第四章(4)
ボクと菊花さんは人目を忍んで患者のいる倉庫の陰にまで到達する。
途中、ジョージさんの制止を振り切ったのか不安げに倉庫街を彷徨う人たちがいた。
菊花さんが人の流れを避けて捜していたというのはこういうことか。
うろうろしている人たちが患者を……見た目の初期症状が新型ウィルスに罹った人と同じような人を見たらどうなるか。
ただでさえ募っているであろう不安が爆発するであろうことは想像に難くない。
そして、あと二人ほど、不安に思っている人間がここにいる。
一人は、菊花さんだ。
さっきの物言いからすると、菊花さんはボクの能力で察知した情報に頼りたいらしい。けど、ボクが何も新しい情報を出せない可能性にもおそらく思いを巡らしていることだろう。
恐ろしいほどの不安。
この状況を打破できるとしたら、患者の症状の見極め。
それができなければ、不安で押し掛けてきた住民と『エルドラド』の人たちを鎮めることはできないだろう。
なのに、自分でできることはしたにもかかわらず結果は出ていない。
ボクに頼るまでになっている。それでいて、不安さは表に出していない。
強がりなのか、生来の不敵さゆえなのか。
どちらにしろ、不安には間違いない。
そしてもう一人。他の誰でもない、ボク自身だ。
ボクの能力で何も新しい情報が出せないかもしれない。
怖いのは、そこではない。
なぜなら多分、いや、確実にボクであれば判断できる。
なのに、ボクは怖くて菊花さんに言いだせてもいない。
あの熱い思いは、もう。……したくない。
そう思い続けてきた。そう逃げ続けてきた。
だからこそ、言い出せずにここまで来た。来てしまった。
『大災害』の折、隔離病棟で寝かされていたボクが奇跡的に助かって退院する前。
無意識的に使っていた能力で感じたことが既にあった。
同室で、新型コロナウィルスに罹って死んでいった人達に向かってふと手を伸ばした時に感じた。
罹患患者一人一人から感じる熱は「とても冷たい」もので、それ以上にその部屋全体が「とても熱かった」のだ。
今なら、理解できる。
あれは、死にゆく人たちは生命力が落ちているがために冷たく感じ、空間に漂う大量のウィルスの活発さと強力さを熱く感じていたのだと。
だから、きっと、倉庫の中に入れば解る。
患者自身から感じる熱が熱いか冷たいか、ではなく。
倉庫の中の空間が熱いか冷たいか。これで判断できる。
そうであるのに、不安になっている。
怖がっている。
だって、もし倉庫の中があの時のように熱かったらどうしよう。
そうであれば、なす術がない。
怖くて、怖くて、言い出せずにいた。
でも、ここでそれを伝えなれば。
伝えれば少なくとも一つの不安は拭える。
新しい情報がボクには出せるという菊花さんの不安が、だ。
その結果は、結果次第としか言えない。
でも今は、踏み込む際に少しでも背中を押してくれる材料になるのなら、知らせるべきだ。
ボクは深呼吸をすると、隣にいる菊花さんに伝えた。
能力で新型ウィルス罹患者に対峙した時の感触を。
「……そうか。だとしたら、嫌な役目を押し付けちまったみたいだな。ごめん」
嗚呼。
この人はどこまで人の事に気が回るのだろう。
自分の事などまるでどうでもいいと言わんばかりに人の心配ばかりして。
この人は、憧れだった。
でも今、それだけではなくなった。
この人を守りたい。
この人の役に立ちたい。
こんな、人のために顔を歪められるような人はこの世界にしっかりと立っていてもらわないといけない。
いいんです、と。ボクは菊花さんに伝えた。
そして、倉庫の鍵をせがんだ。
少しの沈黙のあと、無言のまま鍵をボクに渡して、菊花さんは一言呟いた。
「よし、頼んだ。任せるぞ」
菊花さんのその声に悲愴感はなく、むしろ力強さを感じた。
ボクは鍵を差し込み口に入れ回すと、倉庫内を見回した。
左右に重なった木箱の山、奥の開けたスペースにある寝台。
一人は寝ていて、一人は隣に膝立ちになって寝ている相手に何か話し掛けていた。
ボクは、手のひらを向ける。
熱が、手のひらを通して脳髄を刺激する。
その熱の正体に察しがついた時、ボクは縋るように振り向いた。
そこには、菊花さんがいた。すぐ後ろにいてくれた。
ボクは、菊花さんに伝えるべきことを伝えた。
この空間は、冷たいです、と。
ここは、大丈夫です、と。
最後は、無意識的に涙が滲んで声が震えてしまっていた。




