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五月九日・7

 辺りは静まり返っている。当然のように人気はない。

 ぽつぽつとある外灯の弱々しい光が薄っすらと、闇を払い除ける唯一の存在だった。

 ――不気味なほどに静かだな……

 この時間に公園を訪れたことがなかった耀は、思わず身震いしていた。温度は低くないはずなのに何故か寒気を感じてしまう。

 遼平からの電話が気がかりでこうしてやって来たが、どうにも無駄足になりそうだと思っていたその時だった。

「おや……少年。ここまで偶然が重なると、運命という名を騙る必然の存在を信じてしまいそうになるな」

 闇の中から聞き覚えのある口調が響いてくる。

「あなたは――」

 そして姿を現した桜花を見て息を呑む。

「遼……平……?」

 桜花は一人の青年を抱えていた。

 青年は血塗れで、意識がないのかぐったりとしている。ぼろぼろになった衣服と、赤黒く染まった肢体がおぼろげな灯りに照らされ浮かび上がっていた。

 見知った顔の、見たことがない程生気を欠いた表情に、耀は本来口にすべき言葉すら紡ぐことが出来ずにいた。

「ん、少年の知り合いなのか?」

「あ……そう……ですけど……」

「ふむ。まぁしかしこの青年を救うため、今話している余裕はない。訊きたいことがあれば後で答えよう」

 そう言うと桜花は今歩いてきたほうを示して、

「ついでに一つ頼まれてくれないか。この先に恵那――以前私と一緒にいた少女が倒れている。私一人では一度に運べなくてね、悪いがあの子を南側の出入り口まで運んでくれると助かる」

「え……?」

 耀は返答に詰まった。しかし桜花は自分の要件を伝えると、足早に歩いて行ってしまう。

 恵那というのは恐らくあの髪飾りの少女なのだろう。耀は何度か出会ったあの少女を思い浮かべた。

 この何一つわからない状況で、耀はあの眼帯の女性の頼みを聞くべきなのか躊躇した。だが、倒れているということは、遼平と同様の状態である可能性が高い。今しがた遼平を抱えた女性は遼平と救うと言い切っていたこともある。

 ――って言うか、ライトも無しに見つけられるのか?

 耀はそんな疑問を抱きつつ、示された方向へと走り出した。

 少し入ったところで、そんな思いが杞憂だったと気付かされる。前方に仄かに灯りが点っていた。そしてそこに倒れこむ少女の姿があった。

 予想通り血にまみれていて、ホラー映画のワンシーンのようなその光景に一瞬背筋に冷たいものが走るのを感じた。切り裂かれた衣服の下には素肌が見えたが、そもそも血に塗れていて色気を感じるようなものではなかった。しかし、どうやら遼平程ではないように見える。もっともどちらにしろ、どう見たところで軽症には見えないのだから竦んでいる場合ではない、早いところ言われた場所へ運ぶ必要がありそうだった。

 傍に置かれた小型のライトを手に取り、そこで耀は一瞬考え込んでしまう。が、こんなときに考え込んでもしょうがないので、耀は両手で抱えることにし、少女へ手を伸ばした。

「っ……!」

 ――重い。

 肌の柔らかさを感じた直後、その意外な重さに思考を持っていかれる。

 耀は何とか少女を抱えたまま立ち上がった。

 気を失っている人間を運ぶのは大変だと聞いたことはあったが、実際に抱え上げてみてそれが真実だと気付かされた。

 遼平を軽々と抱えていたあの女性は一体どんな膂力をしているのか。思わず耀の頭にそんな疑問が過ぎった。

 ここから一番近い出入り口は西側の出口だったと思ったが、あの女性は南側と言っていた。一番小さく、人通りのない出入り口を選んだのには理由があるのだろうか。

 ――それにしても……

 一体何だというのだろう。この出血の仕方は普通じゃない。日常生活ではどう考えても負うことのない傷に見える。切り裂かれた衣服は獣の爪を連想させた。

 ――獣?

