2話:『臆病者のマーケティング』
「な、なんで僕なんだよぉ!」
カイトの情けない悲鳴が、まだギルドの梁にこだましていた。当の本人は尻尾を股の間に挟み、カウンターの隅でがたがた震えている。無理もない。ギルドの誰もが「お荷物」と認識している彼を、私が最初の「課題」として指名したのだから。
「正気か、ユナ。こいつを戦力化するだと? ゴブリンを見ただけで逃げ出す奴だぞ」
呆れ果てたように言うのは、重戦士のバルガスだ。その横で、魔法使いのセシルも冷ややかに腕を組んでいる。
「時間の無駄ね。彼にできることなんて、せいぜい酒場の掃除くらいでしょう」
父アルドは、何も言わずに私を見ていた。その目には侮蔑と、ほんの少しの好奇心が混じっているように見えた。試しているのだ。私の「ままごと」が、どこまで続くのかを。
私は臆さなかった。前世の記憶と共にある【経営学】の知識が、私の頭脳をかつてないほど明晰にしていた。
「お父さん、バルガス、セシル。あなたたちは大きな勘違いをしているわ」
私はまっすぐにカイトを見据えた。彼はびくりと肩を震わせ、さらに小さくなる。
「あなたたちはカイトの『弱み』ばかりを見ている。臆病で、戦闘が苦手で、すぐに逃げ出す。でも、『マネジメント』の父、ピーター・ドラッカーはこう言っているわ。『人の弱みからは何も生まれない。成果を上げるには、人の強み、すなわち、その人が持つ特定の能力を、企業の業績に結びつけなければならない』と」
「どらっかー……? どこのドワーフだ、そりゃ」
バルガスが首を傾げる。異世界に存在しない名前だ、当然の反応だろう。私は構わず続けた。
「つまり、組織の資産は『人の強み』だけ。カイトの弱みを嘆いても、一文の得にもならない。私たちが注目すべきは、彼が持つ『強み』なのよ」
「はっ、こいつに強みだと? 寝言は寝て言え」
セシルが鼻で笑う。
私は彼女に向き直った。「あるわ。誰にも真似できない、卓越した強みがね」
私はカイトの元へ歩み寄り、震える彼の肩に手を置いた。
「カイト、あなたの強みは『臆病さ』よ」
「……は?」
カイトだけではない。ギルドにいた全員が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「臆病だから、誰よりも先に危険を察知できる。臆病だから、絶対に無茶をしない。臆病だから、常に最悪の事態を想定して、安全な逃げ道を探している。違う?」
私の言葉に、カイトはこくこくと頷いた。
「それは『臆病』じゃない。卓越した『リスク管理能力』よ。あなたはその獣人の耳と鼻で、私たち人間には感知できない微かな音や匂いを捉え、危険を予測する。それを戦闘に活かせないと思い込んでいるだけ。あなたは戦士じゃない。あなたは、私たちの目であり、耳。――最高の『斥候』よ」
私の言葉に、カイトの大きな目が、驚きに見開かれていく。今まで誰からも指摘されたことのない、自分自身の価値。
私は彼の目を見て、はっきりと宣言した。
「次のクエスト、斥候部隊のリーダーは、あなたに任せるわ」
「む、むりむりむり! リーダーなんて絶対無理だよ!」
カイトはぶんぶんと首を振る。だが、その声には先程までの絶望の色はなかった。ほんの少しだけ、戸惑いと期待が混じっている。
これが『マーケティング』の第一歩だ。マーケティングとは、単にモノを売ることではない。顧客自身も気づいていないニーズを掘り起こし、価値を定義し、提供すること。今、私の「顧客」はカイトだ。彼自身に、彼の価値を理解させなければならない。
「大丈夫。あなたに戦えなんて言わない。あなたの仕事は、戦う前に、戦いを終わらせること。そのための作戦は、私が立てる」
私は自信を持って胸を張った。
***
翌日、私はギルドの作戦ボードの前に立っていた。依頼は「東の森に出没するゴブリンの群れの討伐」。何度もギルドが挑戦し、そのたびにバルガスが罠にかかったり、カイトが逃げ出したりして失敗している、因縁の依頼だ。
作戦ボードには、私が徹夜で書き上げた東の森の詳細な地図が貼られている。川の流れ、崖の位置、獣道、そして過去の失敗報告書から割り出したゴブリンの巣や罠の位置。これこそが、前世で培った「データ分析」のスキルだった。
「まず、私たちの『事業目標』を再定義するわ。今回の目標は『ゴブリンの殲滅』ではない。――『メンバーの誰一人、傷を負うことなく、依頼を達成すること』よ」
