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五月十日・1

 講師が黒板に数式を書きながら説明をしている。

 四月の講義内容は受験時に培った知識と重なる部分もまだ多く、思いのほかすんなりと理解することが出来ていた。しかし、ゴールデンウィークが明けると、さも大学の講義といった様相に徐々に様変わりしてきた。

 時刻は十四時二十分。

 三時限目の終了間際、耀は一時限目、二時限目と同様にぼんやりと講師の話を聞き流していた。

 その日、当然のように遼平の姿は朝から無かった。

 その事実が、昨晩の一連の出来事を思い起こさせる。

 あまりにも突拍子の無い話。だが、逆にそれ故か、一笑に付すことが出来ずにいた。

 普段であれば、何か一つのことが気にかかることなどまず無かった。その時気になったとしても、すぐに思考の網からは零れ落ちていくのが常だった。

 それなのに、昨晩の件はあまりに日常から離れすぎているためなのか、気付けば脳裏にちらついて振り払えなかった。

「ぼんやりしちゃって、どうしたの?」

 不意に、聞き覚えのある声が聞こえる。顔を上げれば見知った学生の姿があった。

「あれ……講義は……」

 辺りを見回すと、いつの間にか講義は終わっていたらしい。皆、退室し始めていた。

 そんな耀の様子がおかしかったのか、玖珠葉がくすくすと笑いだす。

「今さっき終わったよ。その調子だと講義内容、全然覚えてないでしょ」

 全くその通りで、耀は乾いた笑いを浮かべてしまう。

 何一つ書き写していないノートを閉じて、一度も使わなかった筆記用具をしまう。我ながら一体何をしに来たんだと突っ込んでやりたい気持ちだった。

「……そんなにぼーっとしてるなんて、何か考え事でもあったの?」

「え?」

 振り向いた拍子に玖珠葉と目が合ってしまう。

 じっとこちらを見つめる瞳に、覗き込まれているような気がして一瞬息を呑む。

 だが、すぐに玖珠葉は破顔して、

「まぁ、いつもぼんやりしてる印象はあるけど」

 悪戯めいた笑みを見せた。

「……酷い言われ様だな」

「あはは、ごめんごめん」

 いつもと同じように笑う玖珠葉を横目に、耀は席を立つ。教室を出ると、玖珠葉も隣に付いて来た。

 次の受講室は同じ棟の一つ上の階だった。エレベーターを利用するまでも無い。いつものように階段を上がろうとしたところで、玖珠葉に呼び止められる。

「あれ? 帰るんじゃないの?」

「え? いや、四時限目の授業があるし。箕柳さんは取ってないっけ?」

「あー……」

 玖珠葉はしょうがないと言った様子で微妙な表情を見せた。

「掲示板、見てないんだね。四時限目の現物は休講だよ?」

「え……」

 言われて辺りを見回すと、いつもならそのまま階段を上がる学生の姿が多いのに、今日は誰一人として見かけない。どうやら休講の掲示を知らないのは自分だけのようだった。

 耀は小さくため息一つ。階段を下り始める。

「羽柴君て普段は掲示板見てるの?」

「普段は見てるよ。……今日はたまたま見るの忘れてた。基本的に休講になることって少ないし」

「確かにね。そんなに頻繁に掲示が変わることもないし、たまに忘れちゃうかも。それに――」

 隣を歩く玖珠葉が顔をこちらへと向ける。「――自分が見て無くても友達から聞くこともあるもんね」

 その一言で、耀は遼平を思い出してしまい、僅かな間両目を閉じた。

「そうだね」

 短くそう答えて正門を目指す。

 遼平は今もまだ眠っているのだろうか。

 考えたところで答えが出るわけも無く、せめて場所を聞くなり連絡先を聞くなりしておけば良かったかもしれないと、今更ながら思い始める。

 正門へと続く幅の広い道に出たとき、前方の方で妙な気配を感じた。どうやら玖珠葉もそれに気付いたようで、興味を持った様子で眺めている。

「何か……あるのかな? 皆ちらちらと見てるね」

 玖珠葉の言う通り、正門付近を通る学生がちらちらと左手を覗く姿が目立つ。特に目を引くようなものはなかったような気がするが――

 耀は何故か、無性に嫌な予感を覚えた。

「羽柴君、どうしたの?」

「え、あ、いや。なんでもないよ」

 表情に出ていたのか、玖珠葉が小首を傾げてこちらを見ていた。

 そんな予感で正門以外から出ようという気にもなれず、耀はその方向へと歩き出す。玖珠葉は相変わらず隣を歩いていた。

