2 決めた
「歌わないのなら、その気にさせるまでだ」
男は私の手を掴み、引き寄せる。ほのかに甘辛い匂いがする。男の香水だろう。そして男は私の人差し指を取り、サインさせた。
「何すんのよ?!」
「契約だ。俺はお前に最低限の衣食住を与える」
それは私が今、一番望んでいたモノ。
「その代わりお前はその身をもって働いてもらう」
その日私に部屋が振り分けられた。窓のないかび臭い部屋。家が懐かしくて、泣いてしまった。
翌朝、暗室と言ってもいい部屋に、ドアの隙間から朝の光が差し込む。私は重いまぶたを持ち上げた。そして耳を塞いでいた手を下ろす。もう涙は出てこない。私は言葉どおりの最低限の衣食住を与えられていた。
「あら、ゼノン様お帰りになるの?」
隣から声がする。私は思わず身を縮めた。たぶん“ゼノン”はあの男だから。
「ああ、仕事がある」
「もっとゆっくりなさってもいいのに」
「お前に骨抜きにされてしまうな」
そう、この声。この世界で初めて聞いた声は嫌でも私に識別させる。聞きたくない、聞きたくない。自分を守るように体を丸める。そして耳を塞ぐ。外の足音が遠ざかる。私は体の力を抜いていった。だが、足音は途中で止まり、戻ってくる。
怖い。この屋敷の支配者が。そして隣の部屋のことも――。
戸は主を拒むことなく開ける。なんて恨めしいんだろう。この屋敷の主たる彼は、廊下から私のことを見下ろしている。朝日がとことん似合わない。浮かべた愛想笑いにも腹が立つ。
「昨日はよく眠れたか?」
むかつく!! 知っていて、そう言っているんだ。私が一晩中どんな思いでいたかも知っていて。
「お陰様で。子守唄にさせていただきましたよ!!」
手元にあったクッションを投げつける。ゼノンは何でも無いように受け止めた。そして肩を揺らす。もれてくる小さい笑い声。
「じゃあ今日もよく眠れるな」
そう言って再び部屋を暗闇にした。
私に与えられた最低限の衣食住が憎い。生きることは簡単じゃなくて、全てこの男に握られている。私は日本で当たり前に与えられていたそれに甘え、恵まれていたんだ。何もしなくてもご飯が出た。親がいた。学校にも通わせてもらった。服は好きなものを買って、おしゃれをしていた。今はその一欠片しかない。生きることって苦しい。でも死ねない。怖いから。だから生きてやる。生きることにすがってやる。それで何もなかったかのように家に帰るんだ!! 私は手を強く握り締めた。
身支度を整えると、私はまたゼノンの執務室に呼び出された。
後ろに執事が控えている。
「歌え」
彼は座ったまま尊大な態度で言った。私はそんな彼に挑むように、目線を同じ位置にする。
「嫌。昨日は手助けもしないで、監視されていたことに腹が立ったから断った。それで落ち着いた今日、考え直したの。やっぱり嫌だった。私は歌には気持ちを込めたい。誰かのための歌、自分のための歌。決して、強制されるものじゃないと思うの」
ゼノンは椅子から立ち上がり、私の不吉といわれる黒い目を覗き込む。まるで覚悟の度合いを見られているようだった。だから私は目を反らすことなく、見返す。ゼノンが息がかかるぐらいの距離に近づいた。
「その虚勢がいつまで持つかな。お前が着ている服、売れば6000シになるだろう。歌だって金になる。お前の体も。お前が持っているモノの価値を知ることだ。そして使えるモノは何だって利用すればいい」
私はゼノンとの距離を更に縮めた。もう少しでキスしてしまいそうな距離。けれど私はひるまない。私の持つ誇りを、笑みという強さに変える。
「ご心配なく。私は労働者として生きます」
ゼノンは固まっている。ゼノンみたいな冷たい人間でも動揺するんだ。初めて見た。けれどすぐに持ち直し、元の鉄火面に戻る。貴重だったのに。
「なら見せてみろ。この屋敷はお前に甘くない」
「望むところよ」
