絵画の少女
ターミナルの駅を出て、少し歩けば人の出は多い。
週末だけでなく、平日にいたっても、その人の量は減ることがない。人々の目的は、実に様々だ。
文化施設へ急ぐ女性もいれば、動物園へ向かう家族、慣れた足取りで博物館へ行く男の子もいる。
そして、これもまた、人々の目的のひとつであろう。
多くの人が列を作っている。手にはチケットを持っている。
列の先を目で追うと、先頭では開館前の正門と、ヨーロッパの有名な画家の作品(を引きのばして拡大たもの)が、待ちかまえている。美術館。
今は、特別展として、ヨーロッパの美術館が所蔵している作品群を、国内で展示している。
のちに、大阪でも開催することになっている。
人々の中のひとりが、歩みを止めた。
青年は、この有名な画家の作品を、離れたところからやや見上げた。
少しだけ見ると、また歩を進めだした。
この展示を気にはなっているようだが、今は他に行くところがあるようだ。
しかし青年は、どの文化施設へも行かずに、足早に施設群を抜けてしまった。
慣れた足取りで進むと、やがて、目的の場所に着いた。ここも美術館。
だが、先ほどの施設群からは、少し離れている。一般の家屋が近い。
そして、ここのは規模が大きくない。
また、周囲に木が植えられているせいか、落ち着いた雰囲気を感じさせる。
女性的と表現して良いのだろうか。青年は、外観を確認するのもそこそこにして、中へ進んでいった。
-
美術館の中はとても薄暗い。
照明は灯されてはいるが、作品を鑑賞するのに必要なだけの光の強さに抑えられている。
音はほとんどしない。
時折、鑑賞者が歩く床のすれる音や、鑑賞者同士の小さなヒソヒソ声が聞こえてくる程度である。
匂いもしないが、美術館特有の品のある空気を鼻に感じる。温度、湿度は厳密に管理されている。
作品の劣化を抑えるためであるが、鑑賞者にとっても、適度な環境ではないのだろうか。
順路に沿って、鑑賞者が、作品の世界に浸っている。
興味を引く作品が目に入ると、立ち止まって、その世界に入りこもうとしている。
ここは、現実でありながら、非現実を楽しむことのできる場。鑑賞者が、ある絵画の前で立ち止まった。
が、少し目をくれるとすぐに次の作品へと、歩を進めてしまった。
その作品は、人物の表情を描いた肖像画である。人物は、十代後半の日本人の少女である。
体を斜め前に向けつつ、顔はこちらをとらえている。
目は、鑑賞者を見つめ返しているように錯覚させられる。口は、少女らしい健康的な笑みを感じる。
だが、筆使いも独特なものでもなければ、色彩も目を見張るものでもない。
特別に評価されるような点は、この少女には無いのだ。作者もまた無名の画家のようである。
ではなぜ、このような評価の作品が、他の作品と同じ展示室で並んでいるのか。
それは、鑑賞者はもちろん、館の職員でも、明確な理由を見つけることができない。
しかし、そのような中でも、この作品が、奇妙な魅力を無意識の中に植えつけているという事実があることをここに記す。
ただ、奇妙な魅力は、人々に自覚できるものではないため、展示はするが、評価は皆無であると切り捨てられてしまうのだ。では、この魅力の根源は何であるのか。
それは、この作品自身に尋ねるのが良いのであろう。この絵画の少女に。
-
少女は、憂うつであった。館内は、非常に過ごしやすい。
少女が描かれたのは、数十年も前の晩秋の日であった。
冬の訪れを、わずかに確かに感じる午後で、それは空気から知ることができた。
それと比べれば、館内は、季節を感じることができない。
