五月九日・6
遼平はぼんやりと、その光景を眺めていた。
「あなたが、箕柳玖珠葉さん、ですか?」
目の前には、見覚えのある少女の後ろ姿があった。月明かりを浴びて、彼女の髪飾りが鈍く煌いている。
遼平に凶爪が振り下ろされる直前に、その少女は現れた。
「そうだけど」
玖珠葉は突然の来訪者の方を警戒したのか、遼平から少女へと視線を移す。そして、少女の問い掛けに答えると同時に、何の躊躇いもなく狼をけしかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 話を――」
「もしかして、昼間私を探してたのって、あなた? だとしても、私の方には話すことなんてないし」
黒い炎の狼を操る玖珠葉と、その攻撃を軽やかな動作で避ける少女。
遼平はその目に映る映画のような光景を、体の力が抜けていくのを感じながら見つめていることしか出来なかった。
「私はあなたに訊き――っ!」
少女は尚も玖珠葉に話しかけようとするが、玖珠葉は微塵も応じる様子を見せない。
避け損なった狼の爪が、少女を捕らえる。しかし吹き飛ばされた少女は、何処から出したのか、手にした剣で致命傷を回避していた。
宙に浮き上がる少女を追って、距離を詰めた狼の前足が振り下ろされる。が、驚くべきことに少女は弾き出されながらも体勢を整え、着地と同時に後ろへと跳躍した。
玖珠葉の表情にもはや笑みは無く、その視線は鋭く獲物を見つめる狼のそれを連想させる。
そんな玖珠葉に対して、少女は攻撃を仕掛ける気配が無い。
遼平はふと、思い違いをしていたことに気がつく。
あの時、玖珠葉に止めを刺されそうになった瞬間、少女が割って入って来た時は助かるのかもしれないと思ったが、どうやら彼女の目的は自分を助けることと言うわけではないようだ。
妙な気分だった。痛みを感じることを意識が拒否したのか、それとも既にそれを認識できるだけの感覚がないのか。腹部に熱を感じるだけで、苦しいという感覚からはずいぶんと遠い位置にいる。
ただひたすらに、目を閉じてしまいたかった。
「もう……ちょこまかと鬱陶しいなぁ」
初めて聞く玖珠葉の苛立った声に、遼平は意識を引き戻される。
どうやら防戦一方の少女に対して攻めきれずに痺れを切らせたようだった。気がつけば狼の姿は消えていて、玖珠葉は一人佇んでいる。
少女はそんな玖珠葉を見て、やっと話が出来ると思ったらしい。玖珠葉に合わせたのか、その両手には剣が握られていなかった。
しかしすぐに、少女はその判断が誤りだったと言うことに気がつくことになる。
「――っ!?」
少女が口を開きかけた瞬間、背後に音も無く狼が現れた。
玖珠葉の視線からか表情からか、少女は直前で不意打ちに気が付いたようだったが、避け切ることが出来ずに勢い良く薙ぎ払われる。
小柄な体躯が宙を舞い、体勢を立て直すことも出来ないまま木の幹へと叩きつけられた。
「あはは、随分とお人良しだね。……そんなに簡単に人を信じてると、早死にしちゃうよ?」
冷たく微笑む玖珠葉がそう吐き捨て、漆黒の狼は避ける動作を取れない少女へと、その無慈悲な爪を振り下ろす。
しかし――
「……次から次へと、ホント鬱陶しいなぁ……」
狼の爪は少女に届くことなく止められていた。
「そうか、それは悪いことをした。だがもう終わりだ、安心すると良い」
遼平は朦朧とした意識の中で、その異質な存在感を放つ人物に見惚れてしまう。
闇の中で銀色に輝く刃を片手に、長身のシルエットがおぼろげに浮き上がっていた。木々をざわつかせる風に合わせて、腰まである長髪と裾の長いコートがはためく。
その姿に少女も気付いたらしい、弱々しい声がする。
「桜花……さん……」
桜花と呼ばれた女性は、強い意志を宿した左目で玖珠葉を射抜く。
だが、玖珠葉はそんなことはお構い無しに泰然としていた。
「そこの子の知り合い?」
「あぁ」
桜花は一度だけ少女に視線を向け、動きを止める。しかし、玖珠葉が狼を傍らに戻すのを見て、すぐに手にした刃を構えなおした。
そして、手馴れた仕草で右目を被う眼帯を引き剥がし、
「……箕柳玖珠葉。お前を消去する」
凛とした声が闇夜を切り裂き、大気を震わせた。
「あはは、消えるのはあなたでしょ」
桜花が距離を詰めるのを見た玖珠葉が嗤い、それを合図に狼が動き出す。
「桜花さん、待って――」
そんな中、少女は接敵する桜花に声を投げかける。しかしその言葉が届いた様子は無かった。
狼は、桜花が間合いに入ったところで足を振り上げた。対する桜花はそれを避ける気配も見せずに正面から尚も距離を詰めていく。
「それはちょっと、無謀じゃない?」
そこで狼が腕を振り下ろせば終わりだと、そう確信しているかのように玖珠葉は目を細めた。
実際その禍々しい爪は、正面からただ闇雲に迫る人間には避けることなど到底出来ない速度で振り下ろされる。仮に受け止めたとしても、普通の人間であればそのまま押し潰されそうな勢いだった。
だが次の瞬間、
「嘘……!」
玖珠葉は思わずそう呟いていた。
桜花は手にした刃で爪の軌道を逸らしつつ半身になり、そのまま狼の腕と背を蹴り玖珠葉の眼前に着地した。
「終わりだ」
桜花は射抜くような視線を玖珠葉に向けたまま、短く言い放つ。
しかし、その腕が振り下ろされることは無かった。
「桜花さん――」
いつの間にそこまでたどり着いたのか、少女が力なく桜花のコートを握りしめていた。
桜花の意識が少女へと向いた瞬間を、玖珠葉は見逃さなかった。狼が玖珠葉の前から二人を薙ぎ払う形で爪を振るう。
が、桜花はそれを予見していたかのように、少女を庇いながらも悠々と避けて見せた。
遼平は消える意識の中で、迷うことなく闇の中へと姿を消していく玖珠葉を見つめていた。




