表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

エリーゼの審判 ― 1830の深淵と死のカウントダウン

作者: 半々月光

>ベートーヴェンの旋律を背景に、冤罪と裁判を描いた短編です。


一年前に書いた作品ですが、今もなお心に響いています。


短い物語ですので、ぜひ最後までお付き合いください。



第一曲──死の足音


「明日が最後の日だ……」


私は空に変幻する白い雲を見上げ、心は次第に静まっていった。平成二十七年十一月二十五日。


日記を閉じると、手にしていたペンが床に落ちた。しかし何の感覚もない。すべてはもう意味を失っていた。転がるペンの音は、厚い水の膜を隔てて響くように曖昧で遠い。


「トン……トン…トントン…トントン」


聞き慣れた旋律が流れる。ゴミ収集車の合図──《エリーゼのために》。人々はただの廃棄物処理の音としか思わないが、かつては高雅な芸術の産物だった。


音楽は慰めであるはずなのに、この瞬間は嘲笑のように響き、文明の旋律を日常の雑音へと押し潰していた。


あの箱のせいだ……


血に染まった箱が足元に横たわり、雨は広がる赤を洗い流せない。港の縁に立つ私の周囲には、鉄臭い匂いが漂い、冷たい雨は心の寒さを覆い隠せなかった。


それは小さな少女だった……


四肢は箱の中に散らばり、雨水は地面を伝って港へ流れ込み、一帯を赤く染めた。笑顔を思い出そうとするが、記憶は砕け散っている。箱を開けたことを激しく後悔し、手は血にまみれていた。血は指の間で固まり、罪と私を縛り付けるようだった。


「警察に?……だめだ!手が血だらけだ!」


服には新品のタグが付いていた。裕福な家庭の子だろう。なんて残酷な!犯人は近くにいるのか?!雨の幕は厚い紗のように未知の視線を隠していた。


私は箱を凝視し、胃が急に縮み、自分を呑み込もうとする。鉄臭さは鼻を突き、口からも漏れ出すようだった。雨が地面を叩く音は外の音なのか、それとも心臓の震えなのか。


「うっ!」


視界は一瞬で曇り、足は地に釘付けになった。その時、男が突然現れた。顔は憤怒に歪み、眼差しは雨幕を裂くように迫ってきた。手の棒が空気を切り裂き、重い力で振り下ろされた。


