの返信を6回読み返すと、スマホを胸に抱き、そっと画面を閉じた。
次の日は伊集院と苧環二人を新車の車検を通しに行かせた。本当は誰か男性社員を行かせたいところだったが、みんなオークションの仕事に行っていて、苧環しか空いていなかった。
R運輸の下請けの仕事で、牧田課長も後から現場を訪れるらしい。失礼なことをバカがしなければいいが……。挨拶ぐらいちゃんと出来るんだろうな?
待ち時間の多い仕事なだけに、そういうとこ不安だ。くだらんスマホ遊びに夢中になるあまり、課長を無視したりしそうで怖いんだ、アイツは。とりあえず牧田課長にも苧環が挨拶をしなかったら叱ってくれるよう、言ってはあるが……。
小説投稿サイトを見ると、小田マキさんの活動報告がまた上がっていた。
【今日は執筆する時間が結構あるので、書きかけの作品を仕上げてしまいたいと思います】
うひょーっ。それは嬉しい。ぜひぜひ、他のことで気を散らさないよう、執筆に集中して頂きたいものだ。
そして彼女の身近であったらしい、こんなことが書かれていた。
【この前、仕事中のことなんですけど、同僚の女性が、お客様からの預かり物の高級車の中で、窓を全開にしてタバコを吸っているところを偶然見かけました。私も喫煙者で、同じくお客様の車に乗っていたのですが、我慢していました。でも彼女が吸うなら……私も吸っても……と一瞬思いましたが、何しろ私はドジなので、火のついたタバコを車内に落としたりしたら大変! 何よりやっぱりそれはいけないことなので、やめました。皆さん、他人が悪いことをしていても、『じゃあ自分も』ではなく、しっかりとした意思を持ちましょう】
彼女、タバコ吸うんだ……。
ちょっと残念だったが、その後の文章が素晴らしい。そうだ! 他人が悪いことをしているからといって、自分もそれに流されてはいけない! タバコのことを差し引いても、やはり彼女は素晴らしいひとだ。正しく善良だ。俺はますます小田マキさんのことが好きになった。
その日の夕方、R運輸の牧田課長が俺のところに訪ねて来た。
「お疲れさまです! ウチの二人はどうでしたかな? 失礼はなかったですか?」
俺が笑顔で聞くと、牧田課長は凄く言いたいことがあるみたいな悪戯っぽい笑顔で、俺に知らせてくれた。
「苧環さん、社長の言った通り、僕に挨拶をしなかったですよ」
「あのバカ! 失礼な真似を……やはり、したか! スマホでもいじってたんでしょうか?」
「いえ。ずっとオドオドしながら僕のほうをじっと見てたんですが、まるで『あんなバカに挨拶なんかしてたまるか』みたいな目で……。伊集院さんはもちろん気持ちよく挨拶をしてくれたんですけどね。苧環さんは……。常識がなさすぎるどころか、根本的に再教育が必要ですよ、あの子は」
「かーーっ! 申し訳ない!」
俺は深々と頭を下げた。
「ウチの社員の無礼は私の無礼です。深くお詫びを申し上げます。ちゃんとこの私が苧環を教育してみせますから、何卒、どうか、お許しを願います」
「頑張ってくださいよ」
牧田課長は面白いものを見るように笑いながら、言った。
「あれは骨が折れるでしょうけど」
俺はもう会社に帰っているはずの苧環を探した。どうせアイツのことだ、喫煙所でタバコでも吸ってやがるのだろう。外へ出て、足音を殺して自動販売機の奥に隠れるように設置した喫煙所へ、突然姿を見せてやった。
「あっ……!」
伊集院茜が俺を見ると、咄嗟にタバコを隠した。
「茜くん!?」
俺はびっくりして声を上げた。
「君……、タバコ吸うのか!?」
「たっ……、たまにですよっ。たまに」
