第一章(3)
なんだか、周りに人が増えている気がする。
ボクはただ、ダブルアップをするのが楽しくなってきて続けていただけなんだけど、途中から立ち止まってこっちを見る人が出てきた。
後ろがうるさいくらいだ。
「……ハートの12です。さぁ、どれを選びますか?」
ディーラーのコールが聞こえる。これでこの問い掛けが行われるのは、21回目。
12という数字に勝てるのは、13とAのカードのみ。
確率的には厳しい。
そもそも勝てるカードがこの4枚の中にあるのかすら普通は分からないだろう。
でも、ボクには確率よりも頼りにしてきたものがある。
それは運がいいことに、まだこの場にしっかりと感じる。
――右から2番目のカードには、温かみがある。
「……スペードの、13。おめでとうございます。ダブルアップ成功です。ただいまコインをご用意致しますので、少々お待ち下さい」
机の上にあったコインも、随分様変わりした。
単位ごとにコインの色が変わるみたいで、今や少しカラフルになったコインが手元にあった。
現実感がないまま辿り着いたこの街で、現実感がないままカードゲームで遊んでいると、なんだかふわふわした気分になってくる。
これまでとあまり変わらないでもあるけど。
でも、なんだかちょっぴりいつもとは違う気分がする。
――ボクは今、ひとりでここにいる。
「よっと、失礼するよ」
後ろの方で、女の人の声がした。
これだけ人が多いのに、よく通る凛々しい声がした。
でも今は、目の前のドキドキから目を離せない。
「お待たせ致しました。ダブルアップ、続けられますか?……そうですか。では、賭けましょう。さあ、お選び下さい」
場のカードは、ハートの13。
それを見たのか後ろから惜しむような、健闘を讃えるような諦めにも似た言葉が聞こえてきた気がした。でも。
……温かい。周りの熱気とは違う、ボクにだけ伝わる確かな温度。
目に見える範囲に存在するのならば、手を翳して意識を向ければ、ボクには分かる。
あの時から、7年の間の経験が教えてくれる。
「優位なものは温かく感じる」のだと。
ボクは手をさまよわせるようにして、冷たい札の中、一番右端にある温かさを感知した。
この温かさはボクを裏切らない。
熱を追うように、縋るようにして、生きてきた。
きっと、ひとりの今でも。
ここでもそうしていれば、なんとかなるはずだ。
「……ダイヤのA、です。おめでとうございます」
ディーラーの額にじっとりと汗が見える。
人が多くなっているからだろうか。喧騒がする。
「ダブルアップ、なさいますか?」
こくりと頷く。なんだか、負ける気がしない。
勝つのは、楽しい。
「おめでとうございます」
にこやかな表情に変わりはないが、ディーラーの口元が少しひくついた気がした。
周りがより騒がしくなったように聞こえる。
ディーラーが一息つくと、言った。
「更にダブルアップなさいますか?」
ディーラーの一息に釣られて息を長く吐くと、ふと冷静な自分が出てきた。
もう十分に遊んだし、コインもたくさんだ。
やめても良いいんじゃないか。
……そう思うも、気づくと見えないものに背中を押されるようにボクは頷いていた。
場に表になったカードはスペードの8。
伏せられたカードに向かって手を出し意識を伸ばそうとした、その時。
「おっと、ストップだ。邪魔するよ」
手首にひんやりとした感覚。
綺麗な指が、それでいてしっかりとした力強さを持った手が、ボクの右手首を掴んでいた。
さっき聞いた覚えのある声。
「おお、菊花さん。いらしてたんですか。そちらのお客様がどうかしたのでしょうか?」
ディーラーが明らかな安堵の息を吐いたのが分かる。
菊花、と呼んだ人間の存在に安心した?
