五月十日・2
耀は再び例の家を前にしていた。
桜花とは最初の会話を最期に、それ以上のことをまだ話していない。気になることがないと言えば嘘になるが、それを訊くのは遼平に最初の疑問を確認してからにしたかった。
特に誰を呼び出すでもなく、桜花が建物へと入っていったため耀もそれに倣う。真っ直ぐに伸びる廊下を通り、奥にあるドアを開くと秋慈の姿があった。
右手にはリビングテーブルと椅子が幾つか置かれていて、正面がキッチンシンクのようなものが備え付けられている。左手に三つのドアが見えた。それらのドアは横にスライドさせるタイプのようで、そこだけが一般的な家屋から離れ病棟を思わせる奇妙な作りになっていた。
シンクに居た秋慈はこちらを見ると、
「宇多は右端の部屋だ」
それだけを言って作業へと戻った。どうやら洗い物をしているらしい。
桜花が何も言わずにリビングテーブルの方へと行くのを見て、一瞬どうするか考えたが、秋慈が部屋を教えてくれたと言うことは、入っても構わないということなのだろう。
耀は言われた部屋の扉を引き開けた。
「あれ、耀じゃん。え、何。もしかして見舞いに来てくれたとか?」
遼平はベッドの上で本を読んでいたようで、耀に気が付くと驚いた表情を見せた。
反応からして傷は快復に向かっている様子だったが、顔色はやはり優れないように見える。
「いやー、俺がここに居るって誰も知らないわけじゃん? だから誰も見舞いになんか来てくれないだろうなーって思ってたんだけど、まさか一番来なさそうな奴が来るとは」
それでも喋る遼平の姿はいつも通りで、普段の軽口を叩いていた。
「って言うか、何でそんな神妙な顔してるんだ? 別に俺の方は問題ないぜ? まぁ、まだちょっと体が言うこと聞かないけど、普通に治るっぽいし」
「……箕柳さんに襲われたってのは本当なのか?」
遼平は目を瞬かせ、それから目をそらす。
「あー……」
遼平はやや逡巡を見せたがやがて、
「まぁ……そうみたいだな」
珍しく神妙な顔をしてみせた。
しかし、それも僅かな間だけで、遼平はすぐに半眼になって薄ら笑いを浮かべる。
「つーかさ。普通親友が寝込んでたら、最初に具合を聞くのが一般的じゃねぇ?」
「え、あぁ……具合は大丈夫なのか?」
「お前、それは冗談で言ってるつもりか……」
遼平は呆れた様子でため息をついた。
会話が途切れ、部屋に沈黙が降りる。
部屋は防音性が高いのか、脇に備え付けられている空気清浄機の微かな音がするだけで、他の音は聴こえて来なかった。
「なんで、箕柳さんがそんなことを……?」
耀がぽつりと口にした言葉に、遼平は視線を虚空に放り投げる。
「……さぁね」
そう言われてしまうとそれ以上尋ねることは出来なかった。結局耀の疑問はそのままに、部屋に静寂が訪れる。
再び場を支配した沈黙を破ったのは、二人の内のどちらでもなくドアをノックする音だった。
遼平が返事をすると、盆を携えた恵那がおずおずと顔を出す。
「あ、あの……お茶を、どうぞ……」
そう言って二人へ湯飲みを差し出してくる。耀と遼平は礼を言いつつそれを受け取った。
ふと、耀はその恵那の姿を見て疑問を覚える。
「椚さんはもう動けるの?」
「あ、はい。多少なら……激しい運動とかは、まだ無理ですけど……」
耀はベッドに横たわる遼平を眺める。
あの時の状態を見ている限りでは、恵那も遼平と同程度の傷を負っていたように見えた。それなのに片やこうして活動していて、片やベッドで床に伏している。
「言いたいことは何となく分かるが……しょうがねーだろ……」
自分より年下のしかも女の子が平然としていることに、遼平自身も少し思う所があったらしい。
「あ、いえ……宇多さんが、まだ普通に動けないのは、しょうがないと思いますよ……実際に宇多さんの方が、霊傷が大きかったみたいですし」
恵那のフォローで遼平が何かを思い出したように尋ねた。
「あ、そうだ。そういえば、秋慈さんに聞きそびれたんだけど、結局霊傷って何なの?」
「え……と……」
恵那は言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「霊的なダメージ、なんですけど……そう、ですね……何かに取り憑かれたら、体が重くなる、とか。そう言った話を、聞いたことないですか?」
「あー、怪談とかでそれっぽいのは聞いたことあるかも」
「それと似た感じで、取り憑かれてる、わけじゃないですけど。上手く体が動かせなくなってるのが、今の宇多さんの状態です」
そう言った経験が全くない耀には、いまいち想像しにくかったが、要は金縛りみたいなものなのだろうか。
「桜花さんに聞けば、もっと詳しく説明してくれると思いますけど……」
恵那は最期にそう付け足した。
遼平が受け取った湯飲みを口に運び、一呼吸置いてからもう一つ疑問を口にする。
「あれは、本当に箕柳さんだったの?」
「……はい……それは、間違いありません……」
何故か恵那は少し目を伏せそう答えた。
「あの黒い狼は?」
「あれは……」
――黒い狼?