私はメンバーを見渡した。バルガス、セシル、そしてリーダーに任命されておどおどしているカイト。父は少し離れた場所で、腕を組みながら壁にもたれてこちらの様子を窺っている。
「そのために、カイト。あなたの力が不可欠なの」
私は地図の一点を指差した。
「あなたの報告によれば、ゴブリンの巣の北側には、沼地が広がっている。そして、風はこちらから吹いている。あなたは風上から巣に接近し、絶対に姿を見せずに、ゴブリンの正確な数、リーダーの位置、武器の状況を報告する。これがあなたの唯一の仕事。戦闘には一切参加しなくていい」
「ほ、本当にそれだけでいいの……?」
「ええ。ただし、あなたの報告が間違っていれば、私たち全員が死ぬ。それくらいの責任がある仕事よ」
私の言葉に、カイトはごくりと唾を飲んだ。彼が初めて「責任」という言葉をポジティブな意味で受け止めた瞬間だった。
「次に、バルガス」
「おう!」
「あなたは単純な力押しで突っ込むから罠にかかるの。今回は、私の合図があるまで絶対に動かないで。あなたの仕事は、この崖の上から大岩を落とすこと。いい? 一発だけよ」
「た、確かにそれなら罠の心配はねえが……」
「そして、セシル」
「何よ」
「あなたのプライドを傷つけるかもしれないけど、聞いて。あなたの詠唱は長すぎる。でも、その威力は本物。だから、今回は奇襲を許さない完璧なポジションを用意したわ。バルガスが岩を落とした後、混乱したゴブリンたちがこの狭い谷を通って逃げる。そこを、あなたの最大火力魔法『ファイアストーム』で一網打尽にする」
私の説明に、セシルは目を見開いた。
「……面白い。私の魔法を最大限に活かすためだけの布陣。気に入ったわ」
プライドの高い彼女は、自分の能力が正当に評価され、最大限に活かされる状況を、誰よりも好む。これもまた、マーケティングだ。
「いい? これは個人の武勇伝じゃない。それぞれの『強み』を活かして、一つの成果を出すための『組織戦』よ。作戦の成否は、斥候リーダーであるカイトの報告の正確さに懸かっている」
全員の視線が、カイトに集まる。
彼はプレッシャーに顔を青くしながらも、しかし、その目には今まで見たことのない決意の光が宿っていた。彼は小さく、しかしはっきりと頷いた。
***
東の森は、湿った土と腐葉土の匂いがした。
作戦通り、カイトが一人、獣のように気配を消して森の奥へと消えていく。残された私たちは、息を殺して待機場所で待つ。バルガスはそわそわと巨大な岩に手をかけ、セシルは目を閉じて魔力の集中を高めていた。
時間が、やけに長く感じられる。
父は何も言わない。だが、その視線が何度も森の奥に向けられているのが分かった。彼もまた、内心ではこの作戦の成否を気にしているのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、茂みがカサリと揺れ、カイトが転がり込むように姿を現した。彼の目は興奮に見開かれ、息を切らしている。
「ゆ、ユナさん! 報告通り! ゴブリンは全部で15匹! リーダーは棍棒を持ったデカいやつで、巣の入り口にいる! 罠は全部で3箇所、僕の作った地図の通りだった!」
その報告は、私が今まで聞いた彼のどの言葉よりも、明瞭で、力強かった。
「よくやったわ、カイト! 最高の情報よ!」
私はカイトの肩を叩き、すぐに指示を飛ばす。
「バルガス、今よ!」
「おう、任せろォ!」
バルガスの雄叫びと共に、轟音を立てて大岩が崖から転がり落ち、ゴブリンの巣の入り口付近を直撃した。森中に響き渡るゴブリンたちの混乱した叫び声。
「来るわ! セシル、準備!」
「言われなくても!」
狙い通り、混乱したゴブリンの群れが、唯一の逃げ道である狭い谷へと殺到する。その光景は、まるでデータが予測した通りの結果だった。
「今! 撃ちなさい(ファイア)!」
セシルの両手から、灼熱の渦が解き放たれる。
「燃え尽きなさい、愚かな緑の皮ども! ファイアストーーーム!」
業火が谷を舐め尽くし、ゴブリンたちの悲鳴が熱風と共に掻き消えていく。数秒後、そこには黒く焦げた大地と、いくつかの遺体が転がっているだけだった。
しん、と静まり返った森。
私たちは、誰一人、傷を負っていない。
