僕の画家、私のパトロン
彼に追いつくのは簡単だった。
アウリス様の背中に声をかけようとしたけれど、できない。――三歩分の距離が、途方もなく遠く感じる。
――アウリス様。
なぜあなたは、ここにいるんですか。なんで、私に何も言ってくれないのですか。
……それとも、あなたは私の味方ではないんですか。
彼は人混みから徐々に外れ、校長室の前へと来ていた。柱の陰に隠れ、息を殺して様子をうかがう。
アウリス様が何か呟き、扉が内側から開く。顔を出したのは、やはり校長先生だった。
二人が言葉を交わし――部屋に入ったのを見届けて、私はゆっくりと歩みを進める。
……怖い。
心臓が真ん中から揺れるような、そんな恐怖。片目の視界がいつもより狭く、そして彩度が低くなる。
扉をほんの少しだけ開けて、中を覗いた。
そこから見えたのは――剣を構えるアウリス様とカイヤ校長の姿だった。
真っ直ぐに剣を持つ校長先生に対して、アウリス様は片手で自身のそれを弄んでいる。
いつもの飄々とした笑顔が崩れていないことが、私の胸を締め付けた。
不意に――左目がじんと痛む。あまりの痛さに両目を閉じた、その次の瞬間だった。
……どうして。
私の左目に、光が差していた。
それは明るい日の光なんかじゃない。もっと、どす黒くて暗くて、すべてを吸い込んでしまう黒い絵の具みたいだ。
ノイズが走る視界でも、両目が見える。久しぶりの感覚に足が震えるのを感じる。……脈拍がうるさい。
その焦点が、自然に部屋の隅に吸い寄せられる。
私の左目が映したのは、黒く光る人影だった。
殺意に似た強いもの、それから左目の強烈な痛み。異常な光景に立ちすくんでいると、その影が校長に向かって走り出した。
怖い。
助けなければ、と思うのに、体が動かない。
アウリス様がその影に剣を振るう様子を、ただ茫然と眺める。
分からない。
――一瞬ののち。校長を庇ったアウリス様に向かって走り出す、二つ目の影。
私なんかが行っても、なんてぼんやりと考えた。
敵か味方か分からないその人が目を見開くのを、ただ眺めているしかできない。
そのつもりだったのに。
***
呪われてしばらくしたある日。じくじくと痛む左目を髪で隠しながら、私は街を歩いていた。
片目の世界はバランスを取るのがやっとで、こんなに世界って暗かったっけ、とぼんやり考えた。
「考え事かな、僕の可愛い画家さん」
「……アウリス様。散歩ですか」
背の高い彼を見上げてそう聞くと、彼はくすくすと笑う。
「そうとも言えるね。ルリネ、君を探しに来たんだ」
首を傾げたその時、黒くなった左目が見えそうになっていることに気づく。はっとして上げた腕は、強い力によって止められた。
「――大丈夫だよ」
「……申し訳ありません。汚いものをお見せして」
「いや」
空いた手で、彼は私の瞼を撫でた。
もう見えないのに、死んでいるのに――その手は確かに温かい。
「君はちゃんと綺麗だよ、ルリネ」
――この人の笑顔を、いつか両目で見たい。そう思った。
***
腕に鈍い痛みが走り、呼吸が乱れる。
私はいつの間にか、彼の目の前で影の攻撃を受けていた。
「――っ!」
私の体から発せられる黒いものと、影の突き立てるそれがせめぎあう。
視界の塵がますます多くなり、体中が痺れる。
「……アウリス様、私のパトロン」
――私は、あなたのことを……思っていたよりも尊敬していたみたいです。
突如、私に向かっていた影だけが、大きな音をたてて吹き飛んでいく。
それは跡形もなく消え去り、その代わりに周囲に影がいくつも浮かび上がる。
視界が真っ暗になりそうな中、彼の声が響いた。
「――僕の画家に手を出したね」
今まで聞いたこともないくらい、冷たくて厳しい声だった。
「ルリネ。君を危険に巻き込んでしまったこと、本当に申し訳ない。――目を閉じていなさい」
アウリス様は私をゆっくりと抱き上げ、彼のすぐ横に座らせる。
叫び声が轟き、影の集団がこちらへ向かってくる。
私が見たアウリス様の笑みは――とても冷酷だった。
彼の手から放たれた氷の欠片は、影を跡形も無くなるほどに切り刻む。
悲鳴を上げて崩れていくそれらに、アウリス様は容赦なくとどめを刺した。
「あまり僕を怒らせないでくれよ」
衝撃音とともに、黒い集団は弾き飛ばされる。
――そこに残ったのは、私たち三人と……無残なまでに体を引き裂かれ、意識を失っている男だった。
***