それどころか、昼と夜を知ることすら叶わない。
いや、正しくは、鑑賞者の衣服から、夏と冬の違いを見ることはできるし、閉館になれば、薄暗い照明は落とされ、すなわちそれは夜なのだ。
そのような通常の人間とは異なる時間的・空間的感覚は、異質とも言える過ごしやすさを生み出し、保ち続けるためにある。それを踏まえても、少女にとっては、歓迎するべき環境なのである。
少女から見て、自分以外の肖像画…少なくとも自分の周囲のそれらは、意思や感覚を持っていない。
…持っていないように見える。
だが、大事なのは、意思や感覚の有無ではなく、意思の疎通をはかることのできる相手がいないということである。しかし、それに反し、少女はそのことを重要視してはいない。
少女は、非常に内向的なのである。
自身の、鑑賞者を見つめ返す目や、健康的な笑みの口に表れる外交的な印象に反し、少女は、過剰に保守的なのである。
彼女の表情と心の矛盾について記すのは、ここでは論点がすり替わってしまうので、割愛させて頂く。
ただ少女は、意思の疎通ができないことに対して、苦痛だとは思っていない。
むしろ、精神的には、波の無い穏やかな状態であると言っても良い。
だが、凪の水面であっても、静かに上下し始め、やがては、激しく荒れる大海原と見紛うほどに、平静を保つことができなくされることも少なくない。
その結果、彼女を憂うつにさせるのである。では、彼女をそうさせるものは何であるのか。
それは、今、彼女へ向かってきている。
-
なぜ私なの?女性の肖像画なら、この部屋を見渡せば、いくらでもあるのに。
彼女達のほうが、私よりも品があって、女性的で、見る者を捉えて離さないのに。つまり、美人なのに。
それに、もしも、もしも、私を見にきてくれているのだとしても、この私の顔は、本当の私とは違う。
私は、こんな笑顔をもう作ることなんてできない。
私は、あなたの思い描くような人とは違って、暗くて、他人とは何も話せないような性格なの。
あなたは、私の顔に何を見ているのか知らないけれど、望むようなものは描かれていないわ。
だからもう、来ないで。
少女の気持ちとは裏腹に、順路の曲がり角から、その人はやってきた。少女の心は、激しく波打った。
その人は、青年であった。年齢は、二十歳くらいだろうか。
青年は、展示されている作品群を、ひと通り観賞している。
ただ、その様子は、「一応目を通す」というような義務的な作業を感じさせる。
女性の目や口、表情を手早く確認しているだけである。
まるで、自分の歩く先に目的のものがあって、そこへ至るまでの手順を几帳面に踏んでいるかのように。
その目的は正解であった。その場所へ足を運ぶまでに、時間はかからなかった。
青年は、ぴたりと足を止めた。表情は、先ほどとあまり変わらないように見えた。
しかし、目と口は様子が明らかに違っていた。
離れたところから見たそれと比べても、黒目を大きくして、私を見つめている。
口は、ごく僅かに開いた状態で、何かを言いたげである。
しかし青年は、立入禁止の枠の距離からでは、観賞の欲求を満たすことができなかったのだろう。
枠の外に身を置きながら、体を傾けて、少女の顔を見つめてきた。
近い。瞬間、私の心臓が急激に膨張した。そして、急速に全身に血液を押し出し始めた。
人間の鼓動はここまで速くなることがあるのだろうか。
私の顔や耳は、重度の風邪をひいたように、朦朧とした高熱を発している。
顔が滑稽なくらい赤くなっているだろうことは、鏡を見るまでもない。
