俺が学校に行くなんてありえない。
雲一つない爽快な朝空。
青春を謳歌する学生の賑やかな登校風景。
厳しい残暑が辺りを照りつけ、制服に滲む汗。
また新たに始まる学校生活。
もちろん、俺ーー下小坂斎槻は寝床にいた。
エアーコンディショナーという人類史において極めて実用性の高い発明機器が俺の部屋の室内温度を快適化してくれている。
肌触りの良い薄手の茶色い毛布と、寝ることに特化した低反発ウレタンの枕。枕カバーにはベロア生地を使用するという俺のこだわりよう。その環境が尚のこと俺をベットから離れられなくする。
そもそも"学生"というものは一体何故、こんなくそ暑い日に学校に行こうとするんだ。
いくら考えても首を傾げるばかり。理解不能とはまさにこのことだ。
恐らく、その答えは俺には見つからないものであり、未来永劫謎のベールに包まれたままであろう。休みたきゃ休む。これでいいのに。
人は俺のような人間のことを意志の弱い人間と言うだろう。いや、実際に言われ続けてきた。
しかしだな。詩人、小説家、政治家と数々の分野で名を馳せている、かの有名なヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは言った。
"意志の力で成功しない時には好機の到来を待つほかない"と。
要は、意志で負けたらひたすら待てってことでしょこれ。ん?悪いけど異論は認めないよ。
話をまとめると全国の高等学校生徒 3,367,489人の中で唯一、俺だけこのまま夏休みが続くというわけだ。
「おい兄貴。学校は?」
からりと戸を開ける音とともに不意に凛々しい口調の声が聞こえた。俺は徐にその声の主に視線を向ける。すると、ツインテールで茶髪といった不良っぽい出で立ちの小さな女の子が敢然と立っていた。
「いつまで寝るんだよ。学校どうすんの?」
いかにも不良っぽく腰に手を当て、右足をパタパタさせながら呆れた様子で俺を睨む。
こいつーー下小坂未槻は何を隠そう俺の実の妹である。
「……見ての通りさ」
「呆れた。行けよ学校くらい」
額に手を当て、やれやれといった具合に弱々しく未槻は言った。
「呆れるのはこっちの方だ。未槻は何もわかっていない。自分の生きたいように生きるという信念の強さを!」
どうだ!? といわんばかりのドヤ顔で我が妹を見つめる。
「なんでも良いけどさ、そんなことして何になんの? 将来ドブに捨てるようなもんじゃん」
俺の渾身のドヤ顔を見事にスルーし、未槻は仁王立ちに腕を組みはじめた。……なんか怖いんだけど。軍服とか着せたら凄い似合いそうなんだけど。
「"生きるための職業は魂の生活と一致するものを選ぶことを第一にする"」
「……は?」
お前何言ってんの?といったような顔で未槻がこちらを睨んでくる。
「これは、かの有名な阿都次郎が"三太郎の日記"で言っていた格言だ。要約すると、自分の職業は自分の魂に合ったものにしろってことなわけ」
え? さっきからこの手の格言よく知ってるなって?いやぁ、そんなのたまたまだよ。……ははは。別に自分の行動に自信を持ちたくて調べたわけじゃないよ。断じてね。
「じゃあ、兄貴は将来ニートになろうとしてんの?」
迷いもせず、真顔で即答するとはさすがだな我が妹よ。でも、実の兄貴にそれってなくね?
というか、そもそもニートって職業入るの? ……あっでも、自宅警備員とか一級在宅士とか代表戸締役社長とかあるね。
「……も、もちろんだとも。ニートのニートによるニートのためのニート国家、"ニートピア"の完成が俺の目標だ」
開き直った俺は、またもどうだ!? といったようなドヤ顔で未槻を見つめる。
「……へぇ」
呆れも頂に達したようで、未槻はそのまま振り返って俺の部屋を後にしようとする。
しかし、その行く手を阻むのが俺の部屋唯一の収納庫、タンス。
「痛っ!! ……っな、なんでこんな所にタンスなんか……っ……」
どうやら左足小指をタンスの角にぶつけたらしい。
その程度でなんだっていうんだ。男の股間になにか衝撃を与えられたときの痛みの十分の一にも満たんわ。
「……うっ……うっ……うわぁーんっわぁーん! ……ひっく、うへーんっ……!」
俺は妹の号泣という不可抗力でベットから起き上がり未槻に近寄って、慣れた口調で宥める。
「大丈夫か? 痛かったよな。もう大丈夫だから泣くのやめなね?」
「っひっく……ありがと……お兄ちゃん……」
不良っぽくて、兄貴に対しての礼儀もくそもない不良妹が急に萌え要素に満ちた可愛いらしい女の子へと変貌した。といっても、こんなことはよくあることで俺は幾度となく宥めた経験がある。
……簡単に言うとこいつは泣き虫なんだ。
「……ひっく」
少し落ち着いてきたようでしゃっくりと鼻水を啜る度合いが少なくなってきたようだ。
「ほら、最後に鼻かみな」
俺はそう言ってティッシュを一枚渡した。
「……ひっく……っありが……と」
赤らめた瞳で上目遣いをしてくる。やれやれだな。
ヂ~~~~ン!!
どでかい鼻をかむ音に驚き、少し仰け反る俺。
「……それにしてもお兄ちゃんさ……ニートピアとかなんとか言ってたけど、家訓はどうするの……?」
あ。そうだ……完全に忘れていた。
我が下小坂家には昔から家訓がある。まぁ昔って言っても俺が幼稚園年中の時に出来たもので先祖代々とかそんな大それたものじゃないんだけど。
リビングにでかでかと家訓の壁紙が貼ってあるため、あの三箇条の内容を忘れたことは一度もない。
『一、旨いものは今宵のうちに食え。
二、大晦日は家族全員揃うこと。
三、小中高すべての課程を修了すること。』
家訓一は単純にして明快。
これは美味しいから後で食べようとか言って冷蔵庫に保存しても無駄。勝手に食べちまうぞってこと。
俺がまだまだ幼い頃に"カスタードプリン事件"と呼ばれる大事件があり、それ以降家訓に制定された。
家訓二は正直、家訓にするまでもない。
俺はいつでも家にいるからな。……なんか告白っぽくて気持ち悪くなったね。いや、この告白はもはやホラーか。
大晦日には毎年、俺が物心つく前に死んだ父親の墓参りに行っている。下小坂家にとって、この墓参りは毎年の恒例行事化してる。
家訓三。これが一番の曲者であり、一番謎の家訓である。
なんで、高卒までが必須なんだ?
俺は今まで何度もそう疑問に思い、母さんに言おうとした。……あくまで、言おうとしただけだけど。いや、まずあの母親に歯向かえる人がいるなら是非ともその技を御教授願いたいものだ。
そして、その母さんは明後日約2ヶ月ぶりに家に帰って来る。と、とにかくこの状況はやばい……。冷や汗が体の隅々から溢れ、悪寒が体中を走りまわる。
前言撤回。学校に行く答え見つかりました。未来永劫とか簡単に使ってごめんね。テヘペロ
「はぁ……。明日は学校行くか……」
俺は溜息を漏らしてそう呟いた。