ふと、小田マキさんの活動報告の文面が頭に浮かんだ。小田マキさんがもし苧環なのだとしたら、高級車の中でタバコを吸っている同僚を見かけたというのは……。
「茜くん……。まさか、この間、引き取ったレクサスの中で吸ったりしてないよな?」
「しませんよっ」
伊集院は笑い飛ばすように、言った。
「苧環さんじゃあるまいしっ」
「そうだよな」
俺はバカなことを聞いた自分を恥じた。
「苧環じゃあるまいし、な!」
それからしばらくしたある日、俺は苧環と二人で同じ車内にいた。取引先へ伺うのにちょうど苧環が仕事でその近くを通ることになっていた。仕事のついでに俺は送ってもらうことにしたのだ。
車は2トンの保冷車。狭いキャビンの中で俺達はしばらく会話もなく隣合っていた。
ハンドルを操る苧環をチラチラと見てしまう。どうにも、気になる。
「今日はどうしたんだ」
たまらず聞いてしまった。
「いつも髪、ひっつめてるくせに」
オレンジ色のふわふわした髪が俺の視界の端で柔らかくずっと揺れているのがどうにも気になって仕方がなかったのだ。
「ゴムが切れたんですよ。髪留めも持ってなかったんで」
苧環は前を見つめたまま、答えた。
「それに今日は毛先の方向性が調子いいんで、いいかなって思って」
何が毛先の方向性だ。難しげな言い方しやがって。
しかし高卒の俺が大卒のコイツを部下として使っていることにはちょっと気持ちよさを感じる。人間、学歴じゃない。いかに善良であるかどうかなんだ。
「どうですか?」
苧環が唐突にそう聞いて来たので、俺は意味がわからなかった。
「どうですか? って、何がだ」
「あたし、綺麗ですか?」
迂闊にもドキッとしてしまった。
「綺麗ですか……って、バカか、お前」
心を隠すように俺は笑い飛ばしてやる。
「そういうことは常識ある人間になってから言え」
「また色メガネ?」
なんだか知らんが言い返して来やがった。
「あたしのどこが常識ないんですか?」
「燃料泥棒するようなやつに常識なんかあると思うか?」
「あっ……、あれはっ……」
「なんだ? 言い返したいことがあるなら聞いてやる」
「勤務地が変わったんですよ。それまで車で10分のところだったのに、急に40分のところに」
「ふんふん?」
「それなら交通費を今までより多くくださいって言ったけど、通らなかったんで……」
「ん? どういうことだ?」
「今まで通勤時間10分の燃料代を計算して交通費を貰ってたんですけど、40分になったらあたしが損をするんですよ。それをくれないっていうから……」
「それで腹いせにやったのか」
「腹いせっていうより、損するでしょう? 自分でなんとかしないと」
「俺ならしつこく交渉するけどな。いい大人なんだから。交渉しても駄目なら諦めるぞ」
「……で、他には? 他にあたしのどこが常識ないっていうんですか?」
「お前、この間、R運輸の牧田課長に、車検場で会っても挨拶しなかったんだってな?」
さすがに言い返して来ない。ざまぁ! 俺は笑いながら、続けて言ってやった。
「社会人失格だ、お前は。どうせスマホばっかり見てて、課長が来たのに気づいてもなかったんだろ?」
唇を尖らせて、何も言わなくなりやがった。
「取引先のお偉いさんに会ったら挨拶するんだ。そのぐらいわかれよ。もう26歳だろ? 高校生だってそのぐらい知ってるぞ」
マウントを取るように言いながら、アホ女の横顔をじろじろ見てやった。
初夏のキラキラした太陽がオレンジ色の髪を透かして、苧環の横顔に光の化粧をしている。化粧っけのないぶん、素肌の美しさが際だって、女の色気を撒き散らしていた。尖らせている唇に、俺は思わずキスをしたくなった。
いや、待て、俺。
今、何考えた!?