 少女は以前、大きな犬を探していると言っていた。

 少女は以前、行方不明者が出ていると言っていた。

 少女は以前、ここに近付かないほうが良いと言っていた。

 耀の脳裏で幾つかの点が結び付けられていく。しかし、それはあまりにも現実味を欠いている答えだった。

 第一、もしあの辺りにそんな危険な獣が居たとして。こうして実際に被害が出る――少なくとも彼女らの言うことを信じるのであればこれより前にも二人出ている――状況で、それらしき噂を耳にすることもなければ警察が動いているという話すら聞かない。

 それらに関して自分が知らないだけという可能性もなくはない。だが、それであっても事件が発覚しているのであれば、せめて注意喚起か何かがあって、それであればさすがに気付いているはずだ。

 それすらない。だと言うのに実際に犠牲者が出ている。

 これではまるで、フィクションに出てくる一般社会の領域外の事件だ。

 ――と言うか……

 耀の脳裏にまた一つ疑問が湧いてくる。

 遼平とこの少女の姿を見るに、行方不明者イコール死者である可能性は高いように思える。

 だが、もしそうであれば既に出たとされる二名の死体はどうなったのだろうか。そう言った話を耳にしない以上、見つかっていないのだとは思うが――

「少年、こっちだ」

 南側の出入り口付近に来た所で呼び止められ声の方へと振り向く。

 桜花を追う様にして公園の敷地外へと出ると、そこには一台の白いミニバンが止まっていた。

「後ろの座席に座らせてくれ」

「え? 救急車とかは……」

「知りたいのなら後で説明するが、一般の治療法では対処できない要素が在る。それに事情が事情だけに病院へ運ぶとむしろ面倒なのでね」

 桜花はそう言って開かれたままになっているドアを指す。

 耀は腑に落ちない思いを抱いたが、促されるままに恵那を乗せようと車内へ乗り込んだ。座席には気を失ったままの遼平と止血し直しているらしい見知らぬ男が座っていた。

 男は恵那を一瞥すると特に驚く様子も見せずに、

「悪い。そっちに乗せてくれ」

 最後尾の座席を指差した。

「あ……はい」

 耀が何とか恵那を座席へと運び終える。そしてそれと同時に桜花がドアを閉め、運転席へと回り込んでいた。

「え……」

 耀はそのまま乗っていくという選択肢を考えていなかったため、呆気にとられ桜花の姿を目で追った。

「あの……」

「その格好でふらふらと帰るわけにもいかないだろう」

 言われて耀は自分の姿を確認し、改めて言われた通りかもしれないと思った。

 上半身はべっとりと赤黒く染まっていて、ズボンにも所々垂れた血が線を作っていた。

 誰かに出会う確率が高いとは思えなかったが、それでもこんな姿を目撃されてしまえば良からぬ噂を立てられてしまい、面倒なことになる可能性は否定出来ない。

「それに尋ねたいこともある。すまないが少し付き合ってくれ」

 桜花はそう言うとエンジンキーを回した。

 動き出してしまった以上無理に降りるわけにも行かず、耀は大人しく座席へと腰を下ろす。

「そう言えば、自己紹介がまだだったな。私は野杜神桜花。そっちの無愛想な男は西河秋慈だ」

 男はそんな紹介の仕方をされても意に介している様子はなく、耀の方を見ることもしなかった。眼鏡の奥の真剣な視線を遼平へ注いだまま、腹部に手を当てている。

 桜花は秋慈のそんな姿をバックミラー越しに見たのか、

「愛想が無いのは多めに見てやってくれ。その青年を治療するのに集中している証拠だ」

 フォローと言うよりはただ単に説明しただけと言った口調でそう告げた。

「……羽柴耀です」

 言葉を切った桜花の態度に促され、耀は僅かに躊躇ってから自分の名前を口にする。

 初め、この理解しかねる状況で、すんなりと名を告げることには抵抗を覚えた。しかし、遼平を治療すると言っていることや、相手がこちらに敵意を持っているようには感じられなかったこと。ここ数日で何度か顔を合わせていることもあって過度の警戒心は持っていなかったのかも知れない。なにより、ここで沈黙を保ってもそれは意味のないことに思えた。

