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五月三日・2
男は恐怖のあまり声を出すことすら、もう忘れていた。
目の前では、闇と同化してしまいそうな一匹の黒い狼がこちらを見つめている。いや、果たしてそれは狼なのかどうか。
おぼろげな輪郭に、大人の腰を優に超えるほどの体高。
男は本物の狼を見たことこそなかったが、どこか異質な存在感を覚えていた。
その狼のような何かの後ろから、人影が現れて愉しそうに嗤っている。
男の叫び声が夜気に響き渡った。
右足が潰されたのだと、男がそう気づいた時には左腕の感覚も消失していた。
悲痛に歪む顔と、恐れと懇願に染まる声を聴いて、人影は冷たく嗤った。
――なんだ、ちゃんと痛みを感じるんじゃん。
動けなくなった男の左足に、狼の爪がゆっくりと食い込んでいく。
時間とともに男の声が小さくなっていき、表情はさらに大きく歪んでいく。
やがて男が微動だにしなくなると、人影の嘲笑に合わせる様にして狼が人間だった物を飲み込んでいった。