考えたことを隠すように、俺は何も言わなくなった苧環から目をそらし、自分のスマホを取り出した。忙しかったのでまだ見ていないが、小田マキさんが珍しくエッセイを投稿していたのを思い出した。
『しなかったことはやる気のなかったことと同じ』というタイトルのエッセイだった。
それによると彼女は最近、仕事場で取引先の上司とばったり出会ったらしい。挨拶をしようと近寄るたび、相手が誰かと会話を始めてしまう。要領のいい同僚の女性はそれでも会話の間に割って入って挨拶したが、引っ込み思案の自分にはそんなことが出来ず、遂に挨拶をすることが出来なかったそうだ。
俺は思わず目尻が下がってしまった。
かわいいな。やはり彼女は善良な、素晴らしい人だ。
挨拶ごときでそんなに気にすることはないんだよ、と言ってあげたかった。っていうか挨拶ごときで必死すぎるだろ。どれだけ挨拶したいんだ、この人。善良さが文章から滲み出してるよな。そもそも挨拶なんかする気もない苧環とは大違いだよ。
そんなことを思いながら顔を上げると、信号が赤に変わるところだった。
それまで片側2車線だったのが信号を越えたところで1車線に減少している。苧環は前が詰まっているのに黄色で交差点に進入した。ハンドルを左に切ると、減少する間際の左側車線に2トン保冷車を突っ込ませ、ゼブラゾーンの上で停止する。
「何やってんだ!!」
俺は罵声を浴びせた。
「なんでこんなところに停まるんだよ!!」
「は?」
苧環がバカにするように俺の顔を見る。
「テメェ! 自分1人が先に行きたいからって勝手なことしてんじゃねぇぞ!! ちっとは常識ってもんを勉強しろ! アホ! 糞バカ! もっと善良な人間になる努力をしろ!!」
何やら悔しそうな顔をして俺を睨んで来る。なんだ。言いたいことがあるなら言ってみろや。どうせお前の屁理屈なんか、俺の豊富な知識と経験でひっくり返してやるけどな。
結局苧環は何も言えず、車列が動き出すと左から割り込む形で動き出した。大きな溜息を俺は吐くしかなかった。まったく……。こんなアホな運転をするやつの隣に乗っているだけで恥ずかしい。
帰りは伊集院がちょうど前を通るので隣に同乗して送ってもらった。
「茜くん……」
俺は黙っていられなかった。
「どうして右側車線をずっと走るんだ?」
「え?」
意味がわからないようで、伊集院は運転しながら俺の顔を見つめて来た。
「車はキープレフトだということは知ってるね? ゆっくり走っている自覚があるなら、左側を走るんだ。右側はどうしても追い越しをしなければならない時か、右折する1km以内でなければ、走ってはならん」
「すっ、すいません」
そう言うと安全確認をし、伊集院は左側へ車線変更した。
「すいませんはこっちのほうだ。うるさいオヤジですいませんね」
「いえいえ」
伊集院がにっこりと微笑む。
この身なりのきちんとした、美しい女と同乗していると、やはりワクワクしてしまうのはどうしようもない。しかし、この間のタバコのことといい、少し評価は下がってしまった。苧環ならともかく、まさか伊集院にこんな注意をしなければならんとは。
伊集院の隣に乗りながら、俺はスマホを開くと、さっきの小田マキさんのエッセイをもう一度読んだ。その心の清らかさにまた感動してしまい、思わず初めての感想を書いてしまっていた。
【そういうこともありますよ。そこまで挨拶したいと思い詰めるあなたの綺麗な心に僕は感動しました。頑張ってください (クマラー)】
会社に帰ると苧環がなんだかニヤニヤしていた。何も言わずにやたらと俺につきまとって来る。一体なんなんだ。
「クマラー」
ようやく口を開くと、社長の俺様に向かってそんな呼び方をして来た。
「叩くぞ!」
俺は凄んで見せる。
「その呼び方をしていいのは俺と対等の立場のやつだけだ! お前は『社長』と呼ばんか!」