遼平と恵那の会話に入れない耀は内心首を捻った。
話の内容から、玖珠葉に関することであるのは予想がつく。と、そこで二人が負っていた傷のことを思い出した。
「あれは、箕柳さんの……生み出したものです」
答える恵那もどう説明すれば良いか悩んでいるようで、耀と遼平の表情を見ると、やはり上手く伝わっていないと思ったらしい。少し考え込みながら付け加えていく。
「えぇと……悪霊とかって、どうやって、生まれると思いますか?」
「どうって……何ていうか恨み辛みみたいなものがあって、この世に未練があるとか。そんな感じがあるけど……」
「はい。大体それで合ってます。息を引き取った時に、その人の感情が、残ったようなイメージ、ですね」
耀は口を挟むことなく会話に耳を傾けていた。
悪霊と言われてイメージするものは、遼平と同じようなもので、概ねそんな認識らしい。しかし、玖珠葉は生きている。今言っていた悪霊と言われるものとは異なるのだろう。
「じゃぁ、呪術って知ってますか?」
そこで耀は桜花に聞いた説明を思い出していた。
「呪術って、呪いの?」
遼平のその質問に続ける形で、耀は桜花が言っていた呪術の例を挙げてみる。「……丑の刻参りとか?」
恵那は小さく頷いた。
「そう、ですね……そういうのです。あれは生きてる人が、何かに対して、負の感情をぶつけるものです。……それで、その、悪霊の存在と、呪いで相手に害を為すものっていうのが、根本的に同じなんです。霊子で構成されているんですけど……えぇと……」
言葉を探す恵那を見て、耀と遼平は合間に質問をすることなくただ耳を傾けていた。
「鉛筆とダイヤモンドって、全然違うものですけど、元が同じっていうか……」
「あぁ、なるほど……」
恵那のその説明を聞いて、遼平が小さく呟くのが聞こえた。
鉛筆の芯の素材として利用されるグラファイトと、ダイヤモンドが炭素の同素体であることを言いたいのだろう。それを聞いてようやく昨晩桜花が言っていたことが分かったような気がした。
「てことは……あれは、箕柳さんが何か呪いの一種みたいなものを利用してるってこと?」
「え……と……似たようなものなんですが、正確には、別物です。呪術は……その過程が力を生むんですけど、箕柳さんが見せたのは……自分で生み出したもので……」
言っていて自分でも要領を得ないと思っているのか、恵那は徐々に困ったような表情になっていってしまう。
「その……桜花さんは、エンコーダーとデコーダーを持っていて、扱える人のことって言ってたんですけど……」
「エンコーダーとデコーダー?」
遼平が繰り返して考え込んでいる。
相変わらず一足飛びで理解力を要求する人だと思いながら、耀も自分なりに話をまとめて考え始めた。
「エンコード、デコードって聞くと、動画とか音楽思い浮かべたけど……でなけりゃ……符号化に復号、だと……符号理論とか……関係なさそうだな」
エンコーダーとデコーダーを持っていて、扱える人間。では、両方を、あるいは片方を持っていない場合はどうなるのか――
ふと、耀の脳裏を過ぎるものがあった。
「あぁ……もしかして、見えない人に対して見せることが出来るとか、そういう意味なのかな」
「……なるほど。それでエンコーダーとデコーダーか。なんとなくわかった気がする」
