五月三日・1
川に面した遊歩道。
その所々にあるベンチの一つに腰掛けて、羽柴耀はぼんやりとしていた。
穏やかな日差しの中、時折そよぐ風が頬を撫ぜていく。人の気配もなく、僅かな木々のざわめきだけを耳に捕らえていると、世間がゴールデンウィークで盛り上がっていることなど別世界の出来事に思えた。
そう、ゴールデンウィークのはずなのだ。五月の連休をそう称し、一般的にはにわかに慌しくなる時期だ。
しかし、そんな大型連休を目の前にしても耀には心躍るような予定一つなかった。
大学に入学しておよそ一ヶ月。授業の合間に話す相手もできたし、休日につるむ友人もいる。実際この連休に先立って、遊びに誘ってくれた友人はいた。
だが、結局それらしい理由をつけて断り、こうして一人ベンチで日和っている。
誘ってくれた相手が苦手なわけではなかった。むしろ会話をしていて楽しめるし、あまり積極的に交友関係を広げようとしない自分に声をかけてくれるのは有難いと思っていた。
それなのに断ってしまった。悪いことをしたと思う一方で、一人で過ごすことになってほっとしている自分がいる。そんな自分に対して、あまり嫌悪感を感じない自分が少し嫌になる。
一人になりたかったのか、と尋ねられたら果たして肯定するだろうか。
正直よく判らなかった。あえて言うなら、一人で居たかったわけでも、一人で居たくなかったわけでもない。何もしたくなかったというのが一番近いように思えた。
――何をやってるんだか。
耀は背もたれへと体重をかけて空を仰いだ。広がる青空が眩しくて思わず目を閉じる。それでもなお、閉じたまぶた越しに存在を感じさせる陽の光を受けて、何故だか無性に場違いな所にいる感覚に襲われた。
不意に、足音が聴こえ耀は盗み見るようにして視線を向ける。
その瞬間、その相手と目が合ってしまう。どうやら向こうもこちらを見ていたらしく、耀は一瞬気まずい思いに駆られる。
そんな内面が表に出ていたのか、耀の仕草が友好的には見えなかったようで、相手は遠慮がちに声をかけてきた。
「えっと……羽柴君、だっけ?」
「え? あぁ……うん、そうだけど」
目の前に現れた人物には見覚えがあった。そして彼女が自分の名前を知っていたことに、耀は少なからず驚いた。
相手は同じ学科の所属でこそあったが、会話を交わしたことはなかったはずだし、接点らしい接点が思い浮かばない。
耀は元々積極的に話しかける性格ではないため、そんな相手に対してすぐに言葉が出てくるわけもなく黙り込んでしまう。
そのせいか、相手は不審に思われていると思い違ったようで、少し慌てた素振りを見せた。
「あ、えーっと。箕柳です、同じ学科なんだけど……」
「え、あ、うん。知ってる」
言ってから、随分とそっけない返事になってしまったことに気付き、今度は耀が慌てる番だった。
「あ……と、ごめん、こんな場所で会うのが意外だったから」
不審に思われているのが杞憂だったと判ったためか、その答えに相手はほっとした様子を見せた。
――知らないわけがない。
恐らく同じ学科でなくても、彼女の名前を知っている生徒は少なくない。
箕柳玖珠葉。
耀がその名前を知ったのは、四月初頭の学科別オリエンテーションの最中だった。何人かの男子生徒が、「すげー可愛い子がいるぞ!」と騒いでいたのを覚えている。
それほど騒ぐほどなのだろうかと多少気になりはしたが、自分に関係があるとも思えずわざわざ姿を探すほどの興味は沸かなかった。しかし、そこは同じ学科で行動しているだけあり、彼女の姿は探すまでもなく目に入ることになる。
背中に伸びている緩くウェーブの掛かった髪は柔らかな栗色で、少し目じりの下がった瞳と相まって可憐な印象を与えるその女子学生は、明らかに人目を惹いていた。美人というよりは可愛いという形容の方がしっくりと来る整ったその容姿を見たとき、耀にもその男子学生の言っていたことが納得出来た覚えがあった。
