5 呼ばれた名前
ゼノンの表情がまるで紙のように白くなっていく。自信家の彼をここまで変えてしまうリーザとは誰なのだろうか。彼は力ない足取りで執事の後をついていく。その様子に不安で胸がざわついた。
その日リーザという人の来訪を知ったクリスティーナ様は荒れて一人部屋に引きこもってしまった。下仕えさえそばに寄せ付けないため、私は暇になってしまった。他の人から仕事を分けてもらってどうにか一日をやり過ごす。
月がてっぺんに登った頃、パープを抱えたゼノンを見つけた。苦しそうにパープにすがっている。今にも泣きそうだった。私は見ていられなくて彼をそっと抱きしめた。彼は弱り切った顔で私を見て、体を預けてきた。ここまで彼を憔悴させてしまうリーザという存在は恐ろしい。クリスティーナ様が嫌うのも分かる。
心を支配してしまうということはよほど心の比率が高いということ。そう思うと何故か悲しくなってきた。
いけない。今は私のことよりもゼノンをどうにかしたい。
手探りでゼノンのパープを弾いていた様子を見よう見まねで弾いてみる。私の奏でた音はお世辞にもいいとは言えなかった。腕の中で振動が伝わってくる。続いて小さな笑い声が聞こえた。
「下手くそ」
ゼノンが笑った。気取った笑みじゃない。素の笑顔だ。
あまりにも貴重なソレに私は必死でパープを奏でる。奏でられる不協和音にゼノンはより一層笑った。胸がじんわりと暖かくなっていく。今なら歌えるだろうか。
私の世界にあった歌を彼に贈る。今のゼノンに贈りたい。ゼノンは安らかな目で私を見守ってくれていた。
歌い終わった時、彼は小さな声でありがとうと言った。
「どういたしまして」
ゼノンが子どものような顔で眠っている。私はそれにつられて眠りに落ちた。
「あなたがゼノン様を救ったのね。今まで私では救えなかった彼を」
目を覚ますとクリスティーナ様が泣き出しそうな顔をしていた。けれどそれ以上に彼女は嬉しそうだった。
「彼はもう呪縛から解き放たれるべきだわ。だからあなたがいてよかった。とても綺麗な歌声だったわ」
クリスティーナ様自ら、あのガウンを私にかけてくれた。ゼノンには毛布を。後ろに執事が控えていた。
恋した人間はこれほどまでに愛情深いのだろうか。いや、これは彼女だからだろう。二人で積み重ねてきたものがあるからだろう。
「私は、クリスティーナ様が好きです。ゼノンは正直ムカつくけれど嫌いではありません……。私は二人が大切です」
「そう。私もあなたとゼノン様が大切よ。お願いしていいかしら。リーザの呪縛から彼を救って」
彼女は不思議な言葉を残して、執事を伴って部屋に戻っていった。
確かにここまで彼が揺らぐのならば呪縛だろう。そっと彼の頭を撫でた。
彼は日を重ねるごとに少しずつ平静を取り戻していった。彼のために歌うことも減った。彼はそれをよく思わないらしく、歌うように何度も言われた。彼が本調子になればいつもの私達に戻る。歌は――私は必要なくなるのだ。
「歌え」
「今のあなたには必要ないでしょ」
「俺が聞きたいんだ」
黙り切った私に、ゼノンは苛立ったようにハープを奏でる。瞳を閉じて音に浸る。
彼は回復したようだ。いつもの音色に戻っている。いつの間にか音が止んでいたので目を開くと、唇が触れてしまいそうな距離にゼノンがいた。瞳のきらめきにとらわれて、じっと見つめてしまう。
「お前の名前は」
「今、必要?」
「お前の名前を今、とても呼びたい」
細められた目はあまりに優しく、胸がぎゅっと締め付けられた。名前を教えてしまうと彼を認めたようで気恥ずかしさもある。それでも呼ばれたいという欲が勝った。
「清水 佳奈未。こちらで言うならカナミ・シミズ」
「そうか。お前はカナミと言うのか。カナミ……、カナミ」
ゼノンは嬉しそうに繰り返し名前を呼んで笑う。その間ずっと距離が近いので私は落ち着かない。ああ、彼がようやく私の名前を呼んでくれたなら私も変わらなければ。今更で照れくさいけれど。