そこまで心に思って、ボクは顔を上げた。
こちらを見下げる、長身の女性。
流れる長い黒髪は可愛いらしいバレッタで留まっているが、切れ長の目が見る者に鋭い印象を与える。
「あんた、いいもん持ってるみたいだね。見ていたけど、判断の仕方が確率論や勘とは違う動きをしているように感じたよ。気になるね、とても」
探るような、それでいてどこか挑戦的な素振り。
掴まれている手首は、別に痛いわけじゃない。驚いてそのままになっているだけだ。
その理由は、その手を振り払おうとする前に見た、目の前の女性の服につい目が行ったからだ。
胸元には楕円を描きながら赤い光を放つ石がはめ込まれたブローチ。
背景となるブラウスは黒。それもフリルがふんだんに織り込まれている。
意匠は細かく、腰のくびれとそこから伸びるAラインが綺麗だ。
……とてもかわいい。
「そうだ、あんたにいいことを教えてやろう。その手の先にあるカードだが――」
耳元に彼女の息がかかる。
彼女は腰を屈めて小さくそう言うと、手をカードに向かって少し翳した。
……ボクと、同じ仕草だ。
「――こりゃぁ、無いね。今までは調子良かったみたいだけど、凌げるかい? いやぁ、剣呑だねぇ。さて、あんたはどう思う?」
たっぷりと余裕を持った問い方。覗き込んでくる妖艶な瞳。
近くで見ると薄化粧なのが分かる。
着飾っていないのに、目と表情に吸い込まれそうな魅力がある。
いけない。
この人が誰かは分からないけれど、自分のパーソナルスペースに入られているのに警戒心を抱かせない相手というのはいけない。
危ない人だ。
ボクは彼女から目をそらし、卓上のカードを見る。
掴まれた方の腕は振り払うこともせずそのまま、反対側の手を4枚のカードに向かって少し伸ばす。
――冷たい。どれも、温かくない。
まずい。きっとこの場には勝てるカードがない。
……いや、でもあの一番右端のカードは温かくはないけど冷たくもない気がする。
そのカードをめくる前に、小声で半ば無意識的に漏らしたその判断を、乱入してきた装いの特徴的な女性が拾う。
「へえ、やっぱり『ワカル』んだ。珍しい」
言葉を聞いた女性は、どこかニヤニヤと喜んでいるのか楽しんでいるのか分からないような表情をした。
そこに何か薄ら寒いものを感じて、ボクは手を引っ込めると胸元のアクセサリーを取り出し、習慣になっている無意識さで軽く左手に握り込んだ。
緊張した時、困った時はこうすると少し落ち着く。
彼女から目をそらすと、ディーラーが困ったような所在無げな顔で佇んでいた。
ボクと目が合うと、改めて問いかけてくる。
「お客様、お選びになるカードはお決まりになりましたか?」
そうだった。ダブルアップの途中だったのだ。
急に触れてきたこの女性も気になるけれど、一番右端の札を指差して開いてもらった。
「……ハートの8。ドローです。初めてですね。こういう場合は再度ダブルアップするかここでお止めになるか決められますが、どうなさいますか?」
ディーラーの問いに答える前に、未だに手首を掴んでいた女性が口を開いた。
「やっぱり、あんたのソレはイカサマだけれどイカサマじゃないね。オーナーにゃ悪いけど、これは摘発できやしないよ」
女性はそう言うと、掴んでいたボクの手を離した。
何を言っているのかは分からなかったが、掴まれていた手を離してくれたせいかホッとして、無意識的に握りしめていた左手も緩めた。
「となると、カジノは今日は大損かー。まぁあたしの知ったこっちゃないから別にいいんだけど……ん?」
言葉を続けていた彼女がボクの方に……ボクの胸元に目を留めて少し顔を近づけてきた。
整った目元が少し歪んだような気がした。
「このアクセサリーの特徴的な、三角形を上下に重ねたようなマークはなんつったか――あー、ダビデの星か。そうかそうか。なるほどなー。合点がいったよ。おまえ、あいつらの一味か。道理で見たことのない顔だと思ったよ」
言葉がどこか薄気味の悪い色を帯びた気がした。
見ると、彼女の目尻だけではなく、歪みが顔全体に及んでいっていた。
「そうかそうか。ここんとこ役所に苦情が多くてあたしの仕事が増えているのも、ストレスと寝不足とカフェインの摂り過ぎで肌が荒れてきているのも、あんたたちの仕業だってーのに、その一人が悠々とカジノでポーカーやって荒稼ぎとはねぇ……」
ヤバい。先ほどまでとは違う。
近づかれても警戒心を起こさせなかった人物と同じ人とは思えないほど、嫌な予感が……寒気がする……!
「江〜戸〜のカーターキーをナーガーサーキーでぇ〜……!!」
ボクは何かを言う前に本能に従って席を立つと、背を向けた――ところで、背中に衝撃を受けた。
微かに視界に映ったのは、倒れ際に見えた彼女の可憐なスカートから伸びるスラリとした脚とブーツの底だった。
そこからの記憶は、一旦途切れている。