第2話
最近の是明はおかしい。
帳簿と現実が噛み合っていない。
仕事の記録は抜けているのに、帳簿には“なかったはずの捜査”が増えていく。
このまま放っておけば、何か取り返しのつかないことが起きる。
その確信だけが、胸の奥で警鐘を鳴らしていた。
「是明、遅いわね。何やっているのかしら?」
私は、徴税局の与えられた一室で事務作業をしていた。
捜査対象はまだ山積み。
ひとつずつ丁寧にこなしていけば、いずれは減っていくはず。
なのに――この部屋の二席のうち、もう一つの主はいまだに現れない。
現れたと思えばニヤリと笑い、すぐどこかへ消える。
だから“ただのサボり”じゃないと、私は彼の捜査記録を見た。
落書きと白紙の状態で絶句。
この変わりぶり、さっぱりわからないわ。
あっ、扉が開いた。
「よっ」と軽く声をかけてくる。
でもその軽さが“軽さではなく異質さ”に聞こえた。
「ようやくお出ましね」
私は魔導書類を持って立ち上がろうとして、思わず数枚こぼした。
私は反射的にしゃがみ込む。
その瞬間、視線を感じた。
見られているんじゃない。“私という存在を測られている”――そう思った瞬間、背中が冷えた。
「ねぇ……何か気になるの?」
思わず声が出た。
彼は一拍おいて、曖昧に笑う。
「いんや、わりぃわりぃ。そんなつもりじゃねぇんだ。ただ――どこにでもあるんだなって」
「どこにでも?」
「ああ、書類仕事」
帳簿やリストなんて、捜査前には揃ってて当たり前――
そう思った瞬間、ぞくりとした。
“当たり前”という言葉を、この男はもう普通の意味で使っていない。
拾ってくれたのは感謝するけど、なんか違う。
やはり、以前の彼とはまるで正反対。
また何もいわず、ふらっと出かけていくので、こっそり後をつけてみた。
気になって息をひそめていると、人気のない場所に向かう。
そこで立ち止まり誰かと話しているが、相手は……見えない。
私は、曲がり角の陰から様子をうかがっていた。
聞こえる会話は奇妙。
「なあ……なんでお前の存在証明と、俺のが一緒になったんだ」
「使うたびに渇く。……ゼロにすればいい? 吸収じゃなくて?」
明らかに“誰かと会話している”のに、声は是明ひとつだけ。
その“相手の分の沈黙”が、余計に気味が悪かった。
「ああ……まあいいさ。俺が世界を追放してやるよ」
冗談に聞こえなかった。それが一番怖かった。
……世界を追放?
誰と話しているのか分からない。それでも会話だけは成立している。
もう少しと一歩近づいた瞬間、是明が気配を察したのか――音を立てて慌てて逃げる。
「え?」
一瞬、足が止まった。
息を呑む間もなく、是明の輪郭が“線”になって、ふっと切れた。
——転移じゃない。“存在そのもの”が抜け落ちた。
音も、匂いも、気配すらも残らない。
ただ、そこに“在ったはずの空気だけ”が、微かに震えていた。
――そこにいたことだけが、空気にだけ記録されているみたいに。
一体なんなの?
それに誰と話をしていたのかしら。
少し冷たい汗がこめかみを伝う。
走って戻った。息も整わないうちに、扉を開けた。
――ほんの数分のはずなのに、妙に長く感じた。
部屋に戻ると彼がいた。
魔導書か何か席につき眺めていた。
……なんてことのない風景ね。
「ねぇ、さっき……誰かと話していたでしょ?」
不思議そうな顔で、是明は私を見る。
「ん? 廊下? 何、言ってんだ?」
「だって、さっき――」
からかわれていると思った。……でも違う。
「俺はずっとここにいたぞ? さっきから、この席で」
机の上のインクだけが、さっき私が落とした位置のままだった。
何見え透いたことを言ってるんだろうと、思わず声を上げてしまう。
「嘘!」
困ったといった表情を向けて、答える。
「そういわれてもな。在香、お前書類おとしただろ?」
「ええ、あなたが拾ってくれたわ」
「そこまでは一緒だな。そんで提出してくるって言って出ていっただろ?」
この人、何を言っているのかしら?
私の知っている事実とあなたの認識がずれている。
「? ふらっと出ていったのは、あなたの方でしょう?」
彼は少しめんどくさそうに、出入口の記録帳を指さした。
「だったら、そこの出入りの記録帳みてみな」
……やっぱり、からかっているのかと思った。
しぶしぶ、部屋の出入りを記録する帳簿を開くと――。
思い出そうとすると、廊下の光景だけ輪郭がにじむ。
「え……?」
記録に残っているのは、“私が出入りした記録”だけ。
是明の名前は、どこにもない。
「……私だけ?」
「帳簿は、“在る”って決められたもんしか拾わねぇ」
「じゃあ、あなたは……」
「載らねぇ存在だ」
「嘘ついてんのは俺じゃねぇ。帳簿の方だ。」
……どういうこと?
この帳簿は、“存在証明が有効な者”の出入りを自動で記録するはず――なのに。
私は何をみて、何と話をしているの。
背筋が凍る思いがした。
「ん? どうしたんだ?」
「あなたは誰なの?」
――怖い。
でも、それ以上に。
この人は、いつ消えてもおかしくない。
今、口角を一瞬あげたよね?
「おかしなことを言うやつだな」
胸の奥で何かがしきりに叩いている。
「だって、ここにあなたが入った記録がないの」
彼は小さくため息をついた。
私は疑うように声を上げてしまう。
「……どういうこと?」
“在ったことになっていない存在”。
……それは、この世界にとって最も危険な異物のはず。
「そんな……じゃあ、この記録に残っているのは――」
「お前だけだ、在香。“在る”と認められてるのは」
「……どういうこと?」
「俺じゃねぇよ。
俺はここにいたんだ。記録にも残ってねぇだろ?」
喉の奥が、勝手にひゅっと鳴った。
私の“在り方”だけが、ここに確かな線で引かれていて。
隣に立つ是明だけが、“線の外側”にいる。
「存在が……ないって、どういう……」
「在香? 忘れたのか?」
昼間のはずなのに窓の外が急に暗くなってきた。
黒い雨雲が空を覆う。
彼が何かまだ言っているはずなのに、聞こえない。
窓にたたきつける雨音だけしか、耳にはいってこなかった。
そして彼は笑みを浮かべた瞬間、ドガーン!
轟音が鳴り響いた。
辺りは一瞬、真っ白になる。
目がおちつくとそこには誰もいなかった。
気づけば、私は立ちすくんでいた。
すると声が届いてきた。
「……おい、まだ鳴ってるか? 雷」
机の下から、是明の声。
覗き込むと、是明が顔だけ出して笑っていた。
「な、なんでそんなとこに……!」
情けないのに消えそうで怖い。
「いやぁ、反射的に潜っちまってな。雷、苦手なんだよ」
へらりと笑うその表情に、私は息をのむ。
――笑っているのに、目が笑っていなかった。
でも――そこに“在る”気配だけが、まるで薄かった。
もう一度気になることをしっかり確認したかった。
「ごめんなさい。さっきききそびれちゃったんだけど」
「ん? 何がだ?」
「存在証明のこと」
思わず喉が鳴る。
なんでだろう。
何かすごく重大なようで。
どこか聞いてはいけない気もしてきた。
それが私の錯覚なのか、そう思わせられているのかわからない。
「忘れたのか?」
「ええ、記憶にないもの」
「とんだ健忘症だな。まあいいだろう」
彼は魔法が得意じゃないはず。
なのにその手元は何?
銀色の粒子が、霧のように手のひらへ集まっていく。
空気そのものが削られて粉になっていくみたいで、背筋がぞわりとした。
私の方へ向けかざすと、思わず身を構えてしまった。
「え?」
その銀の粒子は、一気に扉へと飛び散り、薄い膜のように張り付いていった。
……こんな繊細な魔法、前の是明には使えなかったはず。
「わりぃわりい。驚かせるつもりじゃねぇんだ」
「じゃあ何を……」
「聞かれたくねぇ話でな」
私は思わず胸をなでおろした。
だが、次の瞬間――また心臓が強く跳ねた。
いつぶりぐらいかしら、脳裏まで警戒を発したのは。
これほどまで一瞬でも危機感で動くなんてね。
私はそのまま自席に座り、彼の方を向いた。
「まあ、そんな大した話じゃねぇけどな」
また彼は口角を上げた。
この時、今目の前にいるはずの彼がどこか存在が薄く感じられ、今にも消えてしまう。
そんな気がしてならなかった。
今は雨音さえ、聞こえない。
在るのは、私と彼の鼓動音がやけに響く感じがした。
その沈黙に耐えきれなくなったみたいに、
彼はふいに腹を押さえた。
「……飯、行くか」
あまりにも場違いな一言に、私は言葉を失った。
……この人は、もう私の知っている是明じゃない。
でも是明は、世界の帳簿から消されつつある。
それでも、私の目からは消えない。
なら私が追うべきなのは――“是明を書き換えた何か”。