「そうだよ、ゼノン。私はカナミっていうの」
彼は名前を初めて呼ばれたことで目を瞬かせ、花開くように笑みをこぼした。美しい彼が更に透明感を増したようで消えてしまうのではないかとさえ思った。
「ああ、名前を呼ばれるのはこんなに嬉しいんだな。ずっとくだらない意地で名前を聞かずにすまなかった」
「いいよ。私だって教える気はなかったから。ゼノンの名前すら呼ばなかったでしょう」
彼は私が呼ぶたびに名前を噛み締めている。ただでさえ近い距離だというのに彼は額をくっつけた。そして触れそうなほど近い唇は頬に優しく触れて離れた。
あまりのことに戸惑う私の頬を撫で、空気が二人の間に流れ込む。体温も離れていった。彼は私の顔色を見下ろして真っ赤だと笑う。彼も少しだけ赤いけれど、素の笑顔をもっと見たい私は何も言わなかった。
「リーザは俺の好きだった人だよ」
彼が話した言葉にひゅっと息が詰まる。彼は過去に思いを馳せているせいか、気づかれずにすんだ。
私は視線で先を促す。
ようやく口にできたのだ。吐き出してしまえばいい。彼はずっと誰かに聞いて欲しかったのだろう。
「俺の本当の髪の色はカナミと同じ黒色なんだ。黒色は魔女の有する色として忌み嫌われる。母は俺を受け入れられなくて、俺は捨てられた。最初に話しただろう? 黒を持つものは体を売るくらいしか生きていけないと。あれは俺の実体験に基づいた言葉だ。俺は娼館で生きつないでいた。黒は不吉な色とされていても、物珍しさに俺を買う人もいたんだ。それはある日終わる」
彼の手が冷たくなっていたので握ると、彼は私の存在を思い出したのか握り返してくれた。手が温もりを取り戻していく。
「俺はとある紳士に身請けされた。彼には後妻がいたんだ。それがリーザだ。髪と瞳の黒い彼女は魔女と言われていた。そんな彼女の孤独を和らげるために買われた。俺はその日々に不満はなかった。衣食住が安定して、息子のように可愛がられて、教養を学ばせてもらった」
楽しい日々だったのだろう。表情が優しい。しかし、彼の表情が曇った。
「彼女は平穏な日々では満足しなかった。歳の離れた夫婦だ。何らかのズレがあったのだろう。彼女は俺を誘惑した。娼館から出て、物足りなく感じていた俺は彼女の誘いにのった。今思えばバカなことをした。俺は彼女に夢中になった。彼女といれば孤独が和らいだ。黒という色をもつのは二人だけ。そんな日は長く続かない。彼女の夫に見つかったよ」
握る手に力が込められた。
「俺を娼館から出してくれた人に、俺はなんて不義理を働いたのだろうと我に返った。彼は俺を咎めなかった。彼は彼女を閉じ込めた。そして俺に領主としての教育を施して、ここを任せた。俺が旅立つ日、少しだけ彼女に会ったよ。彼女は俺に抱かれていた時よりも艶やかで美しくなっていた。俺はその時分かった。彼女は彼に深く愛されたかったんだ。そのために俺を利用した」
彼の顔が痛々しくて、当時の傷の深さを感じる。
「彼女は愛に不安を感じた時、俺の元に来る。俺は唯一同じ色をもつ彼女を拒めない。あんなに楽しい日々を過ごしたんだ。彼を裏切っているとしても触れられずにはいられなかった。きっと彼女は今頃彼に溺愛されているだろう」
「利用されていると知っていても、彼女を抱き続けた?」
そっと彼の頰に触れると、彼は頰を寄せて目を伏せた。
「ああ。俺は少しでも会えるのが嬉しかった。例え利用されていてもよかった。娼館では好きでもない相手と沢山寝た。だからその延長線上だ。罪悪感で押しつぶされそうになっても。本当の意味で愛されていないとしても」
息が詰まるような心地がした。
「確かに黒は忌み嫌われているものね。クリスティーナ様はかなりお嫌いのようだし」
「クリスティーナはリーザが嫌いなだけだ。俺を振り回すリーザを許せないらしい」
「そうだったんだ……」
「そして、黒髪黒目のカナミと出会った」