まぼろしの雪
とある夫婦の、家族の物語。
家に帰りましょう。
あなたの体を冷えないように毛布でつつみ、人力車に乗る。あなたの頭は私の肩によりかかる。
牡丹雪が降る。朝まだき、薄暮のなかを人力車が進む。人気の消えた大通り。信じられないほどの静けさ。
車夫の足音と車がきしむ音。車夫の吐く息が白く流れて雪に混ざる。
だまって空を見上げていたら、空に浮いているように感じるでしょう。
あなたのこけた頬を指でふれる。昨日そり残した髭が指のはらに当たる。
苦しみから放たれたあなたは、まるで眠っているよう。
帰りましょう。おうちに。康子はまだ寝ているでしょう。あなたが買ってくれたお人形と一緒に。
わたしは雪を見つめている。降り続ける雪を。冷たくなったあなたの手を握って。
あなたはきっと、幸せだったわ。
目の前で人が燃え上がる。
踏みつけた体は、生きているのか死んでいるのか。確かめる暇もなく、康子の手をひいて人ごみをかきわけて駆ける。
ひゅう、という悲鳴のような音が上空から絶え間なく聞こえる。数秒の後に民家にぶつかり炸裂する。降りかかる炎に防空頭巾がちりちりと燃える。
逃げないと。でも、どこへ? ただ、康子の手だけは離すまい。
あなたは、幸せだった。こんな地獄を見ずにすんだのだから。
背中の赤子に火が燃え移り、悲鳴をあげながら川へ飛び込む母親。その川面はすでに死に絶えた人々と、溺れかかった数多の人を飲み込み流れていく。
川が赤いのは、血の色か炎の色か。
逃げまどう、三月の夜。
あなたが生きていたら、きっと耐えられなかった。
縁の下に住みついた猫の親子に、食べ物を与えてかわいがっていたあなたには。
兵隊さんの防寒着のために、飼われていた犬や猫が供出されたのよ。町中から、動物たちが狩られたのよ。
戦争が始まって、ものに不自由し始めた時にも、康子の誕生日には、甘いお菓子をどこから手に入れてきたあなた。
いまはろくな食べ物も配給されず、育ち盛りにいつもおなかを減らして痩せこけていく康子を、あなたはきっと見ていられなかった。
体が弱かったあなたは、赤紙は届かなかったでしょう。
でも、いつも一緒に将棋を指していたお隣の佐々木さんは、大陸で戦死したわ。
だから、あなたは幸せだったのよ。
目の前の建物が崩れて道をふさぐ。衝撃とともに、火の粉が降り注ぐ。防空頭巾をかぶっていても、炎の熱さは直に肌を焦がすように感じる。炙られる、このままでは焼けてしまう。
とっさに、人の流れにのって横道へそれる。康子を引き寄せ、人波に体をねじこむ。怒号がとぶ。また、なにかを踏みつけ、足下がぬりるとすべった。それは、人の血か焼けた体からしみ出た油か。
あてどなく、逃げまどうわたしたちをあざ笑うかのように、飛行機が低空飛行して機銃掃射をかける。目の前でもんぺ姿の女性の体が爆ぜる。
だれも、かれも逃げ道を探している。
助けを求めて。だれか、だれか来て。助けて、わたしたちを。わたしを。
しあわせな、あなた。
戦争が激しくなる前に、南の島で過ごしたときには、胸の病気もなりをひそめていたのに。
戦争のせいで内地にもどされ、汚れた空気はあなたの肺をたちまち駄目にした。
闇雲に走るわたしの足は、何かにぶつかりはげしく転んだ。
それは、炭のように黒こげになった親子だった。起きあがろうとしたわたしの足に激痛が走った。
頭をめぐらすと、逃げ道がない。どこも燃え盛る炎の壁だ。
もう、ここで終わりたい。喉の奥は、すでに焼けているのか声も出ない。
もうあなたのところに、行ってもいいですか。