それにしても妙な所で出会うものだった。ここは公園の外周に当たる遊歩道で、片側は川になっている。そのため途中で通りに出ることが出来るわけでもなく、どこかへ抜ける近道になっているわけでもない。
耀が不思議に思っていると、玖珠葉は穏やかに笑った。
「私も。こんな所で知ってる人に会うなんて思ってなかった」
相手の笑顔に、曖昧に相槌を打って視線を目の前の欄干へと移す。
「羽柴君はこんな所でどうしたの?」
耀の視線を追うようにして、玖珠葉も欄干へと視線を向けた。
「どうって……」
訊かれて理由を探してみても、当然のように見つかるわけがなかった。
「……特にすることが無かったから」
何か目的があったわけではない。ただ単に時間を持て余していて、何となく外に出てみただけだ。
耀の答えに玖珠葉は一瞬だけきょとんとして、それから破顔した。
「あはは、せっかくの連休なのに勿体無いなぁ」
横目に表情を窺う耀も、つられて苦笑する。
「箕柳さんは駅にでも向かうの?」
この遊歩道からわざわざ向かう意味があるとも思えなかったが、この天気だ、時間を調整していたり、散歩がてら歩いてもそれ程おかしくは無いのかもしれない。
が、玖珠葉は軽く首を横に振って見せた。
「ううん。ただ散歩してただけだよ」
てっきりこれから出かける用事でもあるのだろうと――連休中の予定はきっと埋まっているのだろうと――思い込んでいた耀は、その答えを意外に思った。
「なんか、意外。って顔してるね」
玖珠葉が視線を耀に戻した為、自然と目が合ってしまう。
目の前の相手は、僅かに口を尖らせて抗議の意を示していた。
「あー……うん。ちょっと、思った」
「そんなに意外かな? 休みの日に散歩してるって言うと大抵同じような反応を貰うんだけど」
「意外って言うか……なんかこう、散歩っていうイメージと結びつかないというか……」
「散歩のイメージ?」
小首をかしげる玖珠葉に、耀は一呼吸を置いてぽつりと呟く。
「何て言うか……地味?」
「えー、そうかな? って、私、派手?」
「いや、派手って思ってるわけじゃなくて……一人で居るっていうのが意外。っていう方が近い、かな」
見かけた回数が多いわけではなかったが、オリエンテーションの時も、その後の講義のときも、見かければ誰かしらと談笑していたように思う。必ず彼女の周りには人がいたし、華があるというのは彼女のようなことを指すのだろうと思えるほどに、およそ一人で居る姿を想像できなかった。
そして恐らく、その印象を受けるのは耀だけではなかったということなのだろう。
しかし、やや間があって、
「……うーん。私は結構一人で居るの好きなんだけど」
玖珠葉は軽く握った右手を口元に当てながらそう答えた。
「え、そうなの?」
イメージに反した意見を聞き耀は虚を突かれたが、思い返してみれば自然と周りに人が集まるだけであって、本人が積極的にアプローチしている様子を見かけたことは無いような気がした。
「と言うか、どっちかと言うと人が多くて騒がしい場所って、ちょっと苦手だったりするし」
続く言葉は彼女の意外な一面を伝えるものだった。
そんな一面を垣間見て、耀はふと考え込んでしまう。
自分以外の誰かであれば、学内では見ることが出来ないだろう一面を知ることが出来て、小さな優越感でも覚えるのだろうか。偶然出会い、会話をしていることも楽しむことが出来るのだろうか。ともすれば親しくなろうと距離を詰める努力をするのだろうか。
だが、耀は自分がこの出会いに対しても会話に対しても、あまり興味を刺激されていないことを感じていた。