「って、箕柳さんも帰るの?」

「うん。そのつもりだけど」

 言外に「迷惑なら言ってね」と言われた気がして、返事をすることなく前方の奇妙な光景へと視線を移す。

 少なくとも朝来たときは何も無かったはずだ。

 玖珠葉もそれは同様らしく「朝は特に変わったことなかったよね?」と、視線は前方に向けつつ呟いた。

 正門の部分は少し広くなっている。今歩いている道からでは木々と建物が邪魔になってしまい、彼らの視線の先にあるものを見ることが出来なかった。

 やがて広場に接する辺りまで道を行き、耀達も左手へと視線を滑らせる。その瞬間――

「……」

 耀は一瞬固まった。

 視線の先にいる人物がこちらに気付く。

 黒地に金糸の刺繍が入った眼帯に、腰まで伸びる癖の無い黒い髪。変わらずツーテールを持つ黒基調のコートを羽織っている。昨晩付着していたはずの血液は見えなかった。

 桜花はつかつかと歩み寄ってくる。が、そこで耀はその視線が自分に向けられていないことに気が付いた。

 ふと横を見れば、玖珠葉の顔色が青ざめている。

 いつもの笑みは完全に消えていて、普段からは想像できない憎悪や怯えの入り混じった表情が浮かんでいた。息を呑んでいる玖珠葉の様子は明らかにおかしい。

「箕柳玖珠葉――まさか少年と面識があるとはな」

 桜花が言いながら耀をちらりと見る。

 玖珠葉は言葉を失ったかのように、ただただ桜花を凝視していた。

「少年に用があるのだが……」

 桜花が一歩踏み出すと、玖珠葉は一歩後退る。

 玖珠葉に対して、桜花の表情は涼しいものだ。

「羽柴君……この女と知り合いなの?」

 隣から聞こえたその声は、一瞬玖珠葉のものだとは気付けないほどに冷たい声だった。

 そんな声が出せるのかと、耀は内心驚きながら答える。

「まぁ……一応……」

「そう……」

 玖珠葉は呟いて目を伏せた。しかしそれも一瞬で、すぐに桜花へと熱のない視線を向けた。

 耀はその表情を見て気おされたが、当の桜花は意に介した様子も見せず泰然としている。

「戦意昂揚しているところ悪いが、今の私はお前に手を出せない」

「……何、それ」

 玖珠葉が冷え切った、感情の篭らない声で短く吐き捨てる。

「近いうちに椚恵那と言う少女がお前に会いに行く」

 桜花の言葉は意味の分からないものだったようで、玖珠葉は露骨に怪訝な表情を見せていた。

 桜花はじっと玖珠葉を見つめ、

「それまでは、大人しくしていてくれることを祈るよ」

 一字一句を強調するような声で、そう言った。

「……」

 僅かな沈黙の後、玖珠葉は忌々しげに息を吐き出した。そして一度だけ桜花へ刺すような視線を送り、そのまま何も言わずに桜花の横をすり抜けた。

 残された耀は一瞬声を掛けようと思ったが、足早に去る玖珠葉の背中が拒絶しているように見えて言葉を詰まらせる。

 いや、それよりも――

「野杜神さん……」

 名前を呼ばれ、桜花の視線が耀へと向けられる。

 信じられる気はしなかった。だが、今の会話を見る限り、もしやという疑念が払いきれなかった。

「とりあえず、移動するとしようか。元々は少年を迎えに来たのだから」

 そう言うと、桜花は昨日とは違う赤く車体の低い車へと向かう。

 耀が助手席へと乗り込むと、桜花が慣れた手つきで車を動かし始める。

「しかし、少年が箕柳玖珠葉と面識を持っていたとはな。伝えれば逆に彼女との接点を生んでしまうと懸念していたが――」

 耀が尋ねるより早く、桜花が言う。

「――杞憂であるのなら告げておくべきだったかもしれないな」

「あの……箕柳さんは……」

「青年と恵那に傷を負わせたのは――彼女だ」

 特に隠す様子も見せずに、桜花はさらりと衝撃的な事実を口にした。

 玖珠葉の様子から、桜花とは別側の立場であることはある程度予想出来たが、いざ言葉にされると悪い冗談にしか聞こえなかった。

「事実、なんですか……?」

 抱いている玖珠葉のイメージとその事実が結びつかずに、耀は思わず尋ねていた。

 しかし、桜花はそれ以上説明しようとはせずに、

「向こうに着いたらあの青年に聞いてみると良い」

 ただそう答えるだけだった。

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