辿るルートの分岐点、その感情
眠れなくなったので。お陰様で今ちゃんと眠いです。
勉強。勉きょう。しょうらい。結婚。だいがく。お金。就職。しんろ。べんきょう。
真由香は数式を走らせている手をとめ、顔を上げた。初夏の爽やかな風が頬を撫でる。窓際の席は青空を流れる雲が良くわかる。
「ここは二年、特に理系に進む人は応用まで出来るようにならないとーー」
うんざりだ。
「三年になって受験したときーーー」
真由香は溜息をついた。
受験。この二文字を聞いただけで真由香は悪寒と吐き気がする。彼女は小学校、中学校、高校と血の滲むような努力によって入学してきた過去がある。通ってきた学校はレベルが高く、大半はそれに見合った生徒達であった。イッショウケンメイデ、ガンバリヤサンタチバカリーーーー。
真由香の母親は学生時代に自身が虐められた経験から、真由香を所謂“いい子"が通う学校に入れさせようとした。
しかしそんな学校は人気であるがゆえに、受験をして厳しい競争を勝ち抜かねばならない。真由香は幼いときからの競争社会に疲弊しきっていた。
こいつは、理系に行くんだろうな…。
真由香はふわふわの短い黒髪を耳に掛けて、横にいる少年をこっそり見つめた。中性的な雰囲気とサラサラの茶髪が女子に人気である彼は脇目も振らずに問題を解いている。教科書に落とす目線は次のページに移っていて、まだ問四までしか行ってない自分がちょっと情けなくなった。
「じゃあ当てていくぞー。答えだけでいいからな。そうだな、加東からいこうか。」
真由香は心臓が跳ねるのを感じた。
加東くんは私の列の一番後ろ…!順番的に問五に来るに違いない…!
オチコボレッテオモワレタクナイナ…
何回解いても問五がどうしても解けない…。次は私だ!どうしようどうしよう。ここを当てはめればいいはずなのに!
「よし、正解だ。よく出来たな。じゃあ次はー…」
どうしよう次でくる!しょうがない覚悟を決めよう…。
「吉村直樹。問五」
当てられたのは真由香の前の席の男子だった。ラッキーと思えばそれまでだったが、真由香は何だか自分が馬鹿らしくなった。そう言えば期末は散々だったとか、普通にやってたらあんな点数は取れないもの、なんて考えてやっとああ、自分は見限られたんだ。という結論に至ったのである。
「赤嶺翔平」
先生に指定された隣の少年が席を立った。いつの間にかそこまで順番が回っていたらしい。赤嶺は席を立って、黒板に数式を書き殴る。
赤嶺は真由香の唯一の幼馴染みと言っていい人物だ。受験を何度も経験した真由香だったが、赤嶺も真由香と全く同じルートを辿っている。
県下一の進学校であるこの高校でトップに踊り出ている赤嶺と落ちこぼれの自分。明確になってゆく違い。辿るルートの分岐点。私達はもうすぐ文理選択をする。
チャイムの音が鳴り終わる前に真由香はシャーペンを片付けた。まだ周囲には解き終わってない問題を解いている子達が何人もいる。何だか腹立たしくなってノートを乱暴に閉じた。
「ねえ」
突然話し掛けられて驚いた。あの赤嶺が笑顔で真由香の前にいる。
「斉藤はさ、どうするつもりなの?文理選択。ほら今日までだろ?提出。」
「あたしはさ、成績悪いから文系かな。楽だし。赤嶺は頭良いから理系でしょ?なんかそんな感じだもんね!」
あくまでも笑顔で。嫌味のないように。悟られないように。
「そんなことねえって。てか頭良いなら斉藤じゃん。中学の時だってホラしょっちゅう百点取ってたじゃん?先生が一番自慢気だったけど。」
それは中学の頃の話だろうが。そう、あのころまでは良かった。何の疑問も無く、不安もなく勉強に打ち込めた。ただ両親の喜んでくれる顔が見たくてーー。
崩れ去ったのは入学したての頃だ。受験の疲れと新しい環境に戸惑ってしまい、本格的に体調を崩してしまった。復帰したらまるで浦島太郎。
勉強についていけなくなって初めて自分の空っぽさに目が行く様になった。夢もない、好きな人もいない。赤嶺は、みんなは凄いなあ、きっと凄く努力しているんだろうなあ。私も立派になれる様に頑張らなくちゃ。頑張りたい、頑張らなくちゃ。
ホントウハ、モウガンバリタクナイ
目を生温いものが伝った。
「え!?」
赤嶺が目をぱちくりさせている。
「あ、ごごご、ごめん!いや、全然泣くつもり、なん…か、なくて…」
真由香の涙は止まらない。恥ずかしい、見られた!真由香は堪らなくなって教室を飛び出した。
「お、おい!」
もうすぐ次の授業が始まる所だったが、真由香は走った。走って走って走って、知らない通りに出ていた。泣きながら走りまくったから涙と汗でぐちょぐちょである。
その日、真由香は初めて学校をサボった。そして、翌日から学校を休んだ。
「真由香、犬の散歩お願いしていいかしら」
「うん、いいよ」
尻尾を振って擦り寄ってくる柴犬を抑えつつ、真由香はスニーカーを履いた。まだ四時だけど空は夕焼け色に染まろうとしている。
真由香が学校を休んでから半年が経過していた。真由香の状況に当初両親がパニックになり厳しく叱責したのが遥か昔の様である。両親を一喝してくれたのは心理カウンセラーの藤井先生だった。
