第一章(1)
〜第1章〜
足が重い。もう、どれだけ歩いたろうか。
曇り空の下、目に端に映る大海に助けられた。
珍しさが、疲労を意識の隅に追いやるのに役立った。
貰い物だが頑丈な青色のスニーカー。
下を向いてこれを見続けながら歩くよりは、いくらか心が休まる。
遠くから見えていた、高さ3メートルはある大きな門に到着した。
あの事件が起きるまではなかったと大人に聞いたことがある。
関所とでも呼べるような検閲所を抜けて歩くこと1時間。
ようやく街の入口に踏み込めたらしい。
……うん。人の気配がする。
暖かさを、感じる。
お腹、空いたなぁ。
こんにちは、と声をかけてみたものの、返事はない。
うう、怖い。
街に入ったはいいものの、さりとて行く当てもない。
たまたま目に入った、というよりあれが目に入らなきゃおかしいよね、というほどの大きな施設があったのでそこに足を運んでみた。
施設の入口は綺麗できらびやかで、扉は自動ドアだった。
電気に困っていないのだろうか。ありがたい話だ。
入るのに特に妨げられはしなかったが、入口の脇には屈強という表現がよく似合うサングラスにスーツ姿の男性が睨みを利かせていた。
……多分。サングラスだから実際のところはよくわからないけれど。
視線を上げると目に入る、「CASINO」と銘打たれた看板。
初めて入る施設ゆえ、当たり障りのない挨拶をしてみるも、なしのつぶて。
ただ、何を言われるでもなかったので、誰でも入っていい施設なのだなと推測して思い切って中に入ることにした。
入った瞬間、奥から聞こえてくる騒がしい音と漂ってくる暖かな空気。
天井にぶら下げられたシャンデリアから降り注ぐ眩しい光。たくさんの人の気配がする。
自動ドアの先、少し進むとまた自動ドアがあった。
通り過ぎた向こうの空間には――天井の高い、とてつもなく大きなフロアが広がっていた。
なんだろう、ここは。
「ノォォオオおお!!」
ぼうっとしていると、悲痛ながらもどこかコミカルな声がした。
つい顔を向けると、派手な色合いと様々なキャラクターが描かれた機械の箱が並ぶスペースで。
カイゼル髭というのだろうか、先端に向かってカールするようにまとめられた見事な髭をした紳士が絶叫していた。
「ハァ。……ん? ああ。これはすまない。お見苦しいところを見せたね」
紳士が釈明するかのように近づいてくると、話し掛けてきた。
どうしよう。少し怖い。
立ち止まって見つめていたせいか、周りに誰もいなかったせいか。
恥ずかしいところを見せたことを弁明するような口調で、こちらのリアクションには無頓着のようだ。
「いや、私も分かっているんだよ。スロットマシーンは確率の話であって、負けることもあると。しかし、しかしだね。もうこれで5日連続負けだよ? さすがに意気消沈もするというものさ。あんなに熱い演出が来ているのに当たらないというのはどういうことだ? 次こそはと思うもうまくいかない。けれど次の瞬間には当たるかもしれない。嗚呼、引き際というのはいつも難しい……」
ボクは相槌も打てずに聞いていた。
あまりにも目に光がなかった紳士の語りに、何も返す言葉が浮かばない。
「……君も、遊戯場に出入りするのはいいが、加減を忘れちゃいけないよ。そう、私のような敗退者は多くいてはいけない。多くいてはいけないのだ」
紳士はその後もぶつぶつと呟きながら、そのまま去っていこうとしてふと思い出したように立ち止まる。
「そうだ。これをあげよう。向こうでポーカーが2回は遊べることだろう。運試しが終わったら、帰るんだよ」
そう言うと、紳士はボクの手にコインを2枚渡してきた。
当人はトボトボと背を曲げて歩いていった。
つい、なんとなく流されて受け取ったコイン。
銀色の百円玉くらいの大きさで、薔薇の模様があしらわれている。
ここは、遊技場とさっきの紳士は言っていた。
周りが五月蝿いのも、明るいのも、どうやらゲームをする場所だからのようだ。
当ては変わらずない。手元には2枚のコイン。
気づけば、紳士に言われたポーカーのコーナーの側まで行き、机上を眺めていた。