必死で顔をそらせたくても、首が顔が目が、彼を見つめ返している。息ができない。唾が飲み込めない。
ああ、観ないで…お願いだから離れて…。私の気持ちや心臓の鼓動などは、彼には伝わるはずもない。
彼には、私の絵しか見ることができないのだから。青年は、ひとしきり少女を見つめ続けた。
すると、何のきっかけもなく彼は作品から、ふぅっと後ろに下がって離れた。
私は一先ず、大きく息を吐いた。
しかし、当然のことながら、しばらくは心臓はその機能を最大限働かせ、顔は高熱から冷める様子もなかった。青年は、自身の後ろにある、背もたれのない四人がけのソファに腰を下ろした。
肩掛けのバッグに手を入れて、何かを出す。それは、ただの鉛筆と小さなスケッチブック。
彼は、右足を組んで、その上にスケッチブックを置くと、うつむき気味に向かい始めた。
ああ、また今日も始めるのね。時折、私のほうへ目を向けるが、またすぐに頭を落とす。
その時の口は、何かを含んでいるように閉じていた。館内では、鉛筆が無造作に走る音しか聞こえない。
そんな石のような状態が数時間続いただろうか。
唐突に青年は、ふっと力を抜くと、鉛筆を持った右手をだらりとソファに垂らした。
少しの間、今しがた描いていた何かに目を落とすと、すぐにスケッチブックを閉じて、バッグに詰め込んでしまった。気持ちの良い疲労を感じながら立ち上がると青年は、私に向かって微笑んだ。
そして、すぐに順路を進んで去っていった。
-
私は、館内にひとり取り残された。
彼が去ってくれたことによる安堵の気持ちも感じれば、彼が去ってしまったことによる空虚な気持ちも否定できない。それらは融け合うこともなく混在し、ただ私を迷わせ焦燥させるだけ。
彼は、本当に私の絵を見ているのだろうか。見ているようには見えない。
絵の私を盾にして隠れている、本当の私を探しているように感じる。
彼はなぜ、私のもとへ幾度となく訪れるのか。本当の私を探して見つけた先に、彼は何がしたいのか。
そして、彼は本当の私を見て、どう感じるのか。…つまり…受け入れてくれるのか。
いくつもの疑問が生じても、彼の目の前では、それらを訊く手段はなかった。
いえ、手段を得たとしても、勇気がないだろう。
ここのところ幾度も訪れる彼のことで、常に疑問を考えてしまう。
しかし、照明の落とされた館内で、ふと、今まで生じていなかった疑問・想いが、黒い闇の中から、わずかな光の点となって私の目の前に現れた。私は彼をどうしたい?
いや、でも、それを考えるのは意味がない。私は絵画。ただの絵。何をしたくても、何もできない。
でも、そしたら、絵画なのに、意識があるのはなぜ?
意識があるせいで、こんな分からない想いに支配されるくらいなら、キャンバスに絵具を塗り置いただけの物でいるほうが幸せ。そうなりたい。闇の中の光の点は、そして消えた。
-
翌日。
青年は、いつもの通り館内を進んだ。
昨日の今日であっても、一年間有効のチケットを携帯しているので差し支えなかった。
順路に沿って、いつもの角を右に曲がれば、やや離れたあの作品に一瞬だけ目を通し、それから手前の作品を観賞しに行く。それが青年の行動の順路であった。
しかし、一瞬目を通し、手前の作品へ歩を進める途中で、感じた。違和感。
青年は、反射的に右足を下げて、体をあの作品に向けた。
人が立っている。後ろ姿だ。女性のよう。少女だろうか。
彼が心に留めているあの作品の前に立っている。次の作品に進もうとする様子は見られない。
しかし、観賞しているようにも見られない。待っているのか?何を待っているのだろうか?
