3 名前を呼んで
私は文字通りクリスティーナ様の下女として働くようになった。今はクリスティーナ様の部屋掃除をまかされている。そして部屋を何度も掃除して、ようやく気付いた。彼女は赤色が好きなようだ。部屋の小物にそれぞれ赤が効いている。そんなことに気付けるぐらい、クリスティーナ様が好きになっていた。
掃除が終わると、丁度クリスティーナ様が帰ってきた。そして扇子で窓のふちをたどる。彼女は扇子の先、羽根を見て息をついた。私は恐る恐る彼女の顔を見る。瑞々しい果実、唇の口角が上を向き、楽しそうに笑っていた。
「あなた掃除得意なのね」
「ありがとうございます」
この時、私は掃除と言うものを教え込んでくれた母に感謝した。本当にありがとう。そしてこの美しい人に褒められたことが嬉しかった。
「ねぇ、あなた。話相手になってくれないかしら」
「私でよろしければ」
彼女は椅子――この椅子の座席も赤だ――に腰掛ける。すると彼女の前に紅茶が運ばれた。
「もうひとつ、紅茶を持ってきなさい」
「そんな、私は」
断ろうとした時、クリスティーナ様の目が圧しとどめた。そして当然のように、私の前にも紅茶が並ぶ。
「飲みなさい。次から貴方に紅茶を入れてもらうから」
私は紅茶の色を眺めているばかりだった。そんなに早く、次の仕事をもらえるものなのだろうか。変だと思って、飲むに飲めなかった。私の不安を感じて、クリスティーナ様は柔らかい笑みを浮かべる。
「私、良く働く人は好きよ。そして人の視線を気にする人も。この部屋の隅々まで綺麗にしてくれたわね。そんな人間なかなかいないの。それも数日で。部屋はその主人を表すもの。それがわかっているのでしょうね。嬉しいわ」
この人はなんて優しいのだろう。労働者にかける言葉を知っている。そしてさらにこの人のもとで働きたいと思わせる力がある。私はますますクリスティーナ様に心酔していく。けれど、彼女の好きな人だけは好きになれなかった。
「今日はゼノン様が来て下さるの。だから彼の目の色、紫の花を庭師から頂いてきて」
ゼノンのための花。私は取りに行きたくなかった。だから動かずにいた。そんな私を見て、クリスティーナ様は眉を下げる。
「彼は孤独な人。愛を知らない人。だからぬくもりを求めるの。生まれて最初に与えられるはずのものをしらないから。私は彼が寂しくないように、ぬくもりを与えたいのよ」
私は部屋を飛び出すしかなかった。嫌だ。私の部屋の隣がクリスティーナ様の部屋。ということは夜、私は眠れない。けれど、ゼノンが他の人の部屋に向かうと知った時のクリスティーナ様の顔を私は知っている。ゼノンがいるはずの場所を見つめて、動かなくなるのだ。心に全て抱え込んで、他に映すものがなくなる。だから私は庭に来るしかなかった。
「嬢ちゃん、もしかすると紫の花に用かな」
「はい」
「この屋敷の人間はゼノン様が好きだね」
庭師は笑っていた。彼もゼノンが好きなのだろう。けれど、私は答えられなかった。黙って庭師の取った花を受け取る。
帰り道、ゼノンが前から歩いてくる。私は脇に隠れる。縮こまって、通り過ぎるのを待っていた。けれど、私を覆う影が出来た。
「それは俺のための花だろう?」
紫の目が私を覗き込む。私は顔をそらす。
「皮肉だな。俺を嫌いなお前が俺のために花を用意するなんて」
思わず睨む。
「早く根をあげてしまえばいい。そして歌えよ」
ゼノンは私の頬に手を伸ばす。そしてなぞる。切なそうにゆがめられる眉。瞳は私を見つめ、何か願っている。彼の熱になぜか身震いする。
「おれのために――」
気が付いたらゼノンはいなかった。私は力が抜けへたり込む。
私の歌にこだわる人。そして親の愛を知らない人。寂しい人。もし、歌で全て埋めようとしているとしたら? けれど私は歌えないだろう。何かが胸に渦巻いている。