「さて、まずは気になることがあれば先に答えよう。もっとも知っている範囲でしか答えることは出来ないが」

「……」

 桜花の言葉で耀の脳裏に幾つかの疑問が浮かんでは消えていく。少し考えてから、

「……遼平は、大丈夫なんですか?」

 座席越しに友人を眺めた。

 少しの間を置いて、秋慈が小さく息を吐くのが見える。

「問題は無い。まぁしばらくうちで安静にして貰うことにはなるが。ちょっと席を替わってくれ」

 秋慈は表情を変えることなく答えながら、恵那の横へと移動する。入れ替わる形で耀は遼平の隣へと移動した。

 まじまじと気を失っている友人を眺める。

 左腕と腹部に巻かれた包帯が赤黒く染まっている。表情は特に苦しそうというわけでもないが、いやに青白く生気を欠いた様子なのが、普段の遼平の印象からかけ離れていて酷く不自然だった。

「椚の方は大したことなさそうだな。これなら一日も休めば生活するのには支障が無い程度に回復するだろ」

 秋慈の声に、耀は後ろを振り返る。

 かなり出血していたように見えたが、そうなのだろうか。

 耀と同じことを思ったのか、桜花が運転席から声を掛ける。

「傷は大したことが無かったのか?」

「出血はあるが、問題ないな。この程度ならすぐ塞げる。それよりは霊傷の方が大きい」

 ――れいしょう?

 聴き慣れない単語に、耀は思わず疑問を抱く。どうやらそれが表情に出ていたらしく、秋慈は耀の顔を見た後桜花の方へと視線を投げかけた。

「こいつはお前の知り合いじゃないのか?」

「知り合い、と言えるほど親しくはないかもしれないな」

「……まぁ俺にとってはどうでもいい話だが。悪い、また席を変わってくれ」

 秋慈に求められ、再び耀は恵那の隣へと座席を移動する。

「あの……れいしょうって……?」

「霊的な傷のことだ。寒気を原因とする損傷を凍傷と呼ぶように、霊的な力を原因とする内外傷を総じたものだな」

「……霊……?」

 桜花から返ってきた答えに、耀は思わず間の抜けた声で聞き返してしまう。しかし、桜花は気にする様子も見せずに、さも一般常識を語るかのような口調で続けた。

「正確には霊子から構成される物質、あるいはその干渉を受ける空間からの人体への影響の総称だ。内的影響と外的影響を区別して霊障・霊傷と使い分ける場合もあるが、厳密にはその境界が曖昧で不明瞭だ。もっとも今回の二人の霊傷は考えるまでもなく後者だが。霊傷の厄介なところは物理的な傷と異なり、傷に付着した霊子が被傷者に対して――」

「要するに」

 すらすらと語りだす桜花を横目に、秋慈がため息混じりに台詞を遮った。

「そうだな……悪霊と言われてお前が想像するもの。そういうものが存在していて、この二人はその被害を受けたってことだ」

「人がせっかく説明をしていると言うのに……」

「お前の説明は相手を見てなさ過ぎる」

 耀は秋慈の端的な説明を聞いて、隣に居る恵那を見た。

 遼平と同じように巻かれている包帯は赤黒く変色している。自分の服に付着した血液からも、その出血が少なくはないことが伺えた。その傷を、彼女らは霊が付けたものだと言う。

 霊による被害の話は耳にしたことがあったし、文字として目にしたこともある。しかし、自分自身は今まで霊の存在を信じたこともなければ見たこともない。だから突拍子もなくそんなことを言われても、現実味を覚えにくかった。

「どうした、少年。信じられないか?」

 恵那へと視線を向けたまま黙っていると、バックミラー越しに見たのか桜花が尋ねてきた。

「いえ……別に自分が見たことがないから信じないなんて言えるほど、世界を知ってるわけじゃないですから……ただ……」

「ただ?」

「ただ……現実味がないと言うか……」

 言いながら、耀は何かしっくりこないと感じていた。

 あまり現実味を感じていないというのは事実だったが、今の自分の心情を表すのに、何故かその言葉は適切だと思えなかった。

「ふむ。まぁあまり普遍的に認知されているとは言えない領分だからな。だが都市伝説や怪談の類なら耳にしたことがあるだろう?」

「それは、ありますけど」

「語られる全てが真実だとは言わないが、少なくともその中には間違いなく事実も含まれている。少年のように見たことがないと言う人間は少なくないだろう。だがそれは、人によって波長の可視範囲や周波数の可聴域に差があることと同様の差異だ。霊子の作る波に対して捕らえることが出来る波長には個人差が存在する。多くの場合、それは霊感の有無で称されるが、霊感があろうと無かろうと霊子は確かにそこに存在し、見えないからと言って存在しないと言うことにはならない。語られる内容で見えない何かに襲われる・取り憑かれると言ったことがあるのはそう言うことになる」

