第7話「発動」
……陛下…」
セーナが朧気の中、呟く。
倒れようとしたとき、ゼラが支える。
その腕はとても広く、暖かった。
「ネイアス、どう出る」
巨大ネイアスが身をよじりながら吠える。
咆哮は空気を震わせ、凄まじい威圧感を放つ。
それと同時に、姿が変わった。
全身が黒く滲み、火花を吐いて散っていく。
亀裂のような断層が重なり続け、鎧へと変化する。
歪みを纏ったその巨体は、もはや”兵器”の域を超えていた。あまりにも異質で異様な姿へ変貌する。
だが、その怪物の前に立つ男の姿は揺るがなかった。
「…適応したのか、厄介だな」
ゼラの声は低く、しかし獰猛な笑みを孕んでいた。
「一閃・葬弾」
純粋な魔力を圧縮した歪んだ弾丸。
眩い白銀の輝きを放ち、ネイアスの鎧を貫通する。
貫通した傍から鎧を蝕むような魔力の流れが可視化される。
咆哮を上げ、ネイアスは大地へ倒れ込む。
砂埃と、黒い塵が空に舞う。
地響きはゼラを揺らすが、それ以上のことはしなかった。
だが――立ち上がる。
その身に受けたはずの傷が即座に修復されていく。
「まだ立つか、怪物め」
「ならば、それ以上を見せるまでだ」
再び構えを取る。地を滑るように放たれる。
その異名――ガラクシアの弾丸は、全てを壊さんとする勢いで。
その様子をアリエスはぼんやりと眺めていた。
他人事のようにただ、見ている。
燃える空、傷だらけの大地、全部が灰色に見えた。
「………私が、やらなきゃ…」
低く呟く。揺れたまま。
虚ろな瞳の奥には確かな祈りがあった。
自分の中にある力が願った「消えて」と。
熾烈な戦闘を繰り広げる戦場を見渡す。
遠くから聴こえる怒号、叫び、爆発音。
「――再び祈れば、鍵は応えます」
誰かの声が耳の奥に響いた。聞いた事のあるような、無機質で、どこか穏やかな声。
重たい身体を動かす。
視界を覆っていた霧は晴れ始める。
強い意志と、確かな祈りが彼女の中に再び灯る。
手のひらに汗が滲んだ。
ただ、願う――「終わって」と。
心の底から、そう願った瞬間。
鍵が応える。
赤い光が空へと伸びる。
その光は魔力の奔流ではなく、何かに語るような言葉だった。
戦場にいた誰もが目にし、誰もがそう思った。
「…なんだこの光は…ネイアス…ではないな」
ゼラが振り向く。
赤い光の軌跡には、彼女、アリエスが立っている。
両手で鍵を握る姿はゼラの瞳に映る。
「…綺麗だな」
無数にいるネイアス達の動きが、同時に止まった。
時間の流れが無くなったように、ピタリと。
そして天を仰ぐ。
――二回目の発動。それを起点に星環システムは目を覚ます。
次第にネイアスがゆっくりと崩壊し始めた。
銀の塵へ変わり、消え去る。
ただ、静かに。
風が吹くように。
朝露が陽に溶けるように。
彼らは”消え去る”。
戦場にいたすべての者が、言葉を失った。
魔法でも、兵器でもない。
この世界のどんな現象にも似ていない、“終わり方”。
それは、破壊ではなく――解放だった。
命令から。
存在から。
巨大ネイアスもまた、最後に一度、虚空を見つめるように動いた。まるで、“理解した”かのように。
そして、完全に――静かに、消えた。
残されたのは、赤い鍵の光と、立ち尽くす少女。
その体がふらりと揺れる。
アリエスは消えゆくネイアスを眺めると、膝をつき、その場に倒れ込んだ。
◇
――数日後。
帝都ガラクシア。中心区、中央広場にある巨大なスクリーンから軍による特別声明の放送を流していた。
《先日未明、北方防衛拠点にて未知の存在との大規模戦闘が発生。ゼラ・カーディナル・バレット陛下の指揮のもと、これを制圧。現時点での被害状況および脅威の正体については調査中――》
機械的な女性の声が淡々と状況を読み上げる。