「う、待っーー」


言葉を終える間もなく、世界は一撃で砕け、意識は闇へ落ちた。


「トン……トン…トントン…トントン」


雨音に混じり、ゴミ収集車の旋律が響き渡る。雨に横たわるのは、私と血の箱だけだった。




第二曲──転機


「1380、もう観念しろ!指紋は全部お前のものだ。」


東京拘置所の若い看守が冷たく言い放った。


私は顔を上げ、机のペンから冷たい鉄の扉へ視線を移す。指先の鉄臭さと共に痛みが戻ってくる。彼らは真実など気にせず、誰かが背負えばいいのだ。


あの箱……腐敗の匂いは港の塩気と混じり、悪意のように漂っていた。思い出すたび胸が吐き気に襲われる。


その時、規則的で馴染みのある足音が近づいてきた。


「おはよう、熊本弁護士。来られましたか?」


看守の声が響く。


私は動かず、扉が静かに開いた。


熊本仁が目の前に現れ、冷静に挨拶した。


「どうだ?」


「どう思う?どうでもいい、もう意味なんてないだろう。」


彼は書類の束を置いた。


「まだ終わっていない。新しい手掛かりが見つかった。」


熊本は椅子に腰掛け、机を軽く叩いて注意を促した。


「新しい物証がある。今回は違う、転機になるかもしれない。」


「物証?」


私は冷笑し、両手を後頭部に組み、見る気もなかった。


「証拠なんて何も変えない。私はただの犠牲羊だ。」


彼は黙って書類をめくり、声を厳しくした。


「指紋検査には技術的な欠陥がある。廃死刑団体の抗議で裁判所が再審査を始めた。」


私はゆっくり顔を上げた。まだ疑念はあるが……今回は少し違う感覚があった。


「本当に変わるのか?官僚が気にすると思うか?」


彼は両手を私の肩に置き、揺るぎない眼差しを向けた。


「もっとも信じて、細部が事件の基盤を変えるんだ。」


信じたい気持ちと、「お前が犯人だ」という声が耳元で囁く。


血、雨音、箱の匂い……皮膚から滲む臭気、口から漏れる悪臭……何が現実なのか。


彼の言葉は縄のように、心の奥の希望を強く引き寄せた。


昨日まで私は死を覚悟していた……自分が犯人ではないかと強く疑い始めてもいた。しかし彼の揺るぎない確信が私を迷わせ、二つの声が私を窒息させた。



「はぁ……どうせ明日の午後で、この馬鹿げた人生ともお別れだ。ふふ……」


私は顔を覆って笑い、希望を拒んだ。


「時間を無駄にするな。家族のもとへ帰れ。」


「ドン!」


突然、熊本が立ち上がり、机を叩き割らんばかりに一撃を放った。私は驚愕した。彼は極真空手の黒帯だと言っていたが、冗談だと思っていた。


看守が慌てて小窓を開け、無事を確認すると再び昼のドラマに戻った。


「ふざけるな!」


熊本の呼吸は荒く、声は震え、両手は机を掴み、指は白くなり、目には激しい感情が燃えていた。


「八年だ、八年!文人!お前はそれで諦めるのか!」


彼の眼差しは期待と失望が交錯し、鋭い刃のように私の心を突き刺した。


「私は妻も子も捨てた!」


彼は叫び、目は血走り、涙が震え、拳も震えていた。抑えきれぬ怒りがそこにあった。


「命を賭けた!なぜならーー私はお前の無実を信じているからだ!」


その言葉は赤熱した鎚のように心を打ち砕いた。彼はすべてを捨て、ただ私を信じていた。


「お前……信じているのか?」


私は呟き、全身が熱を帯びた。


「信じなければ、ここにいるものか。」


彼にとってこの裁判は仕事ではなく、使命だった。


熊本は私を見てから俯き、指で木屑を払った。深く息を吸い、疲れを滲ませながらも声は揺るがなかった。


「明日までに検査報告が出る。」


彼の目に揺るぎない光が宿り、椅子を押しのけるように立ち上がった。



「今夜は眠らない。報せを待つ……明日、必ずお前をこの深淵から解き放つ!」


そう言い残し、私の扉は再び希望から隔てられた。




第三曲──新鮮な空気


正午十二時、東京高等裁判所の外。


「熊本弁護士、先ほど新しい物証を提出されたと伺いました。午後の判決に突破的な進展はありますか?」


NHK、朝日新聞、読売新聞の記者たちが一斉に押し寄せる。閃光灯が絶え間なく瞬き、マイクが銃口のように彼へ突きつけられた。


裁判所を出たばかりの五十代の男を取り囲む。眉間に深い皺を刻み、鋭く揺るぎない眼差し。窪んだ眼窩には長年の経験が宿り、声はなお力強く響いた。


「私は確信している。この八年の冤罪を覆すと!」


「若木文人は本当に殺人を犯していないのですか?」


若い記者が突然声を張り上げた。


熊本は一瞬間を置き、さらに落ち着いた口調で答えた。


「彼は無実だ。今回の物証がすべてを証明する。」


――午後十四時五十分。


三名の合議裁判官が判決を読み上げた。


「被告・若木文人は、物証が不明確であるため、本庭の再審により……証拠不十分、無罪釈放とする。」


私はその場に立ち尽くし、二つの言葉を聞いた。


「無罪」……「釈放」。


呆然と立ち、何を言えばいいのか分からなかった。八年――八年という時は昨日のようでもあり、今日のようでもあり、長く、そして非現実的だった。


裁判所の門を出ると、陽光が目に刺さり、涙が滲む。灼熱の空気はしかし清らかで、まるで初めて吸い込む酸素のようだった。群衆の喧騒、記者の問い、弁護士の呼び声――すべてが耳の奥で溶け合い、曖昧に響いた。


「くたばれ、犯罪者ーー」


「若木!あなたは無実だ!」


「死ね!」


泣き崩れる者、標語を掲げる者、触れようと手を伸ばす者。記者の閃光は銃弾のように連続して撃ち込まれ、私は思わず腕で目を覆ったが、痛みは消えなかった。


深く息を吸い込む。胸腔が再び開かれ、久しく忘れていた風が肺へ流れ込む。自由の第一歩はあまりにも陌しく、足元の地面は牢獄のコンクリートよりも確かだった。


「自由の味――新鮮だ。」




終曲──深淵


若木文人が釈放されたという知らせは、社会に大きな波紋を広げた。各テレビ局の討論番組――『報道焦点』『ニュース七時』――では、死刑存廃をめぐる議論が続いていた。


「死刑は廃止できない!罪は蔓延し、最後には法治が崩壊する!」


存置派の指導者が断固として発言する。


その言葉を遮るように、廃止派の幹部が激しく叫んだ。


「彼らも人間だ!我々に命を奪う権利はない!」


存置派の指導者は冷笑した。


「では被害者は人間ではないのか?彼らは死んで当然なのか?」


観客席の支持者も言葉の応酬に加わり、双方の感情は高まり、現場は混乱に包まれた。ディレクターはやむなく番組を中断し、画面には「番組中断」の文字が映し出され、音声は途絶えた。


