五月七日・6
夜の帳が降りる頃、外出からの帰路で箕柳玖珠葉は不快感を覚えていた。
――誰かにつけられている。
確証は無かったが、確信に近いものはあった。高校の時に一度ストーカーの被害に合ったことがあり、その時の感覚に非常に近かった。
自分の後をつけて来る人の気配。気づかなければ気にならないのだろうが、一度気がついてしまうと無かったことにするのは難しい。
この手の連中は、相手に対する自己顕示欲があるためか、探偵などの尾行と違い相手に気取られないことには重きを置いていないらしい。中途半端にひっそりと後をつけて来るのが不気味さを際立たせている。
気がついたのは、店を出てしばらくしてからだった。バス通りを一本外れた道を歩いている時、道を曲がるタイミングで人影が視界の端に入った。普段あまり人とすれ違うことのない道だったので思わず視線を向けると、相手がこちらを見ているように思えた。
何となく嫌な感じを受けたが、それだけで断定出来るわけもない。ただの気のせいだろうとは思いつつ、何度か鏡を使い後方を確認しているが、いまだにその人影が消えることは無かった。
玖珠葉は覚えた不快感を吐き出すようにため息をつく。
帰りは駅前を通って帰ろうと思っていたが、自宅への最短ルートを取ることにしよう。そう決断し、少し歩くペースを速めた。
バス通りに出たところでもう一度背後を確認する。
やはりついて来る気のようだ。
玖珠葉はバス通りを渡ると、そのまま前方に広がる森林公園へと足を踏み入れた。
頼りない外灯が朧気に辺りを照らしている。この時間に園内を歩く人間はかなり稀なのか、しんと静まり返った薄闇がどこまでも広がっているように見えた。
「……」
後方で聴こえる足音を捕らえたまま、左手に広がる林を眺める。
外灯の無い林の中は、月明かりさえも生い茂る葉に遮られて闇に覆われている。
唐突に、玖珠葉はその林の方へと全力で駆け出した。
背後の足音も、慌てたように間隔が短くなる。
目の前には闇に紛れる木々が見えた。いくら暗いとは言え、目の前の木が見えないほどではない、合間を縫って走り抜けることは十分可能だった。最も、少し離れた所から人影を捕捉出来るかどうかは知らないが。
林を抜ける場合のおおよその方向を確認し、玖珠葉はわざとずれた方向へと走っていた。
途中、林の中を通る歩行用の細道に出たところで、足を止める。
耳を済ませて見るが足音はどうやら聴こえる範囲にはないらしい。玖珠葉は呼吸を整えながら辺りを見回した。
そして――
「そんなに慌てて逃げなくてもいいんじゃないかぁ」
視線の先、暗がりの中にぼんやりと浮かぶ人影を見て、玖珠葉は息を呑んだ。
小太りの醜悪な男は不気味な仕草でゆらりと近づいてくる。顔にはにやにやとした、嫌悪感すら抱かせる下品な笑みを浮かべていた。
「ひひ……恐怖で声も出ない? もうちょっと怖がってくれたほうがそそるんだけどなぁ」
耳に障る声を上げる男は、わざとらしく眉を寄せて見せた。
玖珠葉が後ずさると、男は大仰な仕草を交えて笑い出す。
「おっとぉ。鬼ごっこはもう終わりだよぉ?」
その瞬間、玖珠葉は自分の目を疑った。
男の前方、それまで何も無かった空間に、突如巨大な犬が現れる。サイズもさることながら、全身は爛れたようにずぐずぐで、目は窪んでいて闇を思わせる黒一色なのが異様さを覚えさせられた。
その姿に気をとられ、玖珠葉は犬が飛びかかってくるのを避ける余裕も無いまま、押し倒される。眼前に迫る犬の顔は、まるで腐乱死体を思わせる。
その向こうで、醜悪な男の愉しそうな顔がこちらを見下ろしていた。




