幕間:二区の花
俺がアイカと出会ったのは――まだ、俺の目が黒かったころだ。
女神が“当たり前みたいに”日々顕現して、世界の骨組みがまだ軋んでなかった頃。
神族も天使族も勇者も悪魔族も、表向きは同じ空を見上げていた。
平和だった、なんて言う気はねぇ。
ただ――壊れる前の世界ってのは、壊れないと気づけないだけだ。
俺は落ちてきた。
理由は覚えてねぇ。覚えようとすると、そこだけ黒く塗りつぶされる。
気づいたら、何もない荒野で、うつ伏せに倒れていた。
砂が舌にまとわりついて、息を吸うたび喉が焼ける。腕も脚も、鉛みてぇに動かない。
……ああ、ここで終わりか。
そう思った時、影が差した。
「ねぇ、お兄さん。大丈夫?」
鈴が鳴るみたいな声だった。
片目だけ開けると、十五、六くらいの少女が覗き込んでいた。髪が陽に透けて、妙に柔らかく見えた。
「……みず……」
「うん。待ってて」
足音が遠ざかっていく。
焦げる視界が闇へ沈む、その寸前――冷たい水滴が頬に落ちた。
「起きれる?」
俺は、骨の奥から力を絞って起き上がった。
瓶の水を一気に飲み干す。喉を通る冷たさが、死にかけた体を叩き起こす。
……生き返った。
そう言っていい感覚だった。
少女は、少しだけ胸を撫で下ろした。
「どうして、こんなところにいたの?」
「さぁな。……追い出された、ってやつかもしれねぇ」
「追い出されたのに、その服きれい。えらい人かと思っちゃった」
「俺は悪い大人だ。近づくと危ねぇぞ」
「ぷっ……。悪い人は自分で悪いって言わないよ」
「そういうもんか?」
「そういうもんです」
断言しやがる。
それが妙におかしくて――俺は、声が出るほど笑った。
いつぶりだ。こんなふうに笑ったのは。
「ねぇ。もしよければ、手伝ってほしいんだけど」
「水の礼なら、する」
「うん。その水汲むの、手伝って」
「ああ。力仕事なら任せろ」
少女は、少しだけ得意げに笑った。
「期待してる」
――それが、始まりだった。
荒野のはずれに小さな家があった。
派手じゃねぇ。けど、風が吹いても壊れない程度に、ちゃんとした家だ。
アイカは一人で暮らしていた。
なんで一人なのか、聞いても笑って誤魔化す。深追いすると、目が少しだけ曇る。
だから俺も、聞かなかった。
水を汲む。薪を割る。畑を手伝う。
たまに獣を追い払う。たまに一緒に飯を食う。たまに、他愛もないことで笑う。
寝室は別々。
そういう色恋沙汰は、最初から俺の頭にはなかった。
……いや、違うな。
あったら、壊れてた。
俺は“ここに居ていい”って感覚を、知らなかった。
アイカはそれを、何も言わずに、毎日くれた。
木漏れ日みてぇな温かさ。
あの子は、俺を闇から引っ張り出した。
だから、俺は壊れずに済んだ。
――神無大戦の足音が、ゆっくり近づいているとも知らずにな。
数年が過ぎたある日。
予兆は、最悪な形で来た。
「是明! しっかりして!」
アイカの声が、遠い。
俺の視界の端が、滲む。手が、半透明になっていた。
物は触れる。床の硬さも分かる。
なのに“俺”だけが、世界から剥がれ落ちていく。
……存在証明が、揺れてる。
もともと俺のは失われていた。
今の俺を繋ぎ止めてるのは、誰かの“札”だ。
長く持つはずがねぇ。分かってた。分かってたのに――。
「……よせ。俺は助からねぇ」
「バカなこと言わないで! 詳しい人がいるの。呼んでくるから、待ってて!」
アイカは走っていった。
戻ってくるまでの数時間、俺は歯を食いしばって、世界へしがみついた。
指先が、砂の粒と一緒にこぼれ落ちそうだった。
そして――現れた。
白い翼。整いすぎた笑顔。
天使族。
「やあ。僕はユラ。君が是明?」
声音は柔らかい。
柔らかいのに、目が冷たい。
獲物を見る目だ。
「……是明だ」
「ふうん。君、人じゃないよね。神族でも天使族でもない。面白いね」
「見りゃ分かるだろ」
「うん、分かる。だから聞くんだ。君は、何者?」
俺は黙った。
「まあいいさ。アイカ君にはいつも助けてもらっているからね。今日は特別に“診て”あげよう」
「助けてもらってる?」
アイカが、ほんの一瞬だけ目を逸らした。
その瞬間、胸の奥がいやに冷えた。
ユラは、俺の手に触れようとして――止めた。
「……見せて。君の存在証明」
俺は迷った。
迷って――見せてしまった。
黄金色の札。
俺の胸の奥で、淡く脈打つ“それ”。
ユラの瞳が、光った。
光り方が、嫌だった。喜びじゃない。欲だ。
あの輝きと、その奥のどす黒いもの。
俺は一生忘れねぇ。
「素晴らしい。……本当に、素晴らしい」
アイカが、悲しそうな顔をしていた。
その理由を、俺は聞けなかった。
結局、その日は俺が自分で札を出し入れしたのが功を奏したのか、揺れは収まった。
ユラは「また何かあれば相談して」と、軽く手を振って去った。
アイカは、いつもの笑顔に戻った。
だから俺は――逃げた。
“聞いてはいけない何か”から。
そのツケが、数か月後に来た。
「是明。あなたの存在証明を、安定させる方法があるらしいの」