私は何も言えなかった。自分も死刑廃止には反対だ。世界には秩序が必要であり、それこそが人間の奥底に潜む暗い衝動を抑える唯一の方法だと思う。だがもし廃止派が勝利すれば……私は……いや、もう考えるのも面倒だ。風呂に入り、ジャグジーで温まり、環境音楽でも聴いて心を沈めよう。


浴室に入り、水をひねると温かな流れが落ちてくる。すると外からまたあの馴染みの旋律が聞こえてきた。


「トントントン…トントン…トン────」


《エリーゼのために》……どうやらこの手紙は、ベートーヴェンがやはり届けたらしい。旋律を口ずさみながら久しぶりの自由なシャワーを浴び、獄中の嫌な記憶――嘲る看守、蜘蛛の巣だらけの狭い部屋、黴臭い空気――を必死に忘れようとした。


タオルを巻いて居間に戻り、テレビをつけて古い西部劇を選ぶ。主人公は町の悪党を追い払おうとしていた。私は画面のカウボーイを羨んだ――彼は善悪を見分け、銃を抜いて決断できる。だが私は?八年の牢獄は、私が被害者なのか加害者なのかを曖昧にした。


毎日の独り言の中で「自分は犯人だ」と無理に受け入れ続ければ、やがてそれが「事実」として心に刻まれる。


意識は次第に曖昧になり、外の雨が屋根を叩く音に包まれ、私はいつの間にか眠りに落ちた。



「速報!少女バラバラ殺人事件の容疑者が再び姿を現し、警察は堤防で発見……」


陽光がソファに差し込み、私はぼんやり目を覚まし、テレビをつけるとニュースが殺人事件を伝えていた。私は呆然とし、過去の事件を思い返した。


「犯人また......」


テレビを消し、深く息を吸い、自由を楽しみ、熊本弁護士に感謝しようと思った。浴室に入り、洗面の準備をする。


鏡に映る自分はやつれていたが、以前よりは精神が良くなっていた。顔を洗おうと頭を下げると、洗面台の隅に暗赤色の痕跡が見えた。


「これは……血?」


指で拭い、鼻に近づけると、馴染みの匂いが背筋を凍らせた。慌てて後退し、床に滑り倒れた。振り返ると浴槽は真紅の血で満たされていた。


「どういうことだ!」


恐怖に駆られ、這い上がり、浴室を飛び出し、玄関へ走った。


扉を開けると、眩しい光が差し込み、そこに熊本仁が立っていた。


「熊本弁護士!来てくれたんですね!助けて!中に……血が!」


彼は冷たく私を見つめ、眼差しは氷のように沈んでいた。


「お前、お前……」


声は震え、怒りを帯びていた。


「な、何が……」


私が言葉を詰まらせた瞬間、熊本は突然手を伸ばし、私を地面に叩きつけた。


「ドン――!」


視界は一瞬で暗転した。


「1830、また会ったな。これがお前の運命だ、ふふふ。」


声は深い井戸から響くように反響し、嫌悪の記憶を呼び起こし、胸を圧迫した。


「こ、これは……!」


目を覚ますと、四肢は拘束され、医療スタッフが周囲に立ち、若い看守が冷たく見下ろしていた。


「なぜだ!なぜ閉じ込める!」私は狂ったように暴れた。


看守は冷たく言った。「熊本弁護士の新しい証言で、お前の無罪は覆された。彼が……」


言葉が終わると、私は闇の深淵へと落ちていった。


「はははは……そういうことか……」


私は抵抗をやめ、運命を受け入れた。


近くの記録にははっきりと私の名――若木文人が記されていた。診断書にはこう記されていた。


『患者は特定の環境下で破壊的行為を示す。刺激条件はゴミ収集車の音と雨天環境。治療と拘束を強化する必要あり。』


「トントントン……トントン…トン……トントントン────」


《エリーゼのために》が再び響いた。


>最後まで読んでいただきありがとうございます。


この物語の中心にあるのは「死刑」という制度の存在意義です。


冤罪、裁判、記憶、音楽──それらが交錯する中で、人間の深淵を描こうとしました。


読後に、死刑というものが持つ重さについて少しでも考えていただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