「お父さんお母さんこれは貴方がたにも責任がありますよ!真由香さんの心はねえ、疲れてるんですよ。今は休む時です。休んだらまた歩き出せばいい。」
仙人みたいな年季の入った顔で言われると、両親も納得出来たらしい。今では真由香の一番の心の拠り所だ。真由香は植物が水を吸収するように、少しずつ少しずつ生きる力を取り戻していった。
そして来月、学校に復帰する。
真由香は手を擦り合わせ、白い息を吐いた。
ここ最近本格的に冷え込んできたのに手袋をしてこなかったことを後悔した。柴犬のモモは飼い主とは違って上機嫌である。真由香も楽しくなって並木を駆け抜けた。
駆け抜けた先には、赤峰がいた。
「…よお、斉藤」
コート姿だが、下に学ランを着ているのが分かる。困ったように笑う姿に言葉が出なかった。
「久しぶりだね…」
真由香は目を合わせられなくなって下を向いた。正直、赤嶺は会いたくない人No.1だ。申し訳ない事をしたと思うし、赤嶺の前だとついつい半生を振り返ってしまいそうだ。
「…俺さ、そこで焼き芋買ったんだ。そこのベンチで食おうぜ」
「え、いや、その」
有無を言わさず真由香の腕を掴み、半ば無理矢理座らせる。ちょっと腹が立って抗議しようとしたら無理矢理、今度は芋を口に突っ込まれた。
「んがー!!!んぐっ!!」
「ははは!すげー顔!!!!!」
整った顔を崩されて少し絆されてしまった。 昔話をしたり、黙って焼き芋を頬張ったりして過ごす。
「…あたしね、来月から復帰するんだ…」
「そっか、良かった。」
「わざわざ会いに来てくれたの?」
「ま、まあな…お前と最後に会ったのはあんな感じだったからな。ちょっと気にしてたんだ…」
赤嶺の言葉の端々に真由香への思いやりが溢れていた。照れながら話す赤嶺に対する苦手意識はすっかり消えているのに、真由香は気がついた。
「ふふっ」
「おいおい!なに笑ってるんだよぉ」
「いや、なんか幸せだなって」
赤嶺の顔が少し紅くなった気がした。視線が熱を帯びたものになっていく。
「…髪、伸びたな」
「半年も経ったからね…あたし癖っ毛だから変だとは思うよ」
「…いや、俺は好きだ。」
赤嶺の言葉に顔が一気に火照るのを感じた。それと同時に彼の手が真由香の髪に伸びる。優しく頭を撫でられて、真由香はかなり焦った。
「そそそそれより!この時間はまだ学校じゃん!何でいんの!?」
自分のしている事に気がついたのか、明峯はぱっと手を離し、
「ささささぼりに決まってんだろ!もう期末も終わったしちょっと位いいんだよ!!!」真っ赤になって捲し立てた。
再度二人は沈黙する。耳まで紅くなった自分が情けなくて真由香は芋を口に入れ続けた。赤嶺はおもむろに口を開いた。
「…俺な、ずっと憧れてた人がいて。その人に近づく為に親に無理言って塾行って受験もして、必死こいたんだよな」
真由香はどきりとした。正直ショックだった。赤嶺の憧れるような人には到底なれる様な気がしなかったのである。
「え、それって誰?あたしの知ってる人?」
「まあ聞けって。それで、その人に俺はずっと片想いしてんだよ。すげー頭良いから頭良い奴好きかと思ってめっちゃ勉強したんだ。」
心臓が痛かった。何故だが聞きたくなかった。これが恋ってもんかな…?酷いなー自覚した瞬間に玉砕って。
真由香は自嘲気味に笑う。
「…おい、聞いてるか?」
「あ、うん!…それで?」
「俺は当然そいつは理系に行くと思ってたんだ」
赤嶺はすうっと息を吸い込んでまた捲し立てる。
「そしたらな、そいつ文系行くって言うんだよ。苦しそうに。気になったから俺も文系行こうかなとおもったけどさ、俺もガキじゃないだろ。文系科目より理系科目の方が好きそうだし。だから…その…いつまでもお前基準に考えてちゃ駄目だと思ったんだよ!俺には俺の人生があって、他人には変われないんだ…!だ、だから、だな、お前も他人なんて気にしない方がいい。お前はお前の人生を生きるべきというか…なんというか…」
「ふふ、ふふふ!あははははっ!」
「…意外と笑いのツボズレてるよな」
不満そうに言う赤嶺は真赤になっていた。彼はこう見えて励ましてくれているのだ。それだけで真由香はとても嬉しかった。心がぽかぽか春のようだ。真由香は向き直って告げた。
「ありがとうね、赤嶺。今日会えて凄く嬉しかった。」
「ん。…俺、そろそろ帰るな。部活のテニスは出たいんだ。」
「そっか、頑張って」
真由香が小さく告げると赤嶺は嬉しそうに
「おう」と言った。
「あ、そうだ。お前が戻ったら言いたい事があるんだ。よーーーくよーーーーく覚悟しとけよ!お前は鈍感みてえだからな!あと手寒そうだからこれでも着けとけ。返すのはいつでもいいからな!!」
そう言って手袋を押し付けて、早足で去っていった。赤嶺の背中を見送った後、真由香は何故だが涙が止まらなかった。これは満たされた時でしか流せないものだと真由香は知っていた。
憧れの人が分かるのはモモを連れて家に着いた約十五分後のことである。
誤字脱字などあったら宜しければ教えて下さい。