スクリーンの前では、人々が立ち尽くしていた。
誰もがその場を離れようとせず、ただ映像を見つめていた。
兵士たちが地に伏す姿。崩壊した都市の一角。降り注ぐ銀色の光。断片的に映し出された戦場の記録は、見る者すべての胸に“現実”として突き刺さった。
「……あれが、敵なのか?」
「なんだよ、これ……」
ざわつきが広がっていく。
“ネイアス”という名が市民の間で囁かれ始める。
だがその正体を知る者はいない。
何故か、赤い鍵を持った“少女”の存在だけが噂の中心にあった。
「彼女が、倒したんだってさ」
「違うよ、あれは皇帝陛下の力で――」
「でも最後に、赤い光が全部を……」
憧れ。恐れ。羨望。疑念。
”鍵の少女”という存在は静かに、しかし確実に帝国中に広がっていた。
◇
分厚い扉の向こう。
重々しい空気が漂う。
長い机の上には資料が束となっていた。
左右には、帝国五星団の団長たち。そして、その後方には軍法局、情報局、議会代表など、名前も顔も知らぬ“上層部”が並ぶ。
ただ、沈黙と視線が、序列を物語っていた。
ゼラは視線を巡らせ、低く静かな声で口を開く。
「……戦闘は終結した。だが、問題はここからだ」
その言葉を皮切りに、会議が始まる。
「鍵による現象、あれは魔法か技術か、それとも――神話か?」
最初に発したのは、情報局直属の無名の男だった。
顔色も声音も読み取れないその声にセリカが答える。
「断定は不可能です。解析部の見解では、現象そのものは物理法則の枠を超えている。魔力反応としても記録されていません」
「反魔力領域のような効果か?」
「それとも、魔力そのものの“概念”を改変する作用なのでは――」
別の軍科学顧問が囁くが、言葉は打ち切られた。
「推測に意味はない」
重く響いたのは、ガルナの声だった。
「問題は“何が起きたか”ではなく、あれを再び使えるかどうか。そして、それを誰が制御できるか、だ」
「それこそが恐ろしいのです、団長」
今度は議会側の初老の男が言う。
「制御不能のまま兵器を保有することが、どれほどの外交的緊張を招くか、想像に難くない。すでに東方連邦が動き出しているという情報もある」
「ならば、力を手放せというのか?」
アストルが軽く口角を上げる。
「人類史における“奇跡”だぞ? 発動条件も目的も不明。それでも、一度きりとは思えない。ならば観測し、制御し、備える。それが軍の務めだろう?」
「観測と言いながら、君の部隊は先日も接触を試みようとしたのでは?」
とがめるような口調で言ったのは、第二星団団長・カリスト。
「そのような軽挙は、鍵保持者を暴発させかねない。冷静さを欠いた行動は慎むべきだ」
「はは、慎重派のカリストが言うと重いな。俺の連中は少し気が早かっただけだ」
アストルは肩をすくめて言う。
空気にざらつきが生まれたその瞬間、ゼラが手を上げて全てを制した。
「――彼女をどう扱うか。その一点に絞れ」
団長たちが静まる。
ゼラは視線を巡らせ、最後にアルメリアを見つめる。
「アルメリア。お前はどう見る」
わずかに姿勢を正すと、落ち着いた声で応えた。
「彼女は、戦場での行動から見て、判断能力を保っています。暴走の兆候はありません。鍵は偶発的に発動しており、本人が望んで使ったわけではない。ですが……」
言葉を一つ置いて、続ける。
「次に“何を願うか”は、彼女自身にもまだ分かっていません。だからこそ、制御より先に“理解”が必要です」
「ならば、監視の下で教育と記録を進めると?」
「ええ、彼女は道具ではない。ただ、放置すれば他国の標的にもなりうる。帝国の責任として、我々が彼女を守るべきです」
静かに、しかし強くそう言い切った。
