華麗なる劇場
訪れていただきありがとうございます。
劇場に併設された狭いカフェで味に対し1.5倍くらいの値段がするコーヒーを飲んでいた。身体が温まる感覚。少しベースの音が効きすぎている様な変わったアレンジのBGMが心地よい。聞いたこともない言語や、もはや言語にすら聞こえない破裂音が混じっている。しかしふと耳を離すとふと母国語が聞こえてくる。「ぬらり」だか「きらり」だかその辺り。目が身体中にあるかのように集中力が発散していく。
「待らせたね。」
街灯の明かりのせいで逆光になっている。目を細め相手の存在を確かめる。
「僕にとってコーヒーを飲んでいる時間は待っているには含まれないよ。久しぶりに会えて嬉しい。」
口が勝手に動く。彼は誰なのだろう。しかし彼の存在はそんなに嫌ではない。僕は少し残ったコーヒーは諦め、カップを下に叩きつける。五感のうちの一つにしてはその音はあまりに世界に影響を与える。美味しいコーヒーだった。
劇場まで彼と並んで歩く。僕の格好はTシャツにジーンズ。彼の隣に並ぶにしてはどうも地味すぎる。彼は人工的に赤い唇から舌を取り出し語り出す。先の尖った靴が音を立てる。タップダンス。徒歩とダンスはある直線上にのる点同士のよう。くるり。
「お客様のをおかげさまでこの劇場も良き良き感じです。金がどうこうとかではない。良きという固有名詞的な劇場にならんとすよ。」
「僕は初めて来たよ。しかしここまで来るのはとても大変だったよ。帰れるだろうか。」
「帰れませんよ。」
受付に立つ彼に話を通す。彼はとてもカラフルな服を着ている。彼はにこりと会釈をし、僕と彼を中へ通してくれた。劇場の中からは何も聞こえない。何も見えない。
「あれ、もう始まってる時間ですよね。何も聞こえませんよ。」
「音というのは集中力を発散させるものです。世のパレイドがあそこまで派手に音を出すのは人を騙すためなんです。自分たちのやっていることが下らないとわかっているから、それでもやらねばならない理由がぴっきりあるから音を出すわけなんですね。また、この劇場には入り口が一枚ぽっきり。しかも開きませんのよ。開演中は絶対に。例外などない。」
「じゃあどうやって中に……」
「どうぞ。」
音がなくなるだけで空気が変わる。当然。音波とは空気の振動。私たちは常に鼓膜だけでなく身体自体をその振動に浸している。常に揺さぶられている。
「ようこそ」
彼がステージから声をかけてくる。正確にはステージは存在しなかった。観客が彼を取り囲むように円を描いている。白はあまりに純粋すぎて簡単にその身を他に委ねてしまう。暗闇をミラボールと手を繋いで踊っている。赤、青、黄色。彼の顔の色は、そして彼以外の多くの彼の顔色がくるりと色を変えていく。光の屈折が蝶を飛ばす。
その集団の中にTシャツにジーンズの男が立っている。あまりに地味すぎる。周りの者とは顔の色が違う。生まれたての死体のような色。
彼は男をじっと見つめた、眺めた。そして見つめた。彼が。そして彼が。勿論彼が。最高の演出だ。これこそがエンターテイメント。ただただ視界をそちらに向ける。振動していない空気を光が貫いていく。演者は彼。観客は男。
すると徐々に円の中心が変わり始めた。ステージ移動。聞こえてくる音はやはり軽やかな靴の音。
かっこかっこ。
男は怯えたように周りを見渡す。彼が男の頭を掴み前に倒す。彼が男を見ている。演者は。観客は。音はない。
僕も演者を眺める。じっと。舞台は進行していく。
円が再び流動する。水族館のような。僕の周りから彼がいなくなっていく。男はどこに行ったのだろう。ああ、ステージを降りていなくなったのか。いなくなった。
僕は深くお辞儀をした。僕はなぜお辞儀をしているのだろう。演者。観客。
彼はこっちを見ている。Tシャツにジーンズの男が少し遠くからこっちを見ている。
僕は彼に演者を譲るべく、ステージを退いた。
お読みいただきありがとうございました。感想、レビューお待ちしています。
時々このような論理を完全に無視できる作品が書きたくなります。この作品には全く意味もメッセージもありません。この作品はあるだけです。