こんな地獄からわたしは立ち去りたい。
みあげる空には、星があった。夏の、星が。
あれが、白鳥座。こと座、おおわし座。
蠍の胸には赤い星。
あなたが指さす。
目をつぶろう。ここに倒れよう。すでに熱くなった地面に体を横たえよう……。
誰かが、わたしの肩をゆすった。
「おかあさん!」
康子。ひとりでお逃げ。
「おかあさん!」
もう足が痛いよ。涙も出ないよ。体の中の水がぜんぶ飛んでしまったようで。
「立って、にげよう。お寺、おとうさんの、お寺」
肩をゆすられても、わたしは動けない。もう、いかせてほしい。
「いやだ! おかあさん、しんじゃいやだ」
しんじゃいやだ! わたしも叫びたかった。あなたの死の床で。しんじゃいや。
康子をたのむ。
なんてずるい! あなたはしぬくせに。
わたしは萎えた足に力をこめた。やけ焦げた親子、目を凝らすと折り重なるように、無数の死体があった。ここにもう一組ならぶのか。
足がもげたわけじゃない。腕がちぎれたわけじゃない。
「康子!」
わたしは康子の手を引いて、あなたの菩提寺へと向かう。高台の、銀杏にかこまれたお寺。
走れ、人垣をかきわけ。けっして康子の手は離さず、走れ。
あなた。
あなたが死んでから、わたしのなかにずっと雪が降っている。
千人針を縫うときにも、配給の列に並ぶときも、出征する兵士を見送るときにも。
あの日見た雪が降り続いている。
婦人会で集まったときにも、康子の前髪を切ってあげているときにも、雪は止まない。
『正代さま、康子ちゃん、お元気ですか。お父さんは南の島で元気でいます。咳もでなくなりました。あたたかくて、毎日半袖ですごしています』
南洋からの絵はがき。青い色が載せられた海の写真。
『康子ちゃんの大好きなバナナがたくさんあります。いつかみんなで島で暮らしたいと思うほどです』
丸いめがね、白いシャツ。赴任先の学校のまえでほほ笑む、あなたの写真。
あなたの願いはかなえられなかった。
炎の尾を引き、空から絶えることなく落ちてくる爆弾。防空頭巾はもう黒こげだろう。でも足は動く。
ふりかえると、康子が小さい体で必死についてくる。
なぜかわたしの口から笑い声がもれる。
まるで壊れた蓄音機かラジオのように、甲高い笑い声が止まらない。
あと少し、山門をくぐって石段を登る。
せまりくる炎の舌は、庫裏や本堂もなめ尽くすのだろうか。
息を切らして登り詰めた境内は、人であふれていた。みな空を見上げる。爆音を立てる飛行機から身を隠す。
紅蓮の炎は、銀杏の生木を焼いて、焼ききれずに消えた。
ふいにあたりがしんとした。
上空に機影は消えた。東の空が白んできた。眼下にはまだ火災がおさまらないでいる。けれど、燃やすものもなくなったのか、炎は小さくなっていく。
「康子」
煤で真っ黒になった顔。白目だけがなんて目立つのだろう。
わたしは康子を抱きしめた。焦げ臭く、汗くさい康子の体を抱きしめた。
心臓の音が聞こえる。折れそうなくらいに細くて薄いけれど、あたたかい体。
『おみやげは何がいいかな。康子ちゃん、お母さんのいうことをよくきいて、おるすばんしていてください。お正月には家に帰ります』
家に帰りましょう。
何もなくなっているかも知れない。
でも、康子がいる。
しあわせな、あなた。
雪は降り止まない。
わたしは、しあわせではないのでしょう。
でも、喜びはあるから……。
おわり
『まぼろしの 白き船ゆく 牡丹雪』 高柳重信
小学生向けの戦争文学ばかり読むような、暗い子ども時代の自分へ。
旦那様のモデルは、中島敦氏だったりいたしますm(__)m