 桜花がすらすらと口にする説明を聞きながら、耀は大学の講義を思い出していた。今まで知らなかった分野について、初めて説明を受けるときのような。

 全てをそのまま受け入れることは難しかったが、嘘を騙られていると思うことはなかった。自分で言った通り、訳がわからないから信じないなどとは言うつもりがなかったし、何よりここで自分を騙しても相手に益があるとは到底思えない。

 そうなると、二人はあの公園でそう言った何かに襲われたのだろうか。あの近辺に対するその手の曰くを耳にしたことはなかったし、あるようにも見えなかったが。

「遼平と……椚さんは、その何かに襲われたんですか?」

「そうだ」

「病院に行かないっていうのは……」

「霊傷に対してはそれ用の対処が必要になるからな。純粋に物理的な傷だけを治療するのであればそれでも良いが、それでは霊子による損傷が残ったままになる。物理的なものと同様に、霊子による損傷も自然治癒はするが、残念ながら今回の二人が負った傷はそう言った程度のものではないと言うことだ」

 つらつらと説明をされても、やはり現実味を覚えるのは難しかった。それどころか聞けば聞くほどに別世界の出来事に思えてくる。

 ついさっき、悪霊を想像すれば良いと言われたが、正直自分が描くイメージは漠然としすぎていてどうにも印象を掴み難い。

「……二人が襲われたのはあの公園なんですよね?」

「そうだな」

「あの公園にそう言った何かが居るんですか?」

「……いや――」

 そこで初めて、桜花は返答に間を作った。

 それまでぽんぽんと、あるいは一方的に答えを返して来ていたため、その様子は妙に強い印象を残した。

「――あの公園が問題と言う訳ではないな……さて、そろそろ到着する。少年、すまないが降りる時に恵那を頼む」

 耀が窓の外を眺めると、辺りは空き地を多く残す閑散とした土地だった。

 少しして停車し、桜花が外へと降りる。

 耀は言われた通りに恵那を再び抱え、先に降りた秋慈の後へと続いた。

 降りた先は病院ではなく、ぱっと見る限り何の変哲もない一軒家のように見えた。ここが住宅地の一角ではなく、周囲に家が見当たらない不自然な空間でなければ、それこそ何処にでもある一軒家に見えただろう。特徴といえばせいぜい三階建てであるように見える点くらいだ。

 桜花は一足先に玄関先へと向かっていたようで、玄関口に顔を出している誰かと話している。

 耀が秋慈に続いて建物へと足を踏み入れた所で、桜花と話していた人物が驚いた声を上げるのが聴こえた。

「って、恵那!?」

 声の主は、恵那と同じくらいの年齢の少女だった。両目を丸くして耀が抱える恵那の姿を見つめている。

「ちょ、ちょっと! 大丈夫なの!?」

 しかし、慌てる少女に秋慈が至って落ち着いた調子で、

「問題ない」

 と、短く答えを返し、そのまま建物の中へと入っていく。

「問題ないって……ホントに?」

 心配そうに呟く少女を横目に、耀も後へと続こうとした時、桜花に引き止められた。

「少年、後は私が連れて行こう」

 当然断る理由も無く、耀は恵那を桜花へと受け渡す。桜花は恵那を抱え直すと、建物の中へと踏み入り、そばにいた少女に話しかけてから秋慈の後へ続いた。

「それと秋穂。すまないがそこの少年に代わりの服を貸してやってくれ」

「あ、了解です。それじゃこっちに……えぇと……」

 秋穂と呼ばれた少女が耀へ視線を移して言葉を探す。

「あの、お名前伺っても良いですか? 私、西河秋穂って言います。西の河でさいがって読みます。珍しいですよね。にしかわって良く間違えられるんですけど。って、あぁすみません。そんなことはどうでも良くて、えぇっと、とりあえずこっちにお願いします」

 早口でまくし立てる秋穂に、耀は思わず呆気にとられた。

 言われるがままに後へと続く。入り口の直ぐ脇にある部屋へと案内されると、秋穂は「あ、ソファにでも座って待っててください。今着替え持ってきますね」と言って早足に部屋を出て行った。

