1 世の中上手くいかない
私は日本に生まれて、一夫一妻は当たり前だと思っていた。けれど、ある日飛び込んでしまった非日常は違った。一夫多妻だったのだ。私はそのせいで未だにこの世界に溶け込めない。
さっきまで高校で眠気を誘う世界史の授業を受けていたはずだった。私はいつものように眠りに落ちて。目が覚めると知らない場所にいた。どうやら、柔らかいベッドに私は寝かされていたようだ。部屋にあるタンスやカーテン、ベッドとどれも品がある造りをしている。おかしいと戸惑っていると、外国人のような顔立ちをした男が部屋に入ってきた。
彼は襟元を開けたシャツに、色あせたジーンズを履いており、だらしない格好が似合っている。ただ、男の茶髪だけは綺麗に整えられていた。顔は怜悧で美しい。その男はその高い身長をもって私を見下ろす。そして冷たい言葉を言い放った。
「ここで女が生活するには体を売るしかない」
彼の発言は女を馬鹿にしていると思った。まるで、女にはそれしか価値がないような言い方だ。私は体を売りたくなんてない。けれど、私が今頼れるのはこの男だけだということも事実だった。
「私を拾ったのならあなたが助けてよ!」
「家の前で倒れていたから回収しただけだ。ならお前は」
そこで男は私の顎に手をかける。間近で見る紫色の瞳に動けなくなる。首筋をなぞる手に、何かが震えた。
「俺の妾になるか?」
彼の紫色をした目から、手から漂う色香に耐えられない。泣きたくなってきた。不安だよ。怖いよ。苦しい。
私は数分後に、首をぎこちなく横に振った。うんと言えば楽だっただろう。けれど、どうしてもイヤだった。結果、私は屋敷から追い出された。
***
彼女を追い出して、男は昼間からワインの香りを楽しんでいた。先程の事なんて何でもないといったようだ。後ろに控えていたスーツの男が口を開く。
「いいのですか、旦那さま」
「何がだ」
「あの方泣いていましたよ」
男はクッとのどを鳴らす。
「それが? 女の涙は飽きるほど見た」
「しかし、旦那さまの財力なら」
「そうやって甘やかして、あいつのためになるのか? この世の中何もしないで暮らせるほど甘くないんだよ」
男はニヒルに笑う。違いない。そう思ったのか、スーツの男も主と似たように笑い返す。
***
私は早くも路頭に迷っていた。何をしたらいいのだろう。とにかく言葉は通じるよね。ご飯と住む所さえあれば……。まずお金がない。私は周囲を見渡した。花売りの少女がいる。私はピンと閃いた。
「靴磨きはどうですかー? 一回五シですよー」
結局どの店でも雇ってもらえなかった。そろって黒髪黒目が不気味だと言われた。つまり黒髪黒目にこの社会は優しくないということだ。だからこの方法を取った。日本円にして五円。少しでも稼がなくちゃ。
「磨いてもらおうかね」
一人の老紳士がやってきた。嬉しくて心の中から彼を迎えた。これが私の異世界での一歩だ。思ったよりうまくいきそうなことで、つい口づさむ。
「おや、それはなんて歌かな」
「私歌っていましたか」
「それはもう」
「すいません」
靴磨きに専念する。頭上でおほんと咳払いがした。
「もう一回歌ってくれないかね。いい声だったから」
「はい!」
お茶目にウインク一つ。見かけに反して可愛らしいお客さんに私は一層靴磨きに力が入った。
老紳士は、帰り際に私にお金を握らせた。かさりとする紙の感触。私がもらうはずなのは硬貨だ。
「こんなにいただけません!」
「お礼だよ、歌のね」
お茶目にウインクする姿に私は何も言えなくなる。人は暖かい。
しかし宿泊施設にはとまれなかった。私の容姿を見るなり、頭を横に振られたのだ。
一体どうしたのだろうか。
結局、その日私は初めて外で寝た。
あのおじさんがくれたお金でパンを買った。毎日少しずつ食べている。あれから五日。お金はたまらない。いい加減体臭に耐えられなくなってきた。
「いくら?」
「はい。靴磨き一回につき五シです」
街人は馬鹿にしたように笑う。
「ちげーよ、あんたの値段」
「っ! 冗談もほどほどに」
ぐいっと腕をつね上げられる。ひげの伸びただらしない顔がそばにあった。男のヤニ臭い息に顔を背ける。
「あんたそのまんまで生きていけんの? ほんとはあんたも分かってるんじゃない。貴族の気まぐれで解雇されたクチだろ。一緒に楽しくやろーぜ」
イヤだ。この男の言葉は私の不安を駆り立てる。ずっと無視していた心の声が、だんだん大きくなる。
――もう無理だよ。諦めちゃいなよ。諦めちゃいなよ。諦めよう?
「そいつは俺の使用人だ。おい、帰るぞ」
糸が切れかけた時、その声が聞こえた。助かった。肩の力が抜けていく。けれどその声に聞き覚えがあって、振り返るとこの世界で初めに会った男がいた。正装をして、凄く遠い人に見える。街人は貴族の身なりをした男の登場に怯えて逃げた。私はあっけにとられて動けない。ずっと座ったままの私に嫌気がさしたのか、男は苛立った声を上げる。
「おい、来るのか、来ないのか」
「どうして、……どうして助けてくれたの?」
男は背を向けて歩き出す。そしてぽつりと言葉を漏らした。
「ただの気まぐれだ」
男の気まぐれで、また西洋造りの屋敷に着く。初めて会った時と同じ部屋に通された。男は大きく顔をしかめる。
「お前、臭いな」
部屋に入るなり、こう言われた。初めて男の人にこんなこと言われたんですけど!? まぁ、お風呂に何日も入れていない私が悪いですよ。でも遠慮ぐらいしてくれてもいいじゃない? 見たら分かるでしょ。公共浴場借りるお金がないことくらい。
「仕方ないじゃないですか。お風呂入れないんだから」
「だから言っただろう。『ここで女が生活するには体を売るしかない』とな」
「私は、そんなことしたくない」
「それでこの6日やってこれたのか?」
答えの分かりきった問いは質が悪い。私は歯をくいしばり、男を睨むだけだった。男は興味を失ったように目をそらし、戸口に向かって「イザベル」と言う。すると丈の長いスカートに、品の良い色合いのドレスを来た女性が入ってきた。
彼女は私を横目で見ると、主人である男に確かめるような視線を送る。男は軽く頷き、仕事机に座り、書類に目を通していく。女性は私の腕を引っ張った。どういう意味かと思って男を見たが、男と視線は合わず、そのまま部屋を出てしまう。
着いたのはお風呂場。浴場と言ったほうがいいくらいの広さだ。手際よく服を脱がされ、浴槽に落とされた。隅々まで洗われる。恥ずかしさに「自分で洗える」と言ったが、無視された。おかげで肌はこちらに来る前のように戻った。それ以上かもしれない。
風呂からあがると、着替えとして長い紺色のドレスを渡される。この着付けもしてくれた。そしてまた男の部屋に戻る。
「歌え」
唐突に男は言った。私は聞き間違いかと思った。男の前で歌ったことなんてないのだから。
「お前はここを出てから、靴磨きをして稼いでいた。その最初の客に歌っただろう?」
その言葉はあることを意味する。私は思わず手を出していた。乾いた音が男の頬を打つ。手がしびれる。
「つまりあなたは、私のことをずっと見ていたんでしょう。最低ね!」
私がどんなにひもじい思いをしていても、苦しくても、ただ見ていただけ。怒りのあまり涙がこみ上げてきた。
「歌わない、歌うもんか」