要するに、例えば動画を再生する際、動画に利用されているエンコーダーに対応するデコーダーが見る側の環境に無い場合は再生することが出来ない。再生するのであれば、エンコーダーかデコーダーのどちらかで合わせる必要が出てくる。
恐らく桜花が言っているのは、そういうことなのだろう。
どちらがエンコードでデコードだかは分からないが、霊子から成る存在を知覚出来ない相手にも、知覚することが可能な状態に変換すること。
もっとも、霊子に関して知識が無いため、おおよそのイメージでしかないが。それでも不十分だとは思わなかった。
「あ、たぶん。そんな感じだと、思います」
恵那がほっと胸をなでおろす表情で頷いた。
「呪術で生まれるような力を、箕柳さんが生み出して、宇多さんに直接影響を与えられるように、具現化したものが、あの狼です」
恵那の説明を聞いていた耀は、ふと桜花の話を思い出した。
「あれ、確か野杜神さんが霊子の被害は、見えなくても受けるとか言ってた気がするんだけど……その狼って姿を見せる必要はあるの?」
「あ、と……はい。確かに見えないのに、被害だけは受けることがあります。でも、たぶん桜花さんが言ってたそれは、独立した霊子のことで……人が霊子を利用して影響を与えようとすると、たぶん何かの形になっちゃうんだと思います……私もちょっとその辺りは良くわからなくて、すみません……詳しいことなら桜花さんに聞いてもらうしか」
「あ、いや……」
申し訳なさそうに顔を伏せる恵那を見ていて、耀は逆に悪いことを聞いてしまった気持ちに駆られた。
別にそれほど気になることでもない。いつか桜花に尋ねることがあるのかも知れないが、今のところその予定が立ちそうには無かった。
「あのさ――」
話を一通り聞いた遼平が、どこか眠たそうな表情でぽつりと切り出す。
「――悪霊とか、呪術とか、そう言ったのと似た物があの狼ってことは……箕柳さんがそう言った感情を抱いてたってこと?」
その言葉を聞いて、耀はここに来る直前に見た玖珠葉の冷たい眼差しを思い出した。
「それは……」
恵那はどこか悲しげな表情を浮かべ、言いよどむ。
「……分かりません」
短く答え、僅かな沈黙を挟み言葉を重ねた。
「私も似たように、剣を生み出せますが、それは、負の感情がきっかけになっているわけでは、ないですから。だから、必ずしもそうとは……」
部屋に静寂の帳が下りた。
何故か誰もが口を開くタイミングを逸しているように。
遼平が手にしていた湯飲みを脇に置き、ベッドへと体を横たえる。その様子を見た恵那が、何かに気付いたらしい。
「あ、眠くなったら無理しないで、寝たほうがいいですよ。今、秋慈さん、呼んできますね」
そう言うとすぐに、恵那が湯飲みを回収して退室して行く。
それに合わせて、耀が眠たげな遼平を横目に退室しようとした時、気だるげな声に呼び止められる。
「耀」
「何……?」
振り向くと遼平と視線がぶつかる。
睡魔に襲われているらしい遼平の瞳は、何を考えているのか分かり難かった。
「お前、箕柳さんのこと、気になる?」
「は?」
「……いや、何でもない」
それだけ言うと、遼平はすっと目を閉じ寝息を立て始めた。
眠る直前の遼平が一瞬笑った気がして、思わず眉を潜めてしまう。
しかし、考える間もなく秋慈が部屋に入ってきたため、邪魔をしては悪いと、入れ替わるようにして退室することにした。




