第一章(4)
ここは、どこだろう?
眼に映るのは見覚えのない淡い照明と白い天井。それと身に覚えのない状況だ。
どうしてボクは横になっているのだろう。
分からない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
快適だ。
手足を包む柔らかく暖かな布地。横になった身体の心地好さ。
……もっとこのままでいたい。こんなに気持ちの良い思いは、久しぶりだ。
現状確認よりも身を任せた寝具と思しき感触の良さに思考を奪われ、一度開けた目を閉じる。
そこに、一拍遅れて声が落ちてきた。
「おう、起きたか? 起きたよな今。すげぇ気持ち良さそうにしてるからあんま邪魔したかぁないんだが、コッチも時間制約があってな……でぇい!」
降ってくる声と共に翻る掛け布団。
隙間を狙っていたからのような風が圧力により身体を差す。
ああ、さようなら、ボクのエデン。
一度身震いして、上半身を起こした。
やはりここはベッドの上で、周りを見れば簡易的な医療キットの入った箱や隣の空のベッドが見える。
「よお。おはようさん。元気か? どこか痛むところはないか?」
まだ惚けているこちらに構わず、彼女が聞いてくる。
この人には、見覚えがある。
正面からの記憶じゃない。ボクの右後ろから覗いた凛々しい顔。右手首を掴んだ細くてすべすべの指。
そうだ、たしかポーカーをしていて、それで、その後……。
ボクは急いで後退した。
自分でも驚くほど素早く。
しかし、すぐ背中に衝撃を感じる。
壁か? いや、なんでもいい、今は、に、逃げなきゃ。
「どうした? ああ、元気なのはいいことだ。そんな上半身を起こしただけの格好でよくもまぁそんなに動けるもんだ。壁際のベッドで良かったな。隣のベッドなら落ちているところだ。さて」
彼女が迫ってくる。ゆっくりと伸ばされる手。
真面目な表情が逃がしてくれないことを表しているかのようだ。
ボクは反射的に眼をつむった。
「……うん。熱はないな。よし、なら大丈夫だな」
額に手を当てられる感覚がしたあと、眼を開けると彼女の綻ぶ顔が見えた。
綺麗な人だ。それでいて、笑顔に人を安心させるものがある。
ほっとしていると彼女がベッドに乗ってきた。
距離が縮まる。仄かに良い香りがする。
ドキドキしていると、彼女が背中に手を回してきた。
「どうだ? 痛くないか? ここ。ん?」
言われて、背中に意識を向ける。
「痛っっっ」
軽く指で押された箇所がじんわりと痛んだ。
一度痛みを思い出すと、なんだか少し頭痛もしてきた。
「やっぱり痛いよな。いや、悪い悪い。ついカッとなって蹴りを入れちまった」
「…………」
「おまえ、あの時咄嗟に逃げようとしたよな? ん? やましいこと、あるんだろ?」
最後の方は声に少しドスが利いていた。
顔は笑顔なのだけれど、眼が笑っていない。
背中に回された手は最初は温かく感じたが、今や逃げることを許さない鎖のように感じる。
つい、唾を飲み込む。手が無意識に胸元のアクセサリーを掴んだ。
「おう、それだそれ。ほら、見せてみろ」
身動きの出来なさと彼女のプレッシャーに抗えずに手を離し、アクセサリーを見せる。
それは、ボクがあの『大災害』の時に家族を亡くしたあと、ボクを受け入れてくれた人がくれたもので。
今や習慣的に身に付けてはいるけれど、もう関係のない……。
「おまえ。『エルドラド』の関係者だろ?」
!!
単語に反応して、無意識的に下げていた顔を反射的に上げてしまった。
目の前には、どこか嬉しそうな顔。
「やっぱりか。ここんとこ『エルドラド』って呼ばれている集団がこのサドの街を荒らして回ってるって話が役所に来ていたんだよ。ったく、その苦情やら対応やらを誰がすると思ってやがるんだ?」
これ見よがしに溜め息を吐く彼女。
どうやら、大変お疲れのようだ。
「で、だ。その『エメラルド』だか『エルドラド』だかいう奴らの特徴として、そのダビデの星……三角形を二つ合わせた意匠のアクセサリーをじゃらつかせてるって目撃談も寄せられているんだ。さて、もう分かるな? 知ってる情報話してもらうぜ」
凄む彼女には勝てそうもない。
だけど、話せることもあまりない。
だってボクは、その『エルドラド』から逃げ出してこの街……噂に聞いた誰でも受け入れてくれる流れ者の行き着く先、サドの街にやってきたのだから。
ボクは知っていることを話した。
たしかに『エルドラド』という集団……組織に属して暮らしていたこと。
でも、2週間前に逃げ出していたこと。
あの災害時、周囲から隔絶することで安全を保とうと隔離された区画である江東区の一角、東京湾に浮かぶ人工島であるこの街に逃げ込んできたこと。
だから、今『エルドラド』が暴れていると聞いても何も知らない。
そう答えるしかなかった。
「じー……」
あ、このお姉さん、擬音口に出してる。無意識かな? かわいいなぁ。
「うーん、嘘かホントかわからないねぇ。嘘吐いてないかい? 嘘吐いてたらグーでなぐって身ぐるみ剥がすけどいいんだな?」
あ、このお姉さん、流れるように暴言を吐く。習慣かな? 怖いやぁ……。
ボクはがくがくと首を縦に振った。
もちろんなぐっていいって意味ではなく、嘘は吐いていないという意味でだ。
必死さが伝わったのか、彼女の目から剣呑さが消えた。
今にも掴みかかってきそうに上げられていた手も下ろしてくれた。
「そう。不自然なところもないし、当座は信用してあげるとするか。そうなると、まずは謝らなきゃいけないね」
そう言うと、お姉さんは頭を下げてきた。
「早合点じゃないかもしれないけど、あんたの話が本当なら早合点して蹴りを入れたのは悪かった。この通りだ」
これには当惑した。
街の人間からすると怪しい人物に違いない上に、彼女の持つ判断材料からボクが『エルドラド』の関係者だと推理することに間違いはない。
蹴りはやりすぎかもしれないけど、先手必勝という言葉もある。
悪くない行動ではあったと納得がいく以上、ボクは別に謝ってもらう必要を感じていなかった。なので、顔を上げてもらう。
「おや、案外器が広いんだね、あんた。そういや逃げてきたって言ってたね。誰か当てはあるのかい?」
当ては……ない。半ば衝動的に逃げ出したため、この街に着いてからのことはあまり考えていなかった。
「だったら、うちのアパートに来るかい? 部屋は余ってるし、大家にはあたしが話付けとくからさ。こう見えて顔は利くんだ。詫びってことで、落ち着くまでは少しだけ面倒見てやるよ」
なんというか、たくましい人だ。謝っていたはずなのに、気づいたら恩着せがましい形になっている。それに、この人には気になることがある。もしかしたら、この人はボクの力と同じ……。
「ああ、そうだ。そういやまだお互いの名前も知らなかったな。あたしは東雲菊花。菊花と呼んどくれ」
気さくな名乗りとどこか不敵な笑みに釣られるようにして、ボクは名を告げ、お世話になることをお願いした。
「そうか。海道みちるっていうのか。よろしくな、みちる」