サラリーマンの主張
沿道に人だかりが出来ている。パトカーや救急車まで集まってきて、なんだか異様な物々しさが漂っていた。
怪訝に思った私たちは野次馬のひとりに声をかける。
「あのう、すみません。これは事故でしょうか」
すると眉間にシワを寄せたおじさんは、
「事故なんてもんじゃねえ。ああ始まっちゃう、少し黙っていてくれないか。サラリーマンの主張を聴き逃しちまう」
と言ったきりビルの屋上へと視線を逸らした。
横暴なおじさんに辟易しながら私たちも屋上へ目を凝らす。すると群衆がざわめき、屋上の柵を跨ぐ人影が現れた。
「まあ、危ないわ」
私は思わず目を伏せた。
スーツ姿のサラリーマンとおぼしき青年が身投げでもするつもりだろうか。私が肝を冷やしていると、
「いいぞー」
「よく来たな」
などと声援が飛び交う。そして街はたちどころに興奮の坩堝と化した。熱波は青年へと届いたようで、
「某株式会社のおー。営業担当おー。薄井幸男おー」
突然大声で名乗りを挙げた。
「俺にはあー。言いたいことがあるうー」
「なあにいー?」
驚いたことに聴衆もまた一斉に返事をした。
「今年で入社三年目だがあー。未だに有給が取れなあーい」
「どうしてえー?」
「なぜならあー。人が足りなくてえー。休むひまがないからでえーす。給料はいいのでえー、誰かあ、入社してくださあーい!」
背筋を仰け反らせて有らん限りの気持ちをほとばしらせた青年は力尽きてしまい、紙吹雪のように落下していく。
「きゃあ」
私はもう直視できなかった。賑やかだった街にも静寂が訪れた。青年の体は地面に叩きつけられたようだが、私たちの場所からは遠くて定かではない。
突然拍手が巻き起こった。
「いやあ、素晴らしい主張だったな」
と誰かが言い、
「大変な人もいるものだな」
口にするのはどこか他人事で、目の前で失われた命などまるで関係がないようだった。
そんな周囲の様子を肌で感じていると、なんだかさっきまでの青年の一部始終が空想の出来事のように思われてきて、私はほっと胸を撫で下ろした。
「おい、次は病院で看護師の主張をやるみたいだぞ」
人々は蜘蛛の子を散らしたように、ビルから姿を消した。私も高鳴る鼓動を抑えきれずに駆け出した。
誰もかもが消え失せた広場には、ポツリと残された肉塊がひとつ。赤く染まったスーツなど少しも他人の記憶に残ることはない。そして片付けられることもなく、繰り返されていくのである。
有給が取れない
まあ、かわいそう
有給が取れない
なんだ、そんなことか
いずれにせよ
有給が取れない