第3話:『孤高の才女とイノベーション』
西の森へ向かう道中、私たちの間に会話はなかった。バルガスが刻む荒々しい足音と、カイトの不安げな息遣いだけが、緊迫した空気を揺らしていた。父アルドは、私の少し後ろを、変わらず不機嫌そうな顔でついてくる。
「ユナさん、本当に大丈夫かな……セシルさん」
カイトが震える声で尋ねる。
「大丈夫よ。間に合わせる」
私は自分に言い聞かせるように答えた。私の頭の中では、ユニークスキル【経営学】が高速で回転し、限られた情報から最適解を導き出そうとしていた。
森の奥から、獣の咆哮と、微かな魔法の炸裂音が聞こえてきた。近い。
「急いで!」
視界が開けた先に、その光景はあった。
翼を傷つけられ、地面をのたうつ巨大な生物。その姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。
あれは、ただのワイバーンじゃない。鱗の色が、月光を浴びて鈍い赤銅色に輝いている。
ユナは、それがレア種である「ヴァルグ・ワイバーン」である事に気づいた。
受付嬢として、ギルドの戦力になれないまでも、何かしら貢献できないか。そう考え、日頃からモンスターの生態や弱点などの知識は独学で勉強していたのだ。
その知識が、警鐘を鳴らす。
「まずい……!」
通常種のワイバーンは、強靭な爪と尻尾、そして滑空による突進が主な攻撃手段だ。だが、ヴァルグ・ワイバーンは違う。
案の定、ワイバーンが大きく息を吸い込み、その口から灼熱の炎が放射された。
「きゃあっ!」
セシルの張った魔法障壁が、炎に焼かれて激しくきしむ。
通常ワイバーンは炎を吐かないが、ヴァルグ・ワイバーンは別だ。セシルも経験豊かな魔法使いだが、炎を吐くワイバーンとの戦闘は初めてだったのだろう。だから、彼女が得意とする中距離での詠唱という戦闘距離を見誤ったのだ。
「セシル! 聞こえる!? 一度こちらまで後退して!」
私の声に、セシルは一瞬こちらを向いた。その顔は、屈辱と焦りで歪んでいた。
「……余計な、お世話よ! 私一人で……!」
強がる彼女の言葉が終わる前に、ワイバーンが巨大な尻尾を薙ぎ払った。炎で消耗していた魔法障壁がガラスのように砕け散り、セシルの華奢な体が木の幹に叩きつけられる。
「ぐっ……ぁ……!」
倒れた彼女に、ワイバーンがとどめを刺そうと牙を剥いた。
「今よ、バルガス!」
「うおおおおお!」
バルガスが突進し、ワイバーンの側面から戦斧を叩きつける。ワイバーンは体勢を崩し、その隙にカイトがセシルを抱えて駆け戻ってきた。
「くそっ、なんて硬えんだ!」
バルガスの一撃は致命傷には至らず、怒り狂ったワイバーンが彼に襲いかかる。
「バルガス、引いて! 隊列を立て直すわ!」
私たちは一旦距離を取り、倒れ込むセシルを囲んだ。彼女は悔しそうに唇を噛み、俯いている。
「なぜ……私の魔法が……」
「相手が特殊個体だったからよ。あなたの経験不足じゃない。これは予測不能な事故。でも、だからこそ、やり方を変える必要があるの」
私は冷静に告げた。「行き詰まった時は、『イノベーション』を起こすのよ」
「イノベーション……?」
「そう。既存のやり方では通用しない相手なら、新しい結合、新しい視点を持ち込むことで、現状を打破するの。私たちのイノベーションは、これよ」
私はバルガスとセシルを指差した。
「バルガスが徹底的にセシルを守る。セシルは防御を捨て、詠唱に全神経を集中させる。バルガスが『盾』となり、セシルが『矛』となる。二人で一つの、完璧な魔法砲台を創り上げるの」
私の提案に、セシルは顔を上げた。その目は、反発の色を浮かべていた。
「……馬鹿にしないで。私が、こんな脳筋ドワーフに守られるですって? 私のプライドが許さないわ!」
「そうだそうだ! 俺の役目は敵をぶっ飛ばすことで、誰かの盾になることじゃねえ!」
バルガスも不満げに唸る。やはり、そう簡単にはいかない。個人のプライドと成功体験は、時に組織にとって最も強固な壁となる。