可愛いとは思う。魅力的だとも思うし、会話をしていて嫌になることなんておよそ無いだろう。しかし、それでも興味が持てるかと訊かれれば、正直肯定出来る気はしなかった。
とは言え、それは別に玖珠葉に対してというわけではない。何に対してもそうだった。
楽しいと思ったり嬉しいと思うことはある。触れ幅こそ大きくは無いのかもしれないが、感情が動かされることは普通にある。それでも、何かに対して強く興味を持つことを今まで経験した記憶が無かった。
ぼんやりとつまらないことを考え込み始めていた耀は、視界の端に揺れた影に会話の最中だったことを思い出さされる。
会話を弾ませることは出来そうにないが、黙り込むのは相手に悪い気がしてしまう。慌てて取り繕うように思ったことを口にした。
「人の多いところ、慣れてそうな印象があったけど」
「……うーん。人があんまり多いと、疲れちゃうんだよね。羽柴君は人が多いところって好き?」
「俺は――」
どうだろう、と思い少しの間だけ目を閉じる。
「好きでも嫌いでもないかな」
「人が少ないところは?」
「好きでも嫌いでもないね」
耀が同じ答えを返すと、玖珠葉は愉快そうな表情を見せた。
「あはは、好き嫌いが無いのはいいね。でも、それなら周りに左右されずにマイペースで居られそうだし、羨ましいな」
「……別に、そんなことはないと思うけど」
好き嫌いがないわけではなく、ただ単にどっちに対しても興味が無いだけだった。それが良いことだとは、どう考えても思えない。
むしろ耀には、周りの環境を気にできるだけの感受性がある方が羨ましく思えた。たとえそれが苦手というネガティブな感情であっても、それならばその感情に対するポジティブな感情がどこかにある気がしたからだ。
何かに心動かされることがあれば、この無為に過ごす日々にも変化が訪れるのだろうか。
と、不意に耀の腹の虫が不平を漏らした。
そして微妙な沈黙が訪れ、玖珠葉が笑い出す。
「まだ十一時だよ。お昼にはちょっと早いんじゃない?」
耀は僅かに気恥ずかしさを覚えながら、頭をかいた。ここ最近は、普段から食事を決まった時間に取る習慣もなくなっていたためか、思い返せば昨晩から何も食べていない。
「そう言えば昨日の夜から何にも食べてないな……」
「昨日の夜から?」
「まぁ普段からあんまり規則正しく食事摂ってるわけじゃないしね」
「それにしても昨晩からって言うのはすごいね……」
耀は、玖珠葉の苦笑に愛想笑いで応えながら、どこで何を食べるか思案した。
と言っても、選択肢になり得る行き先は数える程しかない。特に食べたいものも無かったため、一番手近なこの遊歩道の先にあるファーストフード店に決める。
「さてと、それじゃ俺は昼飯でも食ってくるよ」
このままずっと会話をしていられるとは思ってもおらず、切り上げるには丁度いいタイミングに思えた。
のんびりと耀が歩き出すと、それに合わせて玖珠葉も歩き出した。
一瞬何事かと思ったが、考えてみれば自分の目的地と玖珠葉の来た方向は逆方向だ。つまるところただ単に散策ルートがそっちなのだろう。
「それにしても夜から食べてないって、羽柴君、一人暮らしなの?」
「一応」
「実家は遠いんだ?」
「いや、そんなに遠くないよ。大学まで1時間ちょいで、普通に通える範囲」
「それなら実家の方が楽そうだけどなぁ」
玖珠葉の言葉に、耀は何気なく空を見上げた。
「……まぁ、なんか変わるかなと思ってね」
変化を求めて一人暮らしを始めてみたものの、未だに成果らしいものはないままだ。
「何か変わった?」
「今のところは何も……あぁ、いや。食事がいい加減になったか。洗濯が思いのほか面倒だっていうことを知ったし。後はゴミ捨てがかなり面倒だってことを知らされた」