それを受け、無言だった第五星団以外の団長たちが、目を伏せるように頷く。
議会の一人が渋い顔で言った。
「“守る”のか、“監視する”のか……皮肉なことだ。だが、いずれにせよ、彼女はもはや“ただの兵士”ではない。国の中枢が動いた以上、責任を取るのは皇帝陛下、あなたです」
その視線を受け止め、ゼラは短く言う。
「我が名において、決定とする。アリエス・ティーガーデンの軍務を一時離脱させ、アルメリア・サジタリスの監督下に置く。彼女の観察、保護、対話、すべてを託す」
「……畏まりました」
アルメリアは、静かに頭を下げた。
それは命令としてだけでなく、ひとつの“誓い”のように響いた。
◇
草が、風に揺れていた。
帝都の喧騒から離れた高原地帯。澄んだ空には雲ひとつなく、春の陽射しが、遠くの山の稜線を金色に染めている。
その中を、二人の影が並んで歩いていた。
アリエスは、軍の制服ではない薄手の外套を羽織っていた。胸元には赤い鍵が吊るされている。光はなく、けれど存在感だけは消えていなかった。
隣を歩くのはアルメリア・サジタリス。
厳格な軍服ではなく、風に馴染む落ち着いた衣装に身を包んでいたが、その佇まいからは歴戦の風格が滲み出ていた。
けれど、その眼差しにはどこか柔らかな温度がある。
「……風、冷たくないですね」
アリエスがぽつりと呟く。
「ええ、春の風ってこういうものよ。少しだけ肌寒くて、それでもどこか優しい」
アルメリアは微笑を浮かべたまま、まっすぐ前を見て歩いていた。空には鳥が群れを成して飛んでいる。
アリエスは視線を落とし、足元の草を避けながら歩く。
「……ここ、昔は訓練場だったって聞きました」
「ええ、そうね。私がまだ若かった頃……って言っても、何十年も前の話だけど」
彼女はわずかに笑った。
「いろんな人が、ここで汗を流して、夢を見て、それから――戦いに出て行ったわ」
アリエスは、黙って聞いていた。
沈黙を破るように、アルメリアが言う。
「怖かったんでしょ?――あの時」
アリエスは、はっとして顔を上げた。
問いではなかった。断定でもなく、ただ“知っている”者の声だった。
「……はい。すごく、怖かったです。誰かが死ぬって思って……私も、誰かを……」
「だから、力を使った。それでいいのよ」
アルメリアの声には、責める色も、驚きもなかった。
「恐怖ってのはね、自分を守るだけのものじゃないの。誰かを守るための動機にもなるのよ。大事なのは、そのあと」
「そのあと……?」
「怖さを覚えた自分を、否定しないこと。受け入れて、次にどうするかを選ぶこと。そこを間違えなければ、大丈夫よ」
アリエスは言葉を失い、ただ立ち止まった。
「……私、何も分かってないのに……選ばれたんです。こんな鍵なんて、私みたいなのじゃなくて、もっと……ちゃんとした人が……」
「みんな言うのよ。“自分はふさわしくない”って」
アルメリアは、空を見上げながら言った。
「でもね、そう思える人間にしか、“何か”を託すことなんてできないの。自分を疑える人間のほうが、ずっと強いわ」
目に風が当たって涙がにじんだ。
アルメリアは彼女の横に立ち、少し顔を傾けて、静かに言う。
「だから、自分が何者か分からなくなったら、焦らないことね。ゆっくりでいいのよ。答えなんて、今すぐ出るものじゃないんだから」
風が、草原を渡っていく。
どこまでも広く、どこまでも穏やかな、青と緑の世界だった。
アリエスは少しだけ微笑んで、目元を指で拭った。
「……ありがとうございます、アルメリアさん」
「お礼なんていいのよ。私はただの年寄りなだけ」
冗談めかしたその言葉に、アリエスはふっと笑った。
そして二人は、また歩き出す。
高原の風は、まだ少しだけ肌寒くて――それでも、暖かった。