青年は、自分が他の作品を見ているうちに、少女があの場から離れてくれるだろうかと考えた。
が、すぐにその考えは不要となった。彼女がその場を立ち去ったのではない。
彼女は、何かを確かめるようにゆっくりと左へ振り返って、こちらを向いたのだ。
青年は、やや動揺した。初対面の少女が何らかの意識を自分に向けていることに。
そして、これは不確かなことではあるが、自分自身も、少女に対して何らかの意識を持ちつつあることに、自分の中で感じている。むしろ、そちらのほうが彼を動揺させた。
青年は、気持ちの不安定さを抑えながら、少女に近づいていった。
そして、この作品に興味があるのかと尋ねた。
少女は、やや居心地わるそうに委縮しながらも、うなずいて答えた。
青年は、絵画に目を移し、この絵を見てどう思うのかと尋ねた。
それに対して、少女が言葉に窮していると、青年は、ではこの絵を見て何を感じたのかと尋ねた。
少女は、やはり先ほどと同じ反応で、答えを見つけられず、やや落ち着きなく床にばかり目を移していた。青年は、僕もそうなのだと答えた。
この絵を何度も見ているが、興味の根源がどこにあるのか判然としないのだと続けた。
そして、その根源が何であるのかを知るために模写をしたが、それでも分からない。ただ…。
少女は、やや反応した。
ただ、模写を描き上げると、充足感…何か少し温かいもので満たされたような感覚を得るのだ。
少女は、それを聞くと、ひどく恥ずかしがって、さらに委縮した。
青年は、彼女の様子を見て、話を変えた。どこかでお会いしたことがあるのかと尋ねた。
青年の頭の中には、先ほど少女がこちらへ振り返った様子が残像している。
少女は、少し戸惑いながら、結果、首を横に振った。彼女は嘘を言っている?と感覚的に思った。
だが、彼にも少女と出会った心当たりがないので、おそらくそうなのだと納得させた。
そして、ここで、唐突に青年は固まった。今の自分自身に気がついた。
今日は、この絵画よりも、この少女に意識を向けているということに。
この作品に対してもそうだが、自分自身の気持ちの根源も判然としない。
少し絵画を見やると、向きを変え、うつ向き気味の少女に話しかけた。
もしよければ、あなたの絵を描かせてくれないかと尋ねた。
判然としないことだらけだ。この誘いも含めて。
少女は恥ずかしながらも微笑んだ。それは答えなのだろう。
-
青年と少女は、工房へ入った。
工房とは言っても、ここは彼の実家で、祖父が生前、趣味で一室を、そのための部屋に変えただけであった。
部屋は広くはなく、元々の生活部屋としての名残りも散見されるので、決して工房であるとは言えないのかもしれない。絵具の匂いを感じる。
彼がこの部屋で描き始めてからの匂いなのか、あるいは祖父の頃からなのか。
部屋の中は、やや乾燥に近い。
窓の外を見ると、やわらかな日の光に覆われてはいるが、樹木の葉は、深い緑であった頃を過ぎ去って、茶色に変化している。
青年は、穏やかな表情で右手を差し出して、部屋の中央の椅子に座るよう、少女をうながした。
少女は、部屋の中ほどまで日が差し込んで、半分ほど照らされた椅子に腰を下ろした。
あ、失礼。青年はそう言うと、薄いカーテンを閉めた。
少女は、日の光など気にはしなかったが、小さく会釈した。
青年は、部屋の隅に片付けていたキャンバスと三脚を、ゆっくり持ち出すと、少女から少し離れたところに置いた。三脚は、木材でできているが、経年のためか、だいぶ黒みがかった茶色に変化している。
青年は、少し考えると、少女に窓のほうへ視線を向けるよう声をかけた。
