エレベーターの妖精
もうすぐ着く。早く眠りたい。
昨年新卒で入った、ブラックに近い会社でのサービス残業を終え、各駅停車に揺られている。
アナウンスと共にプシューっとドアが開き、なにも考えずに外へ出た。通い慣れた、寂れた駅だ。
しかしふと、足を止める。
階段が無い。
(え……無いワケ……ない、でしょ)
こちら側のホームからは、階段かエレベーターを使わなければ、線路を挟んだ反対側にある改札へは行けない。しかし階段がどこにも見当たらないのだ。どこにも、と言うより「そこになければおかしい」のだが。
狐につままれた気分で立ち尽くすうち、電車はホームから走り去った。
(あ、エレベーター……)
思い立って歩くと、記憶通り、そこにエレベーターはあった。
不思議なことに、「階段が無いならエレベーターで」という発想に移行したのみで、「毎日使っている駅の階段が忽然と消えた」という重大な違和感を、私は素通りしていた。それくらい疲れていた。
エレベーターが下りてきてドアが開くと、男性が一人乗っていた。一瞬、その男性が降りるのを待ったが、彼は気まずそうに笑う。少し地味で、でもキレイな顔立ちをした青年だ。
「ボク、下りませんから」
さっき上に上がったのに、スマホをいじっていて再び下りてきてしまったのだと言う。愛想笑いを返す間に、エレベーターは改札行きの通路まで上がる……筈なのに。
エレベーターは上がっている。ずっと上がっているのに、着かない。
「……変、ですよね」
「はい……」
さすがに怖くなり青年を振り返ると、彼はさほど怯えた様子もなく、私を見返してくる。
何がどうなっているのか、おかしいのは自分なのか、少しパニックを起こしかけそうなタイミングで、ようやくエレベーターは止まり、ドアが開いた。そこはいつもの通路だ。私は一目散に駆け出し、逃げるように改札を出た。
数日して、くたくたになった会社帰り、また駅の階段が見当たらない。
またか、と何も考えずにエレベーターに乗ると、またあの時の青年がいる。
以前と同じく、なかなか止まらないエレベーターの中で、私と彼は顔を見合わせた。
「……どうも」
「このエレベーター、また変ですね」
二回目にして、早くもこの現象に慣れてしまった私は、彼に笑いかけた。返ってきた彼の笑顔は柔らかく、地味な雰囲気が一気に華やぐような、魅力的な笑顔だ。
二言三言話すうち、エレベーターは無事に止まり、改札通路階でドアが開く。
「どうぞ」
「あ、すみません」
促されて先に降り、振り返ると誰もいない。
え? 誰もいない?
しばし動けなくなり、しかし、見渡しても彼はどこにもおらず、いないものは居ないのだ。首をかしげながらも階段を下り、改札を出た。
それから、たびたびその現象は起きた。階段が消えていて、エレベーターに乗ると彼がいて、止まらないエレベーターの中でわずかながら談笑し、エレベーターを出ると、彼はいない。
そのうち私は、彼はこの世の人間ではなく、エレベーターの妖精か何か、そういう存在なのだと勝手に決めつけていた。
ある夜、また階段が無くなっていて、エレベーターに乗った。相変わらず彼がいて、笑いかけてくる。しかし話している途中で、彼は表情を固くした。
「あのね、聞いて欲しいんだけど。美咲ちゃん、引っ越して欲しいんだ」
「え?」
「もうこの駅、使わないで。ボクさ、もう来れないんだ」
「は?」
まったく意味不明だった。しかも名乗った記憶もなく、なのに彼は、私の名前を知っていた。笑うとこの上なく華やかで温かい彼の表情からは、緊張からか、すこし険しささえ感じる。
「あの……」
「お願いだから聞いて。絶対引っ越して。隣の駅でもいい、でも明日から、この駅だけは使わないで」
意味が分からなすぎて、言葉を失った。何を言い出したのかも分からないが、必死で頼んでくる青年に私は頷いた。
「よかった……これ、持ってて」
そういって彼が手渡してきたのは、水晶のブレスレット。薄紫の丸い石の間に濃い紫の石が点在している。