どうすれば、彼女たちの心を動かせるか。
私が言葉を探していると、それまで黙って戦況を見ていた父アルドが、静かに口を開いた。
「――昔、俺の仲間も、同じミスで死にかけた」
その声には、いつものような刺々しさはなかった。ただ、深い悔恨の色が滲んでいた。私たちは皆、言葉を失い、父の顔を見つめた。
「そいつは、王国一の賢者だった。どんな魔法も使いこなし、俺の背中を何度も守ってくれた。だが、魔王軍との戦いで、奴は自分の力を過信した。仲間の援護を待たず、たった一人で敵の将軍に大魔法を仕掛け……詠唱中に、背後から槍で貫かれた」
父は、遠い目をして続けた。
「幸い、最高の治癒術師がいたおかげで一命は取り留めたがな。だが、その時のあいつの顔を、俺は忘れん。自分のプライドが、仲間を危険に晒したことを悔いる顔だった」
父の視線が、セシルを真っ直ぐに捉える。
「お嬢ちゃん。プライドは、自分の力を磨くためには必要だ。だがな、仲間を信じられねえプライドなんざ、クソの役にも立たん。そんなもんは、ただの独りよがりだ」
父の言葉は、重かった。
それは、数多の死線を潜り抜け、仲間の死も経験してきたであろう、元英雄の言葉の重みだった。
セシルは、何も言い返せなかった。彼女の震える唇が、そのプライドと葛藤を物語っている。やがて、彼女は顔を上げ、絞り出すように言った。
「……分かったわ。一度だけ……試してあげる」
隣で、バルガスも「大将がそう言うなら……」と、ぶっきらぼうに頷いた。
心が、繋がった。
私は確信した。「よし、行くわよ!」
「バルガス、前へ! セシルの盾となれ!」
「おう!」
バルガスは雄叫びを上げ、ヴァルグ・ワイバーンの前に立ちはだかる。その巨大な体は、まさに鉄壁の要塞だった。
「セシル、詠唱開始!」
「ええ!」
セシルはバルガスの背後で、魔力を高め始めた。彼女の周りに、青白い光の粒子が集まっていく。
ワイバーンが再び炎のブレスを吐く。
「させん!」
バルガスは巨大な戦斧を盾のように構え、そのブレスを真っ向から受け止めた。凄まじい熱と衝撃に、彼の足が地面にめり込む。だが、彼は一歩も引かなかった。
「まだか、セシル!」
「もうすぐよ! 私の最大最強の魔法……『アーク・サンダー』を見せてあげる!」
セシルの魔力が、臨界点に達しようとしていた。
作戦は、完璧にハマるはずだった。
その時だった。
背後の森から、もう一つの影が、凄まじい速さで飛び出してきたのだ。
「!!」
誰もが息を呑んだ。それは、先程のワイバーンよりも一回り大きい、もう一体のヴァルグ・ワイバーン。つがいだったのだ。私たちのデータにはない、完全な不確定要素。
二体目のワイバーンは、詠唱中で無防備なセシルと、彼女を守るバルガスに狙いを定めていた。
「まずい!」
カイトが悲鳴を上げる。私が反応するより早く、ワイバーンの鋭い爪が振り下ろされる。
もう、間に合わない。
誰もが、絶望に目を見開いた、その瞬間。
ヒュッ、と空気を切り裂く鋭い音が響いた。
一本の矢が、夜を駆ける流星のように飛び、寸分の狂いもなく、ワイバーンの右目を正確に射抜いたのだ。
「ギィヤアアアアアアアア!!」
ワイバーンは苦痛の叫びを上げ、もんどりうって地面に倒れる。
私たちは、呆然とその矢が飛んできた方向を見た。
森の木々が月光に照らされる中、一本の樫の木の上、その枝に、しなやかな人影が立っていた。銀色の髪を夜風になびかせ、手には美しい流線型の弓。尖った耳は、彼女がエルフであることを示している。
その顔を、私は知っていた。幼い頃、私を可愛がってくれた、父のかつての仲間。
皮肉屋で、誰よりも誇り高い、王国一の弓使い。
「……リアナ」
父が、絞り出すようにその名を呼んだ。
彼女は私たちを一瞥すると、ふん、と美しく整った鼻を鳴らした。
「相変わらずね、アルド。あんたのギルドは、見ていて反吐が出るわ」