第六話「旋律」
銀の光が、空から降っていた。
それは雨でも、雷でもなかった。
無数の閃光が天を裂き、地を穿ち、世界そのものが悲鳴を上げている。
高空を割って現れた巨大な裂け目――その奥から、無数のネイアスが放たれていた。
「っ、セーナ後ろ!」
「援護する!」
緊迫した声が交差する。
アリエスは走り、振り向きざまに魔法を放った。
蒼い光が尾を引いて飛び、ネイアスの左肩を撃ち抜く。
だがそれは怯まない。
銀の殻をまとった異形は、まるで生きた兵器のように、命令だけをなぞるように迫ってくる。
「こいつら……前より、鈍いか?」
バランの声が聞こえた。確かにそうだった。
数は多い。脅威は大きい。だが、どこか違う。
前に見たネイアスとは、“密度”が違うように感じられた。
不気味な静寂。
次の波が来る。その空気が張り詰めるなか――
空が染まった。
「……え?」
銀の空に一点。
赤い輝きが落ちている。
それは火球でも、爆発でもない。
──赤い星。
まるで詩に読まれていた”それ”を彷彿とさせる。
巨大で、異質で、美しい。
けれど胸の奥に刺さるような違和感を纏っていた。
次の瞬間、赤く爆ぜる。
風が巻き上がり、大地が震える。
兵たちが一斉に怯むなか中、ただ、アリエスだけが──引き寄せられるように、その場所へ向かっていた。
赤い星の中心。
割れた外殻の中で、何かが赤く光っていた。
それは”鍵”だった。
見た瞬間そうだと分かるように、”鍵”だった。
意味も、用途も、名前さえ知らないのに──それは、”私のための物だと”感じる。
赤い鍵が光を放つ。
世界が音をひとつ立てて止まる。
◇
静寂があった。
音は無い。
可聴域を超えた”何か”だけが空間全体に微細な振動を与えている。
現実でも夢でもない曖昧な場所。
明滅する粒子のような光が、断続的に浮かんでは消えるを繰り返す。
「観測地点A─10、起動確認」
「意識座標、出現──受理」
人と機械が入り交じったような声が、空間に滲む。
それと同時に、二つの影が現れる。
白と黒、蜃気楼のように揺らめくその輪郭は、人の形をしていた。
──私は。
「スペキュラ」
「ノーティア」
同時に声が重なる。
「観測者、あるいは記録者。または貴方の祈り」
「ここは”狭間”。終わりと始まりの隙間。
まだ名前を持たない物語の”余白”」
私は声を失っていた。
そして、その声は頭の中に直接届くように響く。
「貴方の祈りが観測されました」
「星が反応し、鍵が生成され、貴方の存在座標が接続されました」
「ただいま、これより、直ちに進行を開始します」
白と黒の人の影が消える。
そして浮かび上がった巨大な星図。
空間を覆うほどの、とても綺麗で美しい星の図。
その中央には”無限”の記号が刻まれていた。
「星環システム。一万年ごとの再起動。
今は節目となる一億年のサイクル。第99999999のサイクル。異常発生中」
「貴方はその”ズレ”を許容しない者」
「それ故に、ここへ接続されたのでしょう」
──問われる。
「貴方は”終わり”を拒みますか?」
その問いの意味を、理解出来なかった。
でも答えなければいけない気がした。
だが、答える前に光が揺れる。
一閃の煌めきと共に、細かい粒子の光と共に。
──空間が弾けた。
「接続強制解除。観測、続行──再起動、保留」
「私たちは、ずっと、ここで、見ています。
──アリエス・ティーガーデン」
◇
「アリエスッ!!」
意識が戻る
声が届く。
風が当たる。
時間が動き出す。
赤い鍵はまだ、手の中にあった。
前方すぐにネイアスが佇む。
跳躍し迫る──その瞬間、時間がひとつ、脈打ったように歪んだ。
アリエスは身構え──なかった。
避けようともしなかった。
ただ、手の中にある”鍵”を握っていた。
それだけだった。
ネイアスの動きが突然止まる。
まるで糸を断たれた操り人形のように、空中でその身を硬直させる。風が止み、音が遠のいた。
世界の一部だけが、霧がかかるみたいに静寂に包まれる。
アリエスとネイアスの瞳が交わる。
意識など宿していないはずの存在。
だが、その瞬間だけは違った。
ネイアスは確かに”見ていた”。
彼女を、鍵を、その奥にある”何か”を。
赤い光が鍵の中心から、灯火のように揺らぎとなる。
焔でも、光線でもない。
ただの存在の波。
それがネイアスの”核”に触れた。
ネイアスはアリエスをじっと見つめたまま、やがて音もなく崩れ落ちた。機械でも生物でもない、形を失った霧のように、砂のように消え去る。
何も、言わなかった。
何も、叫ばなかった。
ただ止まって、消えた。
周囲の空気が、まだ戻ってこない。
風の音も、魔法の轟きも、どこか遠くに追いやられたまま──静かなままだった。
「……今、何が……?」
バランが、息を呑むように呟いた。
アリエスは自分が何をしたのか分かっていなかった。
鍵を握ったまま、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
彼女の周囲だけが、未だ“世界の外側”にあるようだった。
赤い鍵の波紋が消えてもなお、空気は震えている。
誰もが言葉を失っていた。
「おい!アリエス!しっかりしろ!」
バランが強く肩を掴み、声を掛ける。
それでもアリエスはただ立ち尽くしたまま。
彼女の瞳には今、何が”映っている”のだろうか。
「バン!障壁をアリエスに貼ってくれ!」
「もちろん、今するよ…!」
バンの魔法障壁が展開される。と同時に大地が鳴った。
遠くでは無い。
視界の奥、崩れた瓦礫の先。
ゆっくりと影が立ち上がる。
”それは”最初からそこにいたのだ。
ただ、あまりに異質すぎて誰の目にも映らなかっただけ。
今までとは比べ物にならない程、巨体のネイアス。
その巨体から成される外骨格は、黒く、硬質で、鋭く光を反射する。角のような突起、背部に広がる刃のような構造。
まるで“処刑の機械”のような異様な姿。
巨大ネイアスが静かに顔を上げる。
次の瞬間――。
閃光が走る。
それは、”ゼラが放った魔法”と酷似した攻撃だった。
高出力の一閃の魔法。
それを”模倣”して放った。
「おいおいおいおい…!やべぇの来るぞ!」
バランが叫ぶ。
「バラン!アリエスを抱えてこちらへ突っ走れッ!」
バンの隣に並んで立つイドラ。
共に魔法障壁を張る。
バランは躊躇わずにアリエスを背負い、一目散に駆け出す。
ネイアスの攻撃が障壁を叩きつける。
衝撃音、魔力が軋む音。
「セーナ!バンに強化魔法を!魔力を補強させながら、とにかく二人に張りまくるぞッ!」
イドラが指示を出す。
「バン、耐える、耐えるぞ!なんとしても!」
「分かってますよ隊長!」
ネイアスは構わず進む。
その巨体を用いて全てを見下ろす。
魔法を見ていた。戦いを観察していた。
誰にも気付かれないまま、その異形は全ての魔法を”学んでいた”。
アリエスを背負いながら、バランは駆ける。
三人の魔法に助けられながら、決して後ろを振り向かず、とにかく走る。もう何度障壁を破られているのか分からない、そう考えると恐怖に埋もれてしまいそうだった。
「バン、大丈夫かッ!まだ耐えるんだ!」
横目に見るイドラ。
その瞳に映るバンの姿はもう限界を迎えていた。
耳と鼻から血を流し続けながら