「クマラー」
再びそう言いやがったので、叩く真似をしてやると、頭をかばいながら、こんなことを言う。
「スマホ、見てみたほうがいいよ?」
背中を向けて、たっと逃げて行く。今日はひっつめていないオレンジ色の髪が、夕日と同化して消えてしまいそうだった。
「スマホ……?」
苧環の言ったことが気になり、スマホを開いて見たが、特に何の通知も来ていない。開いたついでに小説投稿サイトを立ち上げてみると、小田マキさんの新作エッセイが投稿されていた。
「へぇ……。彼女、車の運転についてのエッセイなんか書くんだな?」
『安全と円滑とは何か』というタイトルの交通エッセイだった。言うまでもなく道路交通法の理念は『安全』と『円滑』だ。彼女はしかし、その意味を履き違えているドライバーが多い、とズバリと書いていた。それは自分だけの『安全』、自己中な『円滑』ではなく、交通全体にとっての『安全』と『円滑』のことだと理解しなければならないと言うのだ。
うん、さすがだ。自己中に自分だけが安全ならいいとか、自分だけが先に行きたいとかではなく、みんなが安全かつ円滑になるよう走行すべきだよな。さすが俺が恋する彼女だ。いいことを言う。
【たとえば交差点を越えたところに減少する左車線が残っている時、赤信号で停まる列を少しでも減らすため、そこに停止することは全体のための円滑に役立つのです】
【よく合流手前で残るほうの車線に一列に車が並び、消えるほうの車線がガラガラになっているのを見ますが、あれは間違いなのです。合流する寸前まで二列で並び、交互に合流するのが全体を円滑にする道路の使い方なのです】
さすがだ。
この人は自分だけのことを考えず、社会のためを思って行動しているのだ。素晴らしい人だ。また彼女に恋してしまった。
ふと、誰かに見られている気配を感じて振り返ると、戸口のところから苧環がニヤニヤしながらこちらを見ている。
「何見てんだ」
俺は低い声で言ってやった。
「クマラー」
からかうように、またそう言いやがる。
「あっち行け!!」
怒声で追い払う。
慌てたように逃げ出すそいつを見送ると、俺は再びスマホを見た。今のエッセイに満点のポイントを進呈すると、ドキドキしながらホーム画面に戻る。
赤い文字で『メッセージが1件届いています』とあったのだ。
震える指でそれをタップすると、俺が昼間書いた彼女のエッセイの感想への返信が届いていた。
怖い。
俺の感想に失礼なところがあって、彼女はそれに怒ってたりはしないだろうか。
喜び半分、不安半分でその内容を開いてみた。
彼女の俺にくれた返信の文字が目に飛び込んで来た。
【感想ありがとう。ところでクマラー、まだわかんないの?】
不安は吹っ飛んで行った。喜びの中に疑問符が入り交じる。
感想を喜んではくれたようだ。しかし、『まだわかんないの?』とは、何のことだろう?
考えた末、俺は結論に達した。54歳の俺には、若いであろう彼女の使う言葉はわからないところがあるのだ。それでも彼女はそんな俺に『まだわかんないの?』なんて、砕けた言葉遣いをしてくれたのだ。よくわからんが、きっとそういうことだ。
つまり、俺と彼女の距離が縮まったことを暗に示すメッセージなのだ、これは。
小躍りしかけたところに苧環がまた入って来て、急に脈絡のないことを言って来た。
「あたしがあの時左側のゼブラゾーンで停まったのはそういうわけなんですっ!」
「壊すな! テメェ! あっち行け!」
俺は怒鳴りつけてやった。
まったく……。小田マキさんのエッセイに便乗して自分を正当化しようとしやがって……。テメェがあん時あそこで停まったのは自分1人が先に行きたかったからに決まってんじゃねぇか!
とりあえず俺は絶対に認めんぞ!
苧環一美のことを、俺は絶対に認めんからな!
アイツは心根の腐った常識知らずなんだ! 俺が矯正してやる!