何事なのか理解する前に、エレベーターのドアが開いた。すると彼は「じゃあね」と私を送り出した。
すこし怖くなり、私は何となく、翌朝は隣の駅まで歩いた。帰りもひとつ隣の駅で降り、少し長めに歩いて帰宅した。その途中で、母から電話がかかってきた。
『美咲、蓮くん亡くなったわよ』
「え……」
『蓮くんよ、覚えてるでしょ? いつもハガキを……』
思い出すのに時間がかかった。それは、引っ越していった幼馴染みで、隣の家に住んでいたので仲が良く、時々絵ハガキなどを寄越していた。何となくこちらも絵ハガキを返したりしてはいたが、小学校以来会ったことはない。会おうという話しにすらならないほど、たまにハガキのやり取りをするだけだった。
『蓮くんね、ずっと入院してたらしいのよ。悟られないように、自宅の住所でハガキ出してたんですって……でも最近急に容態が悪くなって……』
「え、病気?」
脊髄の病気で、彼は中学の終わりから、ほとんどの時間を病院で過ごしたらしい。
向こうのご両親のたっての願いで、数日後、私は蓮の霊前に手を合わせに行った。彼の家は近県で、行こうと思えばいつでも行けるような距離だった。
「美咲ちゃん! ありがとう、ありがとう、蓮はいつもあなたの事ばっかり話しててね、本当は会いたかったんだと思うんだけど」
「ご、ごめんなさい私、病気だとか知らなくて……」
「いいの、入院してる姿、知られたくなかったと思うのよ……あちこち管だらけで、あの子、美咲ちゃんのお母さんには言わないでってずっと……言ってて……」
涙ながらに語る蓮の母親が、私にすまなそうな顔を向ける。
「蓮がね、美咲ちゃんに渡してって……ブレスレットを渡してって言ってたのに……無いのよねぇ、本当にどこにいったのか。何か代わりに他のものをと思うんだけど……」
困り果てたような涙声で連れていかれた霊前で、私は遺影を見て動けなくなった。それは、あのエレベーターの妖精の彼だった。少し地味で、それなのに、まるで花が咲いたような柔らかい笑顔。
そうだ、蓮はこんな笑顔だった。子供だった頃の彼の人懐っこい笑い声を思い出し、頬を涙が落ちた。
「……」
「……美咲ちゃん? それ、そのブレスレット……」
蓮の母親は、私が左手首に着けている水晶のブレスレットを見ている。さっき彼女の話を聞きながら、まさかと思っていた私の頭の中で、何かが繋がった。
「これ……もしかして蓮くんが私に……あの、私時々、会ってた人がいて、まるで蓮くんみたいな人で……ごめんなさい変なこと言ってるって分かってるんですけどっ……でも、ちょっと何て言ったらいいか、わかんないけど、その人がこれを」
「これを……本当に?」
彼女は私の手首にすがり、泣き始めた。ひとしきり泣き、そのあと「蓮が、会いに行ったのかしら」と呆けた声で呟いた。しかし蓮は、ずっと入院していたらしい。ここ二ヶ月ほどは特に病状が悪化し、意識もあったり無かったりだったと言う。
病院から出られる筈もなく、まして一人で出歩けるような状態ではなかったのだ。
だけどあのエレベーターの彼は、蓮だったのだろう。地味で優しくて、花のような笑顔。遺影と同じ。
その次の月、私は引っ越した。最後に蓮と会ったあの夜以来、あの駅は使っていない。
その後、同じ地域で複数行方不明者が出た。全員女性で、深夜にあの駅を使っていた。それが怪奇現象扱いでネットで話題になり、情報にうとい私までもが知ることとなった。
よくよく考えてみれば、駅の階段が忽然と消え、エレベーターが止まらず延々と上り続ける、あの現象は異常だった。疲れきって、また自分以外の誰かがそこに居たことで恐怖が和らぎ、私はそれを深く考えもしなかった。そんな脱け殻のようにくたびれきっていた私を、きっと彼が守ってくれたのだ。
あれから肌身はなさずつけている左手首のブレスレットに、そっと触れる。あの駅に潜む何らかの闇から、蓮が私を守ってくれたのだと、私は今でも信じている。