一つ一つ思い出していくと、知らずため息をついてしまう。
「それは今まで恵まれてたんだよ」
「そうだと思う」
意地の悪い笑みを浮かべる玖珠葉を見て、耀はばつの悪い思いをしつつ苦笑いを浮かべた。
目的はどうあれ、一人暮らしを始めて初めて実家暮らしが楽だと言うことに気がつかされたし、家族のありがた味を知った。家事全般は母親がやってくれていたが、父親と姉にしてみても家に自分以外の誰かが居る、というのが思いもよらず大きいと思うようになった。
耀には話しかける話題を持っていなかったため、玖珠葉が質問し、耀が答える。そんな半ば一方的な会話は、遊歩道の先のバス通りを挟んだファーストフード店が見えたことでお開きとなる。
「じゃぁ俺はここで」
遊歩道から外れ、通りへ出るところで玖珠葉に別れを告げる。
「うん、また会ったらよろしくね」
そう言って玖珠葉はにこりと微笑んだ。
丁度そのタイミングで、耀の携帯がメールを受信する。差出人は宇多遼平。大学の友人だった。
『おいおいおい! 何、何なの、どういうことなの!? なんでお前が箕柳さんと一緒に居るわけ!?』
一文を読んだ瞬間、耀は思わず辺りを見回してしまう。そんな挙動不審な姿を見た玖珠葉が当然のように首を傾げる。
「ん、どうかしたの?」
「あぁ、いや――」
と、そこで耀は珍しい光景を見かけた。
遊歩道脇の雑木林の中、一人の少女が佇んでいる。頭上で何かが日の光を反射して輝いていた。
不意に少女と視線が交錯した気がして、耀が息を呑むと、玖珠葉の尋ねる声が聞こえた。
「羽柴君?」
「え?」
「何か急に辺りを見回してたから」
耀は言葉を濁し、もう一度雑木林の方へ視線を向けた時には、既に少女の姿は無かった。代わりに再びメールが受信される。
案の定、遼平からのものだった。
『なんだよちくしょう! そりゃ俺の誘い何ざ断るよ! っていうかマジでなんでそんな羨ましいことになってんだ、弱みでも握ったのか!』
何気に最後に酷いことが書かれていたが、読み終わった耀は返信をせずにそのまま携帯を閉じた。
何故メールなんだろうか。電話じゃないのは遼平なりの気遣いなのか。それよりもどこからこのメールを送っているのかと、もう一度バス通りの先へ目を向けた瞬間、見知った男の姿があることに気がついた。
向かいのファーストフード店のガラス越しに、何か言いたそうな笑みを浮かべにやりとしている茶髪の男がこちらを見ていた。
耀は引きつった笑みで遼平を見返す。距離が離れているため会話こそなかったが、耀には遼平が何を言いたいかが何となくわかってしまった気がした。恐らくは相手も同様だっただろう。
遼平は軽く肩を竦める素振りを見せると、立ち上がった。どうやら店を出るようだ。
「誰か居た?」
「あー……知り合いが」
玖珠葉も同じ学科だが、遼平のことを知っているとは限らない。ここからなら見えたと思うが、気付かなかった所を見ると知らないのかもしれない。
それならば遼平の名前を出してもしょうがないと思っていると、三度携帯がメールの受信を知らせてくる。誰からのメールなのは確認するまでも無かった。
『あーもう、休み明けが楽しみだな! 俺は野郎共とフットサルを楽しんでくるぜ。せいぜいお前は青春を謳歌してるがいいさ!』
多聞に勘違いが含まれているが、果たしてどう訂正したものか。
しかし、この状況ではどう言い繕った所で遼平が自分の言い分を素直に受け入れてくれるとは思えない。携帯を閉じながらため息混じりに笑いを漏らす。
それ以上は玖珠葉も言及してこずに、耀と玖珠葉はお互い軽く手を上げて別方向へと歩き出した。
耀が信号を渡り始めると同時に、また遼平からのメールが届いた。
『あ、それと今度箕柳さんに俺を紹介してくれると信じてます』