少女は従ったが、どのような表情を作れば良いのか分からず、目で床を追いかけていた。
青年は、表情など作らずに、そのままで良いと言った。
少女は、それを聞くと考えるのを止めて、肩の力を抜いた。
そして、ふっと、何色でもない透明な顔を作り出した。
青年は、あの絵画の少女と、今目の前にいる少女を重ねてみた。
小さな笑みを浮かべる社交的な少女と、表情の作り方も分からない内向的な少女。
青年は、左手を口もとに当てると、少しの間、観賞していた。
そして、手を下ろすと、何かを思い出したかのように、そばの絵の具を手に取った。
-
少女は、その部屋の暖かさ、安心感のために、意識がゆっくりと遠ざかっていった。
それは、湖を沈んでいく木の葉のよう。深い意識の先で、夢を見た。
部屋の真ん中で、椅子に腰をかけている。
窓からは、カーテンを通して、やわらかな日の光が差し込んでいる。
外の木々は、みずみずしい緑に満ちている。
私は、体を窓のほうへ向けながら、顔は、部屋の中央を向いていた。青年がいる。
キャンバスを前に青年は、不器用に四苦八苦している様子が容易に見てとれた。
眉間にしわを寄せてキャンバスに集中したと思えば、すぐに手を止め、私とそれを交互に睨みつけ、天井を見上げたり、床に目を落としたり、頭をかいたり…。
素人目の私から見ても、彼は、絵の能力が劣っているのではないだろうか。
普通の人であれば、どのような分野であれ、能力がないという自覚を感じたなら、そっと手を引くことが多い。だが、彼は、自覚があるのかどうか分からない。
腕を組みながら、悩みながら、私を描き続けているのだ。この一ヶ月間、毎日。
そして、普通の人であれば、彼のモデルなど、途中で断ってしまうものである。
しかし、私は、飽きもせず、この椅子に座り続けている。彼と同じ時間。
まったく何が好きで、私はこうしているのだろう。
いつ描き上がるのか分からない…下手をすれば描き上がらないかもしれないもののために。
普通の人であれば、苦痛や不満が顔に表れるだろう。私は笑った。
彼がそれに気が付くと、やわらかく、どうしたのかと声をかけた。彼も少し微笑んでいる。
私は、小さく首を横に振った。彼の滑稽さに笑った訳でも、私の辛抱強さに笑った訳でもない。
ふたりが似ていることに気が付いて、笑ったのだ。
そして、おそらく彼も、そのことに気が付いている。
彼と私は、少しの間、笑い合うと、また画家とモデルに戻った。
普通とは明らかに劣った画家とモデルではあるけども。ああ、彼の絵が完成しなければいいのに。
そう思いながら、静かに座り続けた。
-
すっと、目が開いた。目が開くことによって、今まで自分が寝ていたことに気が付いた。
そしてまた、自分の頬が濡れていることにも気が付いた。泣いていたのか。
自分が泣いていたことによって、思い出した。
夢の中の画家には、私の想いが伝わることが叶わなかったことを。今、あの人はどうしているだろうか。
…
いけない!あわてて、キャンバスの向こうの青年を見やった。
穏やかな表情で、黙々と手を動かしている。彼の手を止めてしまうことにはならなかったようだ。
青年は、少女が目を覚ましたことに気が付くと、声をかけた。
気にしないでほしい、気にすると、表情に影響してしまうから。少女は、小さく首を縦に振った。
ふと、何気なく、天井に気が向いた。明かりがついている。窓に目をやった。暗い。
日が沈みかかっているようだ。え!今、何時?あわてて時計を探す。
窓の上の時計を見ると、夕方の四時半になろうとしている。いけない!