バルガスが呆然と谷を見下ろし、セシルは満足げに息をついた。そしてカイトは、信じられないといった顔で、自分の手を見つめている。
「……僕が……僕の報告が、みんなを勝たせた……?」
「そうよ」
私は彼の隣に立ち、頷いた。「あなたが、この勝利の立役者よ、リーダー」
その言葉に、カイトの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、恐怖の涙ではなかった。
初めての成功。初めての仲間からの信頼。初めて感じた、自分自身の価値。
その全てが、彼を臆病者の呪縛から解き放ったのだ。
ギルドに戻ると、私たちは英雄のような出迎えを受けた。いや、実際、今まで失敗続きだった依頼を、無傷で達成したのだから英雄だ。バルガスはカイトの肩をばんばん叩き、セシルも「まあ、今日の索敵は及第点をあげてもいいわ」と、彼女なりの最大限の賛辞を贈った。カイトは照れくさそうに、しかし誇らしげに胸を張っている。
私はカウンターに寄りかかって、その光景を眺めていた。
これが、組織が変わるということ。一人ひとりの強みが噛み合った時、1+1+1が、3ではなく、10にも100にもなる。その可能性の輝きに、私は胸が高鳴るのを抑えられなかった。
ふと視線を感じて顔を上げると、カウンターの隅で、父アルドが静かにこちらを見ていた。
その目は、もう私を「ままごとをする娘」としては見ていなかった。何かを問いかけるような、複雑な色を浮かべている。
私は彼に向かって、小さく微笑んでみせた。
私のマネジメントは、まだ始まったばかりだ、とでも言うように。
その日の祝勝会は、久しぶりにギルドに昔のような活気を取り戻した。
***
数日が過ぎた。
ゴブリン討伐の成功は、ギルドに小さな、しかし確かな変化をもたらした。カイトは以前より自信を持って行動するようになり、バルガスも少しだけ頭を使って動くことを覚え始めた。
だが、一人だけ、その変化に馴染めない者がいた。セシルだ。
彼女は、チームでの成功に満足していなかった。「私の魔法があれば、あんな回りくどいことをしなくても勝てたはず」と、まだ自分の力を過信していたのだ。私たちの成功が、逆に彼女のプライドを刺激してしまったのかもしれない。
「本当の実力者は、一人でも勝てるものよ」
そう言い残し、彼女はここ数日、単独で難易度の高いクエストを受けては、一人で解決して帰ってくる、ということを繰り返していた。その危うさに、私は漠然とした不安を感じていた。
その日も、セシルは早朝から一人でギルドを出て行った。受付の掲示板から、高難易度とされる「西の森のワイバーン調査」の依頼書を剥ぎ取っていくのを、私は見ていた。
嫌な予感がする。
私がその不安を父に告げようとした、その時だった。
ギルドの扉が、壊れんばかりの勢いで開かれた。
血相を変えた依頼受付の職員が、転がり込んでくる。
「大変だ! 緊急依頼! 西の森でワイバーンが暴れている! 討伐に向かった冒険者が返り討ちに遭ったらしい!」
ギルドにいた全員が息を呑む。
私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。まさか。
職員はぜえぜえと息を切らしながら、続けた。
「目撃者の話では、返り討ちに遭ったのは、派手なローブを着た若い女の魔法使いだそうだ! 今も森の奥で、ワイバーンに追い詰められていると!」
間違いない。セシルだ。
ギルドの空気が一瞬で凍りついた。カイトは顔を真っ青にし、バルガスは「あのバカ!」と拳を握りしめる。
小さな成功に浮かれていた私たちに突きつけられた、厳しい現実。本当の強敵を前に、個人の力がいかに無力かという証明だった。
父アルドが、重い口を開いた。
「だから言ったはずだ。小細工だけでは、本物の強敵には通じん、と」
その声は、ギルドに芽生え始めたばかりの希望の芽を、無慈悲に踏み潰すのに十分な響きを持っていた。しかし、私はもう絶望しなかった。
「小細工じゃないわ」
私は父を睨みつけた。「これは『マネジメント』よ。そして、仲間がピンチの時に助けに行くのが、ギルドという『組織』でしょう!」
私は作戦ボードに向き直る。
「今すぐ、セシルの救出作戦を立てるわ!」
私の宣言に、戸惑っていたカイトとバルガスの目に、再び光が宿った。
父は、そんな私を苦々しい顔で見つめていた。