「……と言われてもな……」

 耀は呟きながら自分の格好を省みる。

 上半身は勿論、下半身も所々血塗れだ。いくら座っていてくれと言われても、この状況でよそ様の家具に触れるのは憚られる。

 結局、耀はそのまま入り口の脇でじっと佇んでいた。

 玄関からすぐのこの部屋に入るまでに見えた限りでは、中の作りもあまり一般的な家屋と違いがなさそうだった。入ってすぐの左手には階段があり、着替えを持ってくると言った秋穂はそこから上へ向かったようだ。正面には真っ直ぐに伸びている廊下があり、突き当たりにドアが見えた。その廊下は数メートルの長さがあったにも関わらず、左右に全くドアも戸も見当たらなかったのが妙と言えば妙だったが、そういう作りの家だと言われればそんなものなのかもしれない。

 耀は改めて今居る部屋を見回した。

 壁際には大きめの液晶テレビと空気清浄機が備え付けられていた。中央には低めのテーブルが置かれていて、そこを囲うようにL字にソファが配置されている。机があることと床がリノリウム等では無くフローリングであることを除けば、診療所の待合室に見えないことも無かった。

「お待たせしました――って、あれ、座っててくれても良かったのに」

 部屋を見回している間に戻ってきた秋穂が、入り口の脇に立っている耀を見て目を瞬かせた。

「いや……汚しちゃいそうだったし」

「あぁ、なるほど。でも慣れてるんで気にしないでください。ってそうだ、結局名前聞きそびれてたんですけど、桜花さんの知り合いなんですか?」

「知り合い……という程じゃないと思うけど……あ、羽柴耀って言います」

「羽柴さんですね、私は西河秋穂です。ってさっきも言いましたっけね。と言うか、そうそう。着替え持ってきたのは良いんですけど、考えてみたらシャワーも浴びたほうが良いですよね? タオル取ってくるんで先に浴びてて貰っていいですか?」

「え……あの……」

 秋穂は一人で話を進めてしまい、耀は流されるまま脱衣所へと引っ張られて行った。

「じゃぁ着替えはここに置いておきますね。タオルも今持ってきます。後汚れた服はそこの洗濯籠の中に入れておいてください」

「あ……はい……」

 耀の呟きにも似た答えを待つことも無く、秋穂は再びぱたぱたと音をさせて姿を消してしまう。

 半ば呆然としつつも、耀は言われたとおりにシャワーを浴びることにした。無理に断る理由も思いつかない。何より落ち着き始めると、べとつく感覚が確かに気持ち悪かった。

 コックを捻ると数秒でお湯が出始める。耀は温度を少し温めに設定して、頭から浴びながら両目を閉じる。流れ落ちる水の音を聞いていると、訳のわからない状況に流されるままだった思考がようやく落ち着きを取り戻し始めた。

 正直なところ、落ち着いて考えて見たところで現状を理解出来る気はしなかった。

 本当に全く知らないことであったのなら、説明を聞けば「そういうものなのか」と納得出来たのかもしれない。しかし、聞かされたのは今までの人生で得た知識の中にあり、それはどちらかと言えば非現実的なもので、中途半端にイメージを持ってしまっているものだった。

 霊の存在自体を否定する気は無い。

 ただ、今まで実体験として触れることの無かった事象を唐突に突きつけられても、全てを一から信じられるほどに純心ではなかった。実際に霊の姿をこの目で見たわけではないのもその原因だろう。

 ――実際にこの目にしたものと言えば――

 耀はぼんやりと両腕を眺めた。

 べっとりとその腕を染めていた血液は、すっかり流し落とされている。しかし、あの二人を染めていた赤黒い体液は幻でもなければ夢でもない。

 あの西河秋慈と言う人物は顔色を変えるでもなく大丈夫だと断言していたが、本当にそうなのだろうか。

「羽柴さーん。タオルここに置いときますね。使い終わったのはそのまま洗濯籠の中に入れちゃって下さい。あ、あと上がったらさっきの部屋で桜花さんが待ってるらしいんで、そっちへお願いしまーす」