ポーカーは、分かる。オトナたちがトランプで遊んでいるのに交ぜてもらったことがあるからだ。
……あの時は楽しかったな。
ここで行われているポーカーも、ボクが知っているものと同じもののようだ。
ただ、環境が豪華だ。机はいたく立派で大きく、小綺麗な恰好の初老の男の人がカードを切っていて、机の反対側に5人の人が座っている。
机の上には、トランプとコインの山。
さっきもらったコインと同じものだ。似たようなコインで大きさと縁取りの色が違うものもあるけれど、この2枚も同種に違いない。
座っていた5人の人が捌けた。どうやらゲームが一段落ついたらしい。
皆、苦い顔や嬉しそうな顔をして去っていく。
「宜しければ、ゲームに参加されますか?」
人が去って他に人がいなくなったというのに、ぼぅっとしていたからだろう。
初老のディーラーと思しき男の人に声をかけられた。
手元の、照明を鈍く跳ね返すコインに目を落としてから、ディーラーを見た。
「ええ。その2枚でもお遊びになれますよ。1枚からベット可能ですから」
人に警戒心を抱かせない微笑みを浮かべるディーラー。
手持ちがほとんどない相手にも真摯に対応してくれたせいか、釣られるようにして席に座った。
「こちらのご利用は初めてですかな? ポーカーのルールは?……お分かりなのでしたら大丈夫です。ええ、まずは1枚でどうぞ」
手慣れたディーラーの指先から5枚の札が配られる。
滑らかなマットの上を流れるようにして揃ったそれをたどたどしく引き寄せて、手の中で開く。
柄はバラバラで数字もかぶっていない。
「交換なさいますか?」
ボクは頷き、配られた5枚全部を戻した。
手元にあった札も、今見える伏せられた山札の上も、冷たい感じがしたからだ。
こういうのは、早くどかした方がいいと知っている。
無言ながら遅すぎず早すぎず、マイペースに交換分のカードを配ってくれるディーラー。
再度手の内で札をめくる。
二回目以降に交換の機会はない。
おとなしく表にしたカードは、やっぱり不揃いのブタ(役なし)だ。
「残念でございました。残りのコインは1枚のようですが、もう一度遊ばれますか?」
他のお客さんが捌けているので手持ち無沙汰に相手をしてくれているだけだとは気付いていた。
それでも、頼るものもなく辿り着いた場所で相手をしてくれるというのは、ボクにとっては理由もなく嬉しいことだった。
頷きを返し、紳士にもらった最後のコインをベットする。
配られる札。
手元を見れば、またも不揃い。一つも数字がかぶっていない。
スロットマシーンというもので遊んでいた紳士が、確率の話がどうとか言っていたけれど、ポーカーもそうだと不意に思った。
たったの三回とはいえ、なにも数がかぶらないというのは、まるで孤独な自分を表しているかのようで自嘲気味の笑いが出そうだ。
けど、いつまでもそうとは限らない。
世の中にはそういうことがあることも知っている。
山札の上を見ると、今度は温かみを感じる。
「今度は2枚交換ですね」
交換分をもらい、札をさらけ出す。
手札は、ハートの6。スペードの6。スペードの9。クローバーの9。ハートの11。
「おめでとうございます。ツーペアですね。2倍の2枚を獲得しました。ダブルアップ、されますか?」
微笑みを絶やさないディーラーが優しく問い掛けてきた。
ダブルアップというのは初耳だったのでどういう仕組みか尋ねると、親切に教えてくれた。
裏にして並べられた5枚のカードの内、一番左の札を表にする。残りの4枚の内好きなカードを1枚めくり、一番左の表になっている札の数より大きいカードを引き当てれば良いらしい。
当てれば獲得枚数は2倍。外れれば獲得枚数は全て没収。
2倍に増えるから、ダブルアップ。
なるほど。とてもわかりやすい。その上、ボク向けだ。
「おや、当たりです。これで獲得枚数は4枚ですね。まだダブルアップを続けますか?」
親切なディーラーさんに促されて、ボクは特に考えることもせずダブルアップを続けた。
これは、楽しいかもしれない。