ゼノンは楽しそうに笑う。それは見方によっては歪んだ笑みで、私は背筋が寒くなった。その笑みのまま、後ろに控えている執事に耳打ちする。
「な、それはさすがに……」
「本人がやると言っているんだ。問題は無い」
「分かりました。そのように取り計らいます」
執事が部屋から出て行く。私は何を言われるのだろう。
「お前は今日からクリスティーナの下女だ。労働者と言うのなら、しっかり働けよ。お前に断る資格はない。今なら朝の日光浴の時間だな。東の庭だ。行け」
私は踏み出そうとして、止まる。振り返ると、ゼノンが早く行けと言うように手で追い払っている。けれど私には重要な問題があった。
「どっちに行けばいいの?」
「部屋を出て右。そのまま行けば庭に出る」
呆れたようにため息をつくゼノン。私が部屋を出て行くのを見ずに、書類に取り掛かっていた。
庭に出ると、太陽の光の眩しさに手をかざす。東から差し込む光は庭を照らす。東の庭という所は日当たりが良く、緑溢れた庭園だった。朝の露で樹木がより瑞々しく光る。その全ての光の中心に、彼女のための朝日なのだと思わせる、光の集合体たる女性がいる。彼女は私を視界に入れると眉を寄せた。
「朝から、なんて不気味な色を見てしまったのかしら。あなた。あの小娘をつまみ出しなさい」
彼女に使えていた人がそろって私の両腕を掴む。私はそのまま後ろに引きずられる。何もかも遠ざかってしまう。このままじゃいけない。あの男を見返すんだ。
「あの、ゼノンからクリスティーナさんの下女になれって言われてきたんですけど」
「私がクリスティーナよ」
朝の光をかき集め、彼女は言った。
「私ね、黒が嫌いなのよ。不気味な色。だからお断りするわ」
「そんな、私は働きたいです!」
「い・や・よ。それにあなたゼノン様が拾ってきた子なんでしょ。よりにもよって女! 今までは男だったから許したけれど、今回は無理ね」
この人にとって世界はゼノン中心に回っている。きっとゼノンがNOと言えばこの人もNOと言うだろう。それでも私は此処で終われない。私が生きるために諦められない。
私はテーブルに暖められた紅茶を発見する。香ばしい香り。今の私に紅茶を飲むことは許されていない。この人との格の違い。テーブルクロスの白さが憎らしいと思った。私はそれを奪う。テーブルからポットとティーカップが落ちる。
「あなた、なんてことを」
素早さはそのままに、白を頭に巻きつけた。
「これならどうです!? もう、雇えないなんて言えませんよね」
あっけに取られた顔をする一同。地面に紅茶が染みていく。
長い時間、まるでにらめっこをしているかのように視線をそらさなかった。そしてその凍った空間を破ったのは。
「フ、アハハハハ!」
クリスティーナの笑い声。
「いいわ。確かに条件は満たしたものね。雇ってあげる。その代わり弱音は聞かないわよ」
「はい、弱音を吐くつもりもありません」
彼女は私の言葉に満足そうに頷いた。
「さて、雇うとは言ったものの気になることがあるのよね」
「何ですか?」
「目も黒いじゃない」
テーブルクロスを使い、髪の黒を隠した。けれど、私は目も黒かったんだ。
「ど、どうしたらいいんだろう。目隠し!?」
慌てる私に対し、クリスティーナは椅子から立ち上がり、私の顔を両手で押さえる。そして私の顔を覗き込んだ。彼女の湖のような瞳が私を冷静にする。
「そのままでいいわ。私は“あなた”という人を雇ったのだから」
「ありがとうございます」
「さぁ、早速仕事よ。ゼノン様のためにも働いて」
私は動きを止める。『はい』なんて言いたくない。だから何も言わない。
「あなたね、ゼノン様がいなければ今頃死んでるわよ。今お腹が空いていないのは何故かしら。分かるわよね」
「でも……」
「もっとゼノン様を見ることね」
あえて返事をしなかった。