夜、私はクリスティーナ様の部屋に控えていた。じっと扉を見つめる彼女がとてもいじらしく見える。そして嫌味なまでにゆったりと足音が近付いてくる。私は自分の仕事が終わったのを感じ、クリスティーナ様に頭を下げる。彼女は目で頷く。
部屋を出たら、ゼノンと目が合った。さっきのこと、これからを考えると気まずい。すぐに目をそらす。ゼノンは意味ありげに笑って、クリスティーナ様の部屋に入っていった。それを見届けて、私はやっとお風呂に入る。自分の部屋に帰りたくないので、散歩することにした。
庭園に一人きり。故郷と同じ月を見上げる。すると隣から声がふってきた。
「そんな薄着で出歩くものではありませんよ」
ゼノン付きの執事だ。彼はまだ仕事があるのか、燕尾服を来ている。なぜか片手にガウンを持っている。対して私は薄いワンピース。急に恥ずかしくなった。手で服を隠すようにすると彼は微笑んで、手に持ったガウンを私にかける。
「夜は冷えますから」
「ありがとう」
手触りのいいガウンだった。思いの他冷えていたのだろう。肩がぬくもってきた。彼が隣に座る。
「あなたのゼノン様との攻防はよく聞いていますよ。今のところ負けているようですが」
「ゼノンは全てを武器にしているじゃない? まずそこが気に入らない。それにデリカシーがないでしょ。第一あいつ、私の名前すら聞かないのよ!?」
彼は矢継ぎ早に出てくるゼノンの悪口にクスクスと笑う。
「ゼノン様をそこまでこき下ろす人がいるとは思いませんでした。案外気持ち良いものですね。ですが、あなたはゼノン様に名前を呼ばれたいのですか?」
笑われたので、少し気恥ずかしくなる。
「いつまでもお前じゃ嫌だわ。それに名前を呼ばれないってことは、私を認めてないってことじゃない……」
その言葉がすねたように響き、こんなつもりじゃないのにと思う。けれどこれが本心かもしれない。
「では私が名前をお聞きしても?」
その時、やっと彼が視界に鮮やかに映る。目が灰色の輝きを持っていた。その熱に浮かされて私は口を開く。
「私は」
「おい、クリスティーナの湯浴みしろ」
会話に割り込んできたのはこの屋敷の主。シャツの前がだらしなく開けられている。それは何があったかを十分物語っている。
「こんな所で油売ってないで、仕事しろ」
目の毒だと思っていたらこの言葉。こいつ、ほんとムカつく!
「私、おいって名前じゃないわ。大体部屋に帰れないのは誰のせいよ!」
私が右ストレートを出すとすぐにカウンターが返ってくる。
「さて、お前は果たして俺の名前を呼んだことがあったかな。ないだろう? なら俺がお前を呼ぶ必要はないな」
ぐっと言葉に詰まっていると、ゼノン付きの執事が笑った。
「お二人とも子どもですね。ですが、クリスティーナ様が今一人ですよ。とにかく部屋に戻られてはいかがですか」
「おい、行くぞ」
「おいじゃないわよ。はいはい、行きますー」
くだらない意地の張り合い。名前は相手を認めること。だから呼んで欲しかった。今更素直になれない――。
ゼノンとクリスティーナ様の部屋に行った。クリスティーナ様は入ってきたゼノンの顔を見て、顔色が明るくなる。けれども、後に続いた私の顔を見て、複雑な顔をした。
「クリスティーナ、こいつをお前の湯浴みにつれてきた。俺はもう、帰るからな」
クリスティーナは窓から見える暗闇を見続ける。ゼノンを見ようともしない。
「ええ。分かりました。お仕事頑張って下さい」
そしてゼノンもクリスティーナを見ない。どうして、こんなにすれ違っているのだろう。
ゼノンが部屋を出て、クリスティーナは肩を震わせる。私はハンカチを用意して差し出したが、クリスティーナは振り払う。涙が溢れた目、しかしその瞳に宿る怒りに身がすくむ。
「もう沢山よ。どうしてあなたの所へ行くの? どうして、どうしてあの人のガウンを着ているの? あなたが来たあの夜だって、いつもはあんなことないのに。私から取らないで。私はもう、何も持っていないのよ……。――出て行って!!」
私を拒む空気に、部屋をとび出るしかなかった。