 ドアの向こうで秋穂の声がする。

 耀が礼を言うのと同時に脱衣所のドアが閉まる音が響いた。

「……」

 それまで考えていたことに区切りをつけるように、目を閉じて息を吐き出す。

 今更考えたところで意味がないことだ。遼平に関してはもうあの人たちを信じるより他にない。

 耀は浴室を上がり、用意されていた衣服に袖を通した。恐らくは秋慈のものなのだろうそれは、耀には少し大きいらしい。少しだぼついた洋装で先ほどの部屋へと歩を向けた。

 部屋に入るとソファでくつろいでいる桜花と目が合う。桜花は着替えていないようで、衣服にはまだ血液が付着したままだった。

「少年の知人はしばらくここに滞在してもらうことになるが、少年はどうする?」

「え……?」

「当面は今夜について、か。あの青年を気にかけて泊り込むのであれば、部屋を用意するが。あるいは帰宅すると言うのであれば送っていこう」

 耀は一瞬考えた。が、ここに自分が留まっていたところでやれることはない。無意味に手間をかけさせてしまうのは忍びない。

「いえ。帰ろうかと思ってます」

「では、適当なところまで送るとしよう」

 桜花はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり玄関へと向かう。

 耀が後を追い、玄関口に降りようとした所で秋穂の声が上から聞こえた。

「あれ、羽柴さん帰っちゃうんですか?」

 軽快に階段を下りてくる秋穂は意外そうな表情を浮かべていた。

「てっきり桜花さん共々泊まってくのかと思って部屋の準備しちゃいましたよー」

 秋穂が快活に冗談めいた笑顔で言う。

「あ……すみません」

 耀が思わず謝ってしまうと、秋穂は慌てた様子で大仰に手を振って見せた。

「え? いやいやいや、冗談ですって! って部屋の準備をしてたのは冗談じゃないんですけど。こっちが勝手に勘違いしてただけなんで気にしないでください。兄に聞いたら桜花さんが連れてきたって言ってたんで、てっきり同業者なのかと思って」

「同業者?」

「あ、あれ?」

 意味が分からずに耀は聞き返す。そんな耀を見て秋穂は小さく首を傾げ、視線を桜花へと向けた。

「今のところ、この少年は我々の仕事とは関係がないな」

 桜花は薄く笑みを口元に浮かべ答えた。

「さてと、のんびりしていると日付も変わってしまうことだし、そろそろ行くとしようか」

「あ……洋服は洗濯して置いておくので適当な時に取りに来て貰えると助かります。たぶん兄なら基本的には四六時中居ると思うんで、私が居なかったら兄に言ってみてください」

 玄関を出る際に秋穂がそう声をかけてくる。

 耀は頷きながら桜花に続いて扉をくぐった。

 少し風が冷たい。来るときはそんなことを気に出来る余裕は無かったが、やはり日が沈むと若干冷えるようだった。辺りに人工的な灯りが殆ど無いのも、より一層寒さを増している気がした。

 桜花に促され助手席へと乗り込む。エンジンが掛かりサイドブレーキを上げた桜花が、アクセルを踏み込みながら尋ねてきた。

「さて、特に訊きたいことがないのであれば、こちらから質問しても構わないかな」

「……どうぞ……」

「少年はあの時、何故あんな場所に居た?」

「遼平から、電話があって――」

 耀は事の成り行きを簡単に説明した。電波状況が悪くてほぼ聞き取れなかったが、断片的な単語からあの公園だろうと推測したこと。電話越しの声が普通ではなかったこと。それに加えて直前に聞いていた行方不明者や公園に近づかないほうが良いと言った話から、無視することが出来ずに公園に足を運んだこと。

 聞き終えた桜花は「ふむ」と一言呟いた。

「……あの遼平という青年は、少年の友人という認識で会っているのか?」

「そうですけど……」

 耀の答えで車内には沈黙が下りた。桜花は前方を注視していてこちらを見ることは無く、黙々とステアリングを握っている。その横顔からは何を考えているのか全く読み取れそうに無い。

 遼平のことについて尋ねられると思っていた耀は、桜花の質問がそこで止まったことに妙な居心地の悪さを覚えていた。

 車内に響くエンジン音がいやに大きく聞こえる。ラジオも音楽プレイヤーもカーナビの音声すらない車内では、会話が途切れることがこんなにも居心地の悪さを覚えるものだったのだろうか。

