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五月九日-五月十日

 西河秋慈は深くため息をつくと、コップに注いだスポーツドリンクを一気に飲み干した。それと同時に玄関の方で聞きなれたエンジン音が耳に届く。

 しばらく後、予想通り桜花が部屋へと顔を出すなり訊いてきた。

「二人の容体は?」

「今は寝てる。気を失ってるだけとも言うが。どっちも命に別状は無い。ただ、男の方は一週間くらいはまともに動けなさそうだな」

 秋慈は立ち上がり冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを注ぎ足した。

「恵那の方は? ……と、なんだ。アルコールをあおっていた訳ではないのか」

「治療が終わってないのに酔っ払ってられるか。椚は一日もあれば動けるようになるだろ。まぁ、本調子と言うのは無理だろうから仕事には使えないかもしれないが。お前も飲むか?」

 食器棚からもう一つコップを引っ張り出す。

「しかし、随分と強烈な悪意に曝されたもんだな。そんな大層な曰くがある場所だとも思えなかったが」

残滓ストレイズではない、霊子変換者トランスコーダだ」

「そりゃまた……大変だったな」

 すっかり聞きなれた、主に桜花だけが利用している呼称を耳にしながらコップを手渡した。

 何時からか、桜花が「固有名詞が必要だ」と言い出して名づけた名称だ。固有名詞ならそれこそ「悪霊」と「悪霊使い」で言いと思ったが、「普通すぎる」とこの女はわざわざややこしい呼称を利用し始めた。

 恵那や自分を含め、周りの人間は彼女の性格を知っていたし、周囲に強要するわけでもないので最早気にすることも無くなったが。やはり連想しにくいと今でも思っている。

「にしても珍しいな、椚があんな状態になるのは」

 普段であれば、そんな強敵に当たる場合は常に桜花が共に居たはずだった。秋慈は二人がどんな連絡の取り方をしているか知らなかったが、恵那一人ではどうにもならない相手に恵那だけで対応させなくてはならないような状況だったのだろうか。

「恵那に一人先走られたからな」

 桜花はそんな考えを察したのか、ため息を吐きながらそう言った。

「……珍しいな、椚がお前に対してそんな行動に出るのは」

「まぁ、薄々感じてはいたんだが……思いのほか、相手への思い入れが強いようだな。おかげで取り逃した」

「……ちょっと待て」

 秋慈は思わず眉を潜めた。

霊子変換者トランスコーダには逃げられた」

 桜花の口調はしかし、さして困った様子を見せていない。

「逃したって言う割には余裕そうだな。こんな所で油を売ってていいのか?」

 特に他意を含んだわけではなかったが、桜花は気にした風もない。犯人を追う訳でもなくここでのんびりとしている。霊ではなく、人間に面が割れているというのに問題視する気配すら見せない。

「……まぁ、確証はまだない……が、一先ず問題はないだろう。もしまた、あちらからこちらに危害を加えて来るようなことでもあれば、その時はそれ相応の対応を取るつもりだが……恵那の寝ている間にそうしてしまうと、ずいぶんと恨まれそうだな」

「何を考えているのか知らんが、その間に逃げられたらどうするつもりだ?」

「別に。あの霊子変換者がこの界隈から離れると言うのであれば、こちらの目的としては達成される。他の場所で再び事を起こすと言うのなら、それはまた別の話だ。必要があれば依頼があるだろう」

 返ってきたのはある程度予想していた答えだった。秋慈はコップを弄び、中で揺れる液体を眺めていた。

「相変わらずその辺りはドライだな」

「何を今更。自分と係わり合いの無い相手まで憂うほど、私は偽善を羽織れない」

「その割には、無関係の小僧を随分と気に掛けているみたいだな」

 秋慈の言葉に、桜花の動きが一瞬止まる。

「昔の自分の姿でも重ねたのか?」

 続けた言葉に、桜花は長く息を吐き出す仕草を見せた。

「お前がそう感じるのであれば、あながち私の妄執という訳でもないようだな」

「……考えて出てきた問いが知人の安否だったり、あんな状況でそれほど面識がない相手に付いていく辺り、どっかの死んだまま生きてた女を思い出させてくれたんでね」

 普通、知人の安否を尋ねる気があるのなら、それは考えた末に出てくるものではない。桜花と繋がりがあるのかと思えばそうでもないらしく、それでいてあの状況の中付いて来る割には強く訊きたいことがあるわけでもない様子だった。

 今日日、自殺志願者であってももう少し自身を含めた全てに対して関心がを持っていそうなものだ。

「それで、どうするつもりなんだ?」

 尋ねると桜花は、夜闇の広がる窓の先へと視線を向けた。

「……別に、どうすると言うつもりもないが――」

 桜花がその闇の中に何を見ているのかは分からなかったが、

「――結局は本人の問題だからな」

 呟いた彼女の声は、誰に向けられたものだったのだろうか。

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