少女は、すぐに立ち上がって、青年に駈け足で寄った。
青年は、少女の唐突な行動と、余裕のない表情にひどく驚いた。
少女は、青年を困らせてしまうことは分かっていたが、それを気にするような余裕は、確かになかった。
青年は、驚きながらも、努めて自分を抑えながら、どうしたのかと尋ねた。
少女は、表情や両手両足に、今までにないほど落ち着きがなかった。
何かを言いたげに、やや口を開くのだが、このような状況であっても、話すことができないようだ。
少女は、もう本当に時間がないのか、唐突に、深々と頭を下げた。
青年には、その状況を急に飲み込むことはできなかった。
その途端、少女は、青年の横を去って、家の出入口へ向かった。
青年は、待って!と呼び止めたが、少女には聞こえなかったようだ。そのまま、出て行ってしまった。
いや、本当は聞こえていたはずである。
青年が、今までにないほどの想いで、引き止めようとしたのだから。気が付けば、少女を追っていた。
-
青年は、館内を進んでいた。
少女を追ってきてみれば、ここは自分が頻繁に通う美術館…そして、彼女と出会った場所でもある。
最終入場時間ちょうどに入ったのは、初めてのことだ。
もともと人の少ないここではあるが、この時間ではさらに顕著だ。
自分と少女しかいないのではないかと思えてしまう。彼女は走っていない。やや早歩きだ。
ここという場所を気にしてのことかもしれない。
青年も走っていない。走れば、彼女に追い付くことができる。
だが、それをおこなうことは、彼女への想い以上に、自制心が足を重くする。
ふたりは、一定の距離を置いて、奥へ進んでいる。
それが今のふたりの関わりを端的に表わしているようだ。少女が、角を右に曲がった。
青年は、その先にある場所が頭の中に現れ、はっとなった。走っていた。あと少しで角。あの絵画。
彼女のいた場所。後ろ姿。
「来ないで!」
唐突に、少女の声が、この周囲の空気を切り裂いた。青年は立ち止まった。
自分の意思に反して、足が床について離れない。予期していなかった。
ここという場所もあったし、何より彼女は、声を聞かせてくれることがなかったのだから。
青年は、すまないと謝った。少女も謝っているようだ。
かろうじて、その小さな言葉を聞き取ることができた。角で隔てたふたりの間に、沈黙が流れた。
この壁に展示されている肖像画たちが、もし意思のある人間ならば、彼女らの目には、自分はどのように映るのだろうか。
今この時間は、彼女らと自分の立場が入れ替わって、自分が観賞されているような錯覚を感じる。
いや「観賞」なんて、おこがましい。「批評」だ。青年は、自分の行動の短絡さに、圧迫された。
彼女の行動も唐突であったとはいえ、結果、今こうして彼女を追い詰めてしまっているのだから。
今、彼女は、何を考えているのだろうか。それは、またも唐突だった。彼女から話しかけてきた。
…
絞り出すような小さな声で、かすれていたが、確かに聞き取ることができた。
その言葉をきっかけに青年は、思わず角を飛び出した。いつもの場所を見ると、また足が重くなった。
そして、唖然として、立ちつくした。彼女がいない…。少女にすぐに立ち去る時間はなかった。
どこへ消えてしまったのだろうか。青年はしばし、少女のいた空間と時間を見つめ続けていた。
少女との一連の出来事は、何であったのか。
ふと、自分の見つめている先に、あの絵画があることに気が付いた。近づいて見る。
絵画の少女は、何も変わっていない。常に、自分に笑みを投げかけている。
あなたは、彼女のことを見ていたに違いない。教えてほしい。
彼女が最後の言葉を発したとき、どのような表情であったのか。
そして今、自分が、あなたの目にはどのように映るのか。真剣に訊いている自分がいる。
しかし、あなたが答えることはありえない。答えることに、さして意味などないと言いたげな笑顔だ。
青年は、絵画の少女に、目で挨拶をすると、ここをあとにした。
-
青年は、自宅の工房に戻った。先ほどまで描いている途中であった絵画が目に入った。
しばし見つめたあと、何かを思い立ったように、筆を手に取った。
その後、数日をかけてこの作品を完成させた。完成させると、青年は椅子にもたれかけた。
天井を仰ぎ見ながら、この数日間はあの美術館に行っていないことを思った。
そういえば、あの少女の絵画は、なぜあのような題名なのだろう。改めて思った。
「私のそばに」
「私」とは誰なのか。肖像画の少女なのか、描き手なのか、あるいは観賞者なのか。
青年は、小さく息を吐くと、先ほど描き上げたキャンバスに目を送った。
キャンバスの中には、あの一日だけの少女…と青年自身が寄り添って、椅子に腰かけている。
午後の日の光の中で、ふたりとも穏やかに、うたた寝をしている。彼女の最後の言葉が離れない。
「いつもあなたのそばに」