 桜花は変わらず口を開く素振りを見せず、そんな空気に耐え切れなかった耀は何でも良いから尋ねたい気分に抗えなかった。

「あの……あそこには何が居るんですか?」

 言ってから、来る時に似た質問をして答えを聞きそびれていたことを思い出す。

「あの場所に居るわけではない」

「え、そうなんですか……? 悪霊っていうからてっきり……」

 悪霊と聞いててっきりあの場所に問題があるのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。しかし、公園に近づかないほうが良いという警告を貰っていたはずだ。

「そもそもあの二人を襲ったのは人間だからな」

「は?」

 耀は桜花が口にしたその言葉を、一瞬理解することが出来なかった。

「いや、でも、霊にやられたって……」

「あの傷を負わせたのは霊子から成る存在だ。それを霊と呼ぶのであればそうなるが、その霊を操って二人を傷つけたのは我々と同じ人間だ」

「……」

 思わず言葉を失う。

 あの二人を襲ったのが人間だと断定されたこともそうだったが、その人間が霊を操ると言われてもそうそう信じられるはずもない。抱いているイメージでは、霊が誰かの指図で動くような存在だとは思っていなかった。

「少年、丑の刻参りは知っているか?」

「え……藁人形を五寸釘でって言うあれですか?」

 唐突に別の話題を振られ、意表を突かれながら記憶を探る。

 丑の刻に、神社の御神木に呪いたい相手を見立てた藁人形を五寸釘で打ち込むと言う有名な呪術の一つのはずだ。その程度のことしか知らなかったが、大よそどんなものかというのは想像できる。

「あれは服装や場所、道具を利用したプロセスの上に――あぁ、いや……」

 桜花は一度言葉を切ると軽く頭を振った。それから少しの間考え込んでから再び続ける。

「あれは人間が呪術を利用して相手に害をなそうとするものだろう。呪術と霊子を扱うことは同じではないが似たようなものだ。人間が霊子を利用して相手に害をなそうとする。もっとも、呪術にせよ霊子の扱いにせよ人に害をなすだけではないが」

 耀は桜花との短い付き合いの中で気付いたことがあった。どうやら彼女は噛み砕いて説明する術に長けていないようだ。

 説明を聞いてもいまいちぴんと来ない。何となく霊媒師や祈祷師などを連想したが、果たしてそれが正しいのかどうか。 

「ところで、どの辺りまで送れば良いかな?」

 言われて窓の外をよく見ると、見慣れた風景が映っていた。夜の帳が降りきった街並みは、ずいぶんと違う印象を受ける。その為か見知った場所であると思っていても咄嗟に目的地を指示できなかった。

「え……と、このまま真っ直ぐで……二つ目の信号を右にお願いします。曲がってすぐのところで下ろして貰えると助かります」

 目の前に迫っていた一つ目の信号を超えたところで、聞こえた声に耀はどきりとさせられた。

「少年は――」

 エンジン音に紛れることのない清涼な声が車内に響く。声のトーンが変わったのか、一瞬それが桜花の声だと気付けなかった。

「――我々を不審には思わなかったのか?」

「え?」

「私が血塗れの青年を抱えている現場に遭遇した時点で、逃げ去ってもおかしくはない状況だったと思うのだが」

「……不審には思いましたけど……顔を知ってる相手が倒れてるって言われて、そのまま逃げ帰ったら……さすがに目覚めが悪いというか……」

 とつとつと、何故か先ほどと同じ奇妙な居心地の悪さを覚えながら説明を口にする。

「なるほど」

 桜花は短くそう呟くと、

「ここで良いのかな?」

 停車させてドアのロックを外した。

 何故かその動作が、話はここで終わりだと言っているような気がした。

 耀は言葉にならない靄のような気持ちを抱えたまま車を降りる。

「……ありがとう、ございました」

「なに、気にするようなことじゃない。次は明るいうちに道を教えよう」

 頭を下げて遠ざかるテールランプを見送る。

 少し冷たい夜風を頬に受けて、そこで初めて連絡先を聞いていなかったことに気がついた。去り際の台詞は再び会うことが確定している言い様だったが、不思議とそれを疑う気持ちは興らなかった。


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