6 彼と二人で決めたこと
「カナミ、お前との日々はとても楽しかったよ」
「喧嘩ばかりしてたじゃない」
「お前の反応が面白いからだ」
「何ですって?」
思わずいつものように喧嘩しそうになるがとどまる。それが向こうにも分かったのか、クスリと笑って話を続ける。
「お前はどこまでも真っ直ぐだった。そんなお前のおかげで、俺はいつしか心が軽くなっていた。そこにリーザが来たんだ。リーザは変わらず俺を求めてきた。俺の罪悪感は限界に達していた。あんなに好きだったのにとうとうリーザを抱けなかった。真っ直ぐなカナミを思い出したからだ。同じ黒でありながらも性質が全く異なる。リーザはそんな俺に焦れて、無理やり俺と寝た。どうして男は気持ちがなくても寝てしまえるんだろうな。俺は自分が汚く思えるよ」
出会った日の彼の存在感は圧倒的だったのに、今では儚く感じた。そんな彼を消えないでと抱きしめたい。それを今の彼は望んでいないだろう。
「そんな俺をカナミは助けてくれたんだ。ありがとう」
「私は何もしてないよ」
「俺は助かった。ありがとう」
執事の彼が強張った顔で現れた。客人が来たようだ。最近客人が多い。耳打ちされたゼノンは客人の名前を聞いて固まったものの、未だに繋がれた手で我に返ったようだ。
「応接間に向かう。カナミ、ついてきてくれるか?」
彼についていくと、この世界に来て初めて会った紳士がいた。彼はリシャール・ドゥモルチェと名乗った。私のことを覚えているらしく、私に笑いかけてくれた。
「やぁ、久し振りだね」
「お久しぶりです。ですが、どうしてここに?」
「彼は私の息子だからさ」
「先ほど話した俺を娼館から出してくれた人だ」
私が異世界に来た初日、彼があの場所にいたのはゼノンの領地を気にかけていたからではないのだろうか。彼なりの愛し方だろう。
「ここに来るとは思わなかった……。あんたはどうして叱りもしないんだ。俺はあんたに酷いことをした」
「私は君との時間を大切に思っていたよ。黒持ちの苦しみを癒せなかったこと、すまないと思っている。あの子は毎回あの手この手で私を試すんだ。リーザが事の発端だろう? 君を叱る必要がどこにあるんだい」
これが年の功だろうか。紳士は全て知っていると言わんばかりに落ち着き払っていた。彼の包み込むような笑顔にゼノンは居心地悪そうにしている。
「俺は叱って欲しかったよ。あんたはそうやっていつも俺よりも遠くにいる」
「そうだね。それは私が君よりも多くの失敗と喜びを積み重ねてきたからだろうね。君もこれから積み重ねていきなさい」
彼の笑顔には歳相応の皺が刻まれている。重ねてきた年齢に自信を持っているようだ。
ゼノンの目に柔らかな光が灯る。そうか、ゼノンは彼を尊敬しているんだ。
「ところで私の妻を知らないかい? 一週間前から行方が分からなくてね。こういう時は君の元にいると思ったんだが」
「五日ほど前に来ましたが帰りましたよ。その後は分かりません」
「なるほどね。こちらで調べたところ、ここで足跡が途絶えているんだよ。この屋敷に隠れていると思うのが妥当かな」
屋敷を捜索したところ、正妻であるエレンの元にいた。エレンは紳士の紹介でゼノンと結婚した。その繋がりでエレンの元にいたそうだ。
「あら、貴方遅いじゃない」
「君はかくれんぼが上手だね」
リーザという女性は二十半ばだろうか。若く見える。久々の黒髪黒目で無性に故郷が懐かしくなった。彼女はカナミの視線を受けて自己紹介する。
「私はリーザ・ドゥモルチェ。旧姓は舟橋 理沙。あなたと同じ日本人よ」
「日本人……!? まさか、そんな」
「ゼノンが気にかけている娘が気になって隠れてみたのよ。旦那様にも見つけてもらいたかったけどね。同郷の人間に会えるだなんて隠れて正解だったわ。この瞳、肌、故郷を思い出すわ。昔は髪を染めたかったし、カラコンだってしてみたかったのにね」
この懐かしがる様子はただごとではない。私はこの人は同郷だと感じた。
「あなたはどうやってここに来たのですか? 帰る方法はありますか?」
「それが分からないのよね。高校から帰っている時にこちらに来たから」
彼女は高校生というには年齢を重ねすぎている。それだけの年数こちらで過ごしたのだろう。
「私の編み出した方法なら帰れるかもしれない」
諦めていただけにその言葉は嬉しかった。帰れるものなら帰りたい。浮足立つ反面、表情を暗くしたゼノンに後ろ髪を引かれた。
方法があると聞いた紳士が首をかしげる。
「リーザ、君は帰ろうと思わなかったのかい」
「あらやだ。旦那様がいるのにどうして? それにもう両親は諦めているでしょ。いいのよ。私には大切なモノができたのだから」
そう言った彼女の笑顔は諦めが滲んでいた。彼女に両頬を捕まれ、目を深く覗き込まれる。心の中を見透かされそうだ。
「あなたが帰りたいのなら帰してあげる。だからよく考えてみて」
夫妻が帰った瞬間、ゼノンは口を開く。
「カナミは元の世界に帰れ」
「どうしてゼノンが決めるの。私は離れたくない」
「心配だからか? 俺に同情はいらない。現にこの世界でどうやって生きていく? 黒持ちには生きにくかっただろう?」
道がふさがれていく。彼を一人にしたくないのに彼は拒む。彼の力になりたいのに、このままではいけないのだろうか。私は無力だ。
「俺は異世界からきたリーザの孤独を知っている。彼女の渇望も知っている。カナミにそんな想いをさせたくない。平和な国なんだろう? 両親も生きているんだろう? 俺がほしかったものを簡単に捨てないでくれ。俺を理由にしないでくれ。カナミの意思で決めるんだ」
彼は平穏がほしかったのだろう。黒が当たり前の日本なら両親のぬくもりを知ることができたかもしれないんだ。
「俺は不幸だとは思ってない。リシャール様が父のようなものだったし、リーザも母のようなものだった。彼女は孤独を感じて俺を求めたけれど、利用されたとしても恋を知ることができてよかったと今では思えているんだ。俺はお前に出会うまでずっと絶望して生きていくのだと思っていた。過去にできたのはカナミのおかげだ。ありがとう」
彼が困ったように笑いながら私の頬を拭う。私はいつの間にか泣いていたらしい。
この人の陰っていた心はこれからより一層輝くだろう。その時私は側にいないのだ。ゼノンが私を還らせることに揺らぎがないことを確信して涙が止まらない。
こんなに胸を揺さぶる人への想いが言葉にならない。最初は喧嘩ばかりしていた。彼を少しずつ知っていった。嫌な感情も知った。弱い彼も知った。そんな彼を丸ごと大切だと思った。言いようのない複雑な感情を私は知らない。彼に溢れる想いを伝えられない。
彼も複雑そうに私を見ている。何か言いたいことがあるのに何度も言い淀んで口を閉じているようだ。私達は似た者同士なんだろう。
彼は迷った末に私を抱きしめた。
「一週間思い出を作ろう」
「嫌だよ。これ以上作ったら、向こうに帰った時泣いちゃう」
「もう泣いてるだろ。……決めたんだな」
「決めたよ。私は帰る。ここの私は無力だから。私ね、元の世界ではそこそこ頭がよかったんだよ。学年で半分より上の順位だった。でも、そんなことが意味のない世界にきて、……無力だなって感じた」
私の肩が濡れていく。彼は声もなく涙を流していた。きっと彼の涙は綺麗だろう。重みを増す肩にとうとう私もこらえきれず彼の肩を借りた。
「私強くなるね。だからゼノンも強くなって。この時した決断に恥じないような二人でいよう」
「ああ」
日本に帰ることを決めた私はクリスティーナ様や執事、屋敷中の人に挨拶をした。紳士とリーザにも伝えた。二人は本当にいいのかと訪ねてきたが、静かに笑う私とゼノンを見て納得したようだ。泣き腫らして瞼は重いが前身していると思えた。
帰るまで後悔のないようにしたい。私はゼノンが頼むより先に彼のための歌を沢山歌った。どれか一つでもいいから私がいたことを覚えていてほしかった。ゼノンは私が歌ったうちのいくつかをハープで弾けるようになった。こうして私の痕跡が残るなら嬉しい。彼も私にハープを聞かせてくれた。一つだけ何の曲か教えてくれなかったが、私はそれが大好きになった。何回もねだった。彼はそんな私を咎めることなく、何度も奏でてくれた。
一週間はあっという間だった。