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五月十一日・6-1

 耀はついさっき桜花に言われた通り公園を訪れ、点々と配置された外灯の合間を歩いていた。辺りに玖珠葉と恵那の姿は見えない。しかし、考えてみればそれも当然で、そもそも具体的な場所を聞いていなかったことに気がつく。

 ぼんやりと、右手に持った無色透明な輝石へと視線を向けた。

 ――あの人は一体自分に何をさせたいのだろうか。

 ふと辺りを見回す。どうやら以前、遼平を抱えた桜花と出会った辺りのようだった。それに気がついたとき、耀は自然と恵那が倒れていた方向へと歩き出していた。

 不意に辺りが薄暗さを増した気がした。

 違和感を感じ振り向くと、そこには今通ったはずの雑木林への入り口は見えず、外灯が見える公園の広場ではなく雑木林が広がっていた。

「は……?」

 思わず声が漏れる。それと同時に、右手に握っていた感触が朧になった気がして慌てて覗き込んだ。

 暗がりでよくは見えなかったが、無色透明だったはずの輝石は昏く濁っていて、やがて音も無くすっとその存在が霧散する。

 耀は自分の目を疑って何度か右手を握りこんだ。しかし、そこにあったはずの感触はもはや微塵も残っておらず、その手は空しく夜気を掴みこむだけだった。

 唐突な現象と、渡すことを頼まれていた物を消失したことに呆然としてしまう。

 そんな耀をはっとさせたのは小さく聞こえた人の声だった。

 探していた二人を思い浮かべ、耀は木々の合間を縫うようにして声の方向を目指す。

 ほどなくして、玖珠葉と恵那の姿が見えてくる。

「ふぅん……」

 それと同時に玖珠葉の醒めきった声が聞こえてきた。

 対峙している二人の間にはぴりぴりとした空気が張り詰めていて、耀は気がつけば木の陰に隠れるようにして足を止めていた。

「わざわざこんな人気の無いところに呼んでおいて、何かと思えば……そんな話?」

「だから箕――」

「それで? 今までの行動を改めて、もうこんなことはやめろって?」

 恵那の言葉を遮って、玖珠葉が言い放つ。

 玖珠葉は微かな苛立ちを表情に浮かべると、右手をすっと引き上げた。

 その瞬間現れた存在に、耀は息を呑む。

 玖珠葉の傍らに、黒い、影のような狼の姿があった。体高は玖珠葉の胸辺りまであり、輪郭の闇は揺らめく炎のように揺蕩っている。

「あなたなんかに、指図される覚えはないんだけど」

 そして玖珠葉は間を置かずに腕を振るい、それに合わせるようにして狼が音も無く恵那へと襲い掛かった。

 尚も何かを言いかけた恵那を拒絶するように、振り下ろされた狼の爪が恵那を捕らえる。が、恵那は手に現した二対の剣で受け流し距離を取った。

「箕柳さん……」

 恵那の表情が寂しげに歪む。

 それを見た玖珠葉の瞳が昏く光を増したように見えた。

「一体何様のつもりなの? 正義の味方でも気取ってるの? だとしたら……この世界では悪意の方が勝ることを教えてあげる」

 玖珠葉の声に応えるように、狼は恵那を執拗に追い続ける。

「私はそんな――っ!」

 恵那は玖珠葉に話しかけようとしているようだったが、迫る爪を避けるのに精一杯なのか、声を出す余裕すらあまりないようだった。

「わかったような顔をして……同情? 憐憫? あなたみたいなのが、一番嫌い」

 玖珠葉の口調が徐々に熱を帯びていく。苛立ちが表に現れていく。

 耀は初めて目にする玖珠葉の姿に、目を奪われていた。

 なぜだろう。その大学では決して見せることのなかったその姿が、何故かどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。

 そんなことを思いつつ、完全に姿を見せるタイミングを逸した耀は、目の前の光景をまるで映画のワンシーンのような面持ちで眺めていた。

 黒い狼は音を立てることなく恵那へと襲い掛かる。

 恵那はそれを避けるか、あるいは剣で見事に受け流していく。

 振るわれる爪は対象を捕らえきれずに、木々を揺らし、土を抉り取る。

 しかし、恵那にも余裕があるわけではないらしく、表情には僅かな焦りと緊張が浮かんでいるように見えた。

「うろちょろと……鬱陶しいなぁ、もう!」

 玖珠葉の苛立った声で、一際勢い良く爪が薙ぎ払われる。

 恵那はその一撃を受け止めようとしたのか、剣を正面で交差させた。しかし、その華奢な体は狼の薙ぎ払いを受けて弾き飛ばされてしまう。

 有無を言わさず駆け出す狼の追撃を横に転がってかわすと、恵那は覚悟を決めた様子で狼を見据えた。

 それを見た玖珠葉が、どこか嘲笑めいた声で告げる。

「そうだよ。邪魔なら消せばいい。手を取り合えるなんて、都合のいい夢物語なんだから」

 その声で狼が駆ける。

 防戦一方だった恵那は、話をするためにまず狼をどうにかしないとならないと思ったのか、携えた剣を構え初めて迎え撃つ体勢を見せた。

 迫る狼が右足を振り上げる。

 恵那はそれまで左右か後ろに避けていたが、今度はそのつもりがないらしい。

 右手に持った剣を左下に構え、間合いを詰めるように踏み込む。

 迫る狼の前足に合わせる形で、体をひねり気味に勢い良く右手で逆袈裟に切り上げる。

 軌道を逸らされた前足は、恵那の右側頭部をかすめ土を抉った。

 恵那はそのままの勢いで、逆手に持った左手の剣を狼の頭へと走らせる。

 攻撃直後の狼は避けることも出来ず、そのまま切り払われた歪な銀色の剣が、音も無く狼の頭を跳ね飛ばし――

「え……」

 剣を振り切った姿勢のまま、虚を突かれた様子の恵那の呟きが闇に溶けて消えていく。

「ざーんねん」

 玖珠葉が愉悦を湛えた声で嗤う。

 恵那の一撃は確かに狼の頭を捉えていた。

 しかし、狼を形作る闇が揺らめいたかと思うと、次の瞬間には何事もなかったかのように元に戻っていた。まるでそんな事実はなかったかのように。

 狼は恵那に出来た隙を逃すこともなく、再び腕を振り上げ、無慈悲に振り払う。

「っ!」

 回避することも出来ないまま、恵那は爪の一撃を直に受けてしまい苦悶の表情で呻いた。地面に転がされままならない呼吸を整えている間に、悠然と狼が見下ろしている。

 月明かりの中、恵那の腹部からは血が零れ落ちているようだった。ふらつきながら立ち上がる姿を見る限りでは、最早今までのように狼の攻撃をいなす事は不可能に思えた。

 玖珠葉もそれがわかっているのか、今までとは違い狼を嗾けることなく冷酷な瞳で恵那を見つめている。

「あれ、まだ動けるんだ」

 ゆっくりとした足取りで、玖珠葉が恵那の正面へと回る。

「そういえば……前も不思議に思ってたんだけど。あなた、随分と丈夫だよね。普通なら死んでてもおかしくないのに」

 玖珠葉の口調は世間話でもするかのような感じで、この光景とはおよそ似つかわしくないものだった。

 少しの間を置いて思い出したように、玖珠葉が、狂気に彩られたそれでいて可憐な笑顔を浮かべた。

「どこまで壊したら動けなくなるか、試してみようか」

 その声は、純粋で無邪気な響きを含んでいた。それ故に、夜闇の中に戦慄を伴って響き渡る。

 だが、恵那の瞳には恐怖の欠片すら浮かんでいなかった。

 代わりに浮かぶ感情を見て取った玖珠葉の顔から、すっと笑みが消える。同時に狼の前足が恵那を押し倒した。

 恵那は地面に打ち付けられ、上から押さえつけられて低く呻く。

 玖珠葉はその姿を睨み付ける様に見下ろした。

「その顔が、ムカつく」

 耀は玖珠葉の言い捨てる様を見て小さな違和感を覚えた。その違和感は、恵那の置かれた状況を危惧するよりも先に生まれたが、しかし次の瞬間には玖珠葉の憤悶を含む声にかき消されてしまう。

「怯えて恐怖に震えてればいいのに……」

 昏く重い声と共に、恵那が小さく呻き声を上げた。

「ぅ……ぁ……」

「……まだそんな目が出来るんだ」

 玖珠葉の声に呼応して、狼が前足に力を籠める。

「痛くないの? 怖くないの? ……人の事を哀れんでる余裕なんて、無いと思うんだけど」

「哀れんで……なんて…………っ!」

「じゃぁ何だって言うの?」

 玖珠葉の苛立ちは徐々に怒りと憎しみに変化しているようだった。

 足が竦んでいるわけではない。しかし耀は玖珠葉を中心とした空気に呑まれ、その場を動けないままでいた。

 夜の静けさを切り裂くように、玖珠葉の声が響いていく。

「あなたの目を見てると、私の生い立ちを知った人達を思い出すの。あいつらもそんな目で私を見てた。何も知らないくせに知ったような顔で、勝手にこっちを思いやったつもりになって、さも善人面してこっちを見るの」

「……わた……し……は……」

「私のことを知った人はみんなそう。可哀想だね、辛かっただろうね、これからきっと良いことがあるよ、だから頑張って。どいつもこいつも無責任に、偽善面して自分に酔いしれる」

 玖珠葉の感情の昂ぶりに呼応して、狼の輪郭が大きくざわめいているようだった。

「所詮は他人事としか思ってないくせに。浅ましい自己満足や優越感のために手を差し伸べたつもりになって。馬鹿じゃないの? 死ねばいいのに。世界が悪意に満ちてることすら知らないような連中に限って、そんな善意を騙ったさもしい悪意に気付いてないから性質が悪い」

「箕……柳さんが思ってるほど……この世界は……悪意に満ちて……ません」

「知ったような顔でお説教? いい加減にしてよ。もううんざり!」

 恵那の擦れた声を聞いて、玖珠葉の顔が微かに歪む。

「人の心配をするふりをして、誰も彼もが心の底では同情や憐れみしか抱いてない。上から見下ろす風景はどう? 歪んだ善意の押し売りで、得られる対価はさぞ魅力的なんでしょうね」

 玖珠葉は両手を強く握りこむと、

「……私はあなたたちの自尊心を満たすためにいるわけじゃない! そんなくだらない好奇心のために関心を抱くなら、私になんて興味を持たないでよ! 何もわかってないくせに!」

 声を荒げ、夜の空気を震わせた。

 恵那を見つめる玖珠葉の目に何が浮かんでいるのか、耀には見ることが出来なかった。

 唐突に音が途切れたように、静寂の幕が下りる。

 小さな木々のざわめきと、苦しげに喘ぐ恵那の吐息が闇に溶けていく。

 それまでの苛烈な空気が覚めていく中、搾り出すような恵那の声が響いた。

「…………はい……わかり……ません……」

「なら――」

「でも、一人に……なることの……辛さは……わかります」

 玖珠葉を遮る恵那の声は、擦れてはいたが意思の強さを感じさせた。

「……何それ」

「私は……幼い頃……両親を、亡くしています」

 恵那の告白に、玖珠葉が体を硬くする。

「遠い、親族に……預けられて、でも……そこに居場所が……あるわけじゃなくて……行く先々で……邪険に扱われて、悪意に曝されて……」

 ぽろぽろと零れていく声が、夜気に響き渡っていく。

「私が、悪いわけ……じゃないのに……なんで、って。……幸せそうに、笑ってる人達を見ると……心が、ざわついて」

 ふと苦しげな声が途切れる。

 木々の擦れる音に混じりながら、恵那は何度か咳き込んだ。

「……誰も……私を、対等に見てくれなかった。……ずっと独りで、抱え込んだ昏い想いを……どこかに、ぶつけないと耐えられなかった……でも、それは――」

「――だから、何?」

 恵那の声を遮って、玖珠葉が言う。

 不意に木々が大きくざわめいた。一陣の風と共に空気が張り詰める。

 耀は、閑散とした夜気が満ちているはずの空間に、低く昏い雑音が混じっているような感覚に囚われた。

「私の気持ちが少しでも分かるって言うなら……邪魔しないでよ」

 玖珠葉の声は、微かに震えていた。

「勝手に私の事を昔の自分と重ねて、今のあなたは違うからってお説教? まるで人のためを思ってるような口ぶりで……苛々する! 誰かを見下ろすときの優越感も、憎い奴らを傷つけることで得られる清々とした満足感も、悪意に気付いてない間抜けな連中が怯えて震える姿を見たときの昂揚感も……あなたに分かるって言うなら放っておいてよ!」

 玖珠葉の言葉の後、感情の熱を帯びた余韻が広がる中、恵那が静かに告げる。

「……優越感や、満足感……昂揚感も、わかります……でも、だから…………そこに残る、空虚な想いも……孤独も――っ!」

 しかし恵那の言葉は、苦悶の呻きとなり途切れてしまう。

 その瞬間、代わりに生まれた玖珠葉の纏う空気に、耀はぞっとする感覚を覚えた。

「……煩い」

 その声は、それまでの玖珠葉の声と違い、酷く覚めていた。

「結局あなたは過去の自分と私を重ねて、分かったつもりになって、同情してるだけじゃない」

 狼の輪郭が、その揺らぎを増していく。

「仮に分かってたとしても、何かをしてあげたいなんて、高慢以外の何でもないのに」

 玖珠葉の声からは抑揚が消えていく。 

「あなたがどうしてそこに居るのかなんて知りたくも無いし……私には関係ない」

 声は響いているのに、耀はやけに静けさを感じていた。。

「何を考えてるか知らないけど、そんなので分かり合えると思ってるなら思い上がりも大概にしてよ」

「みや……なぎ……さ……」

「煩い!」

 感情が爆ぜたかのように、玖珠葉が叫ぶ。

 その刹那、耀は湧き上がる悪寒に突き上げられ、反射的に玖珠葉の名を呼んでいた。

「箕柳さ――!」

 それは、恵那に牙が突きたてられるのと同時だった。

 次の瞬間には、恵那の肩口から胸が、狼の口の中に納まっていた。

 どろりと口元から液体が溢れ出し、流れていく。

 声が聞こえていたのか、恵那と一瞬だけ目があった気がしたが、その瞳に映る感情を読み取る間もなく、恵那の瞳からは光が消え、体からは力が失われていた。

 時間が止まった錯覚を覚える。

 全ての音が消え、目の前の光景から現実感が消失していく。

 自分が呼吸を忘れていたことに気付いた頃、玖珠葉がゆっくりと振り向く動作が視界に映った。

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