アイカが言った。
「……誰が言った」
「ユラ」
俺の中で、警鐘が鳴った。
「都合がよすぎる。あいつ、何か見てる」
「そうね。でも……行かなきゃ」
「一緒に行く」
「うん。あなたがいれば、大丈夫」
――その“信頼”が、俺の喉を締めた。
転移陣は、今まで見たことのない文様だった。
青緑色。薄い光が層になって重なっている。
足を踏み入れた瞬間、耳の奥がきゅっと縮む。
転移先は、花が咲き乱れる場所だった。
整いすぎていて、逆に気持ちが悪い。匂いが“作られてる”。
「ここは?」
「天使族の……二区」
「二区?」
「研究区画。いろんな研究をしてるの。私も、たまに手伝ってる」
研究――ねぇ。
“世界の骨組み”をいじる連中が言う研究ほど、ろくなもんはねぇ。
俺は、確かめるように言った。
「……アイカ。お前、天使族なのか」
アイカは、ほんの少しだけ唇を噛んで頷いた。
「うん。今まで黙ってて、ごめんなさい」
「事情があるんだろ」
「……うん」
それから、やっと言った。
「私ね。生まれつき羽がないの」
「……」
「だから、羽が生える研究を手伝ってた。笑わないで」
笑えるかよ。
その願いは、切実で――痛いほど真っ直ぐだ。
「今日はね。境界線にあるって言われる植物を取りに行くの。
それがあれば、研究が劇的に進むんだって」
「境界線?」
「女神さまの天空の領域と、こっちの間にある世界……って」
俺の胸の奥が冷えた。
“女神の領域”に手を伸ばす。
その意味が分からないほど、俺は鈍くねぇ。
だけど――アイカは前を向いて歩いていた。
俺は、ついていくしかなかった。
一緒にいれば守れる。
そう思ってしまった。
……違った。
境界の地は、空気が薄かった。
光があるのに、影が濃い。
足元の草が、触れただけで嫌な音を立てる。
そして、ユラがいた。
「あはは。来たね」
「おい、ユラ……貴様」
「怖い顔だなあ。騙したって言いたいの?」
ユラは肩をすくめた。
「騙すってのは、嘘をつくことだろ?
僕は何ひとつ嘘は言ってない。全部、事実だけだよ」
その言い方が――最悪だった。
“事実”を刃にする奴の言い方だ。
嫌な音がした。
氷が割れるみたいな、乾いた音。
「……アイカ?」
アイカが、足元の結晶に触れた瞬間だった。
透明なクリスタルが、彼女の輪郭を飲み込む。
叫び声すら、途中で切れた。
「やめろォッ!!」
俺が駆け寄るより早く、クリスタルは閉じた。
中に、薄い影だけが揺れている。
「出せ! 出せよ! アイカを!!」
ユラは困ったように笑った。
「いやあ、僕も出してあげたいんだけどね。
それ、多分“女神側のトラップ”だよ」
「ふざけんな……! あいつは中で――」
「苦しんでる? そんなわけないでしょ」
「……なんだと」
ユラは、平然と言った。
「アイカは、もう死んでるよ。
取り込まれた時点で即死。君、そういうの分かるだろ?」
――息が止まった。
世界が、音を失った。
俺の中の何かが、ぶつりと切れた。
「貴様ァ……!!」
「ほらほら。君もここを離れた方がいい。
女神の逆鱗に触れたんだ。大変なことになる」
「お前のせいだろうが!」
「うん。そうだね。
さんざん調べすぎたのかも。天使の区画、消えるかもな」
笑いながら、そんなことを言う。
俺は、クリスタルに拳を叩きつけた。
硬い。びくともしない。
なのに――中の影は、確かに揺れた。
「……アイカ……!」
「諦めが悪いね。
彼女は境界線で永遠にお休みだ。ほら、君は帰れる。そこ、広範囲転移陣の上だ」
次の瞬間、眩い光。
転移が発動した。
「待て――!!」
叫びは、途中で引きちぎられた。
俺は、見知らぬ場所に放り出された。
地面が唸っている。
草花が毒を吐く。
空は飛竜で埋まっていた。
遠くから、ゴーレムの群れが迫ってくる。
雨が降った。
黒い雨だ。
生臭い空気。
肌にまとわりつく、嫌な湿り気。
世界が、もう“始まって”いる。
――これが、神無大戦。
後でそう呼ばれる地獄の、ただの“始まり”だ。
俺は立ち上がった。
拳を握りしめる。皮膚が裂けるほど。
泣く暇なんてねぇ。
叫ぶ暇もねぇ。
「アイカ……俺は、お前を必ず救い出す。絶対だ」
俺の胸の奥で、黄金の札が燃えた。
「……絶界。発動」
黄金の粒子が全身から溢れ出す。
黒い目が、金色へ染まる。
世界の圧が、ねじ伏せられる。
――燃やした。
燃やした瞬間、俺の輪郭が薄くなった。
手足が、半透明になる。
物は掴める。だが、世界に固定されてない。
……それでもいい。
今は、たった一人。
守るために、俺は全部を踏み潰す。
俺は是明。
一度、全部を捨てた。
もう何も残っていないはずだったのに――
残ってしまった。
それが、痛い。
だから。
「だから、俺は守るために見失わない……二度とだ」
◇
遠い日の出来事だ。
ただ――二度と、あんな目は見ねぇ。
俺は黒々とした空を見上げた。
もう枯れたはずなのに、頬がしずくで濡れる。
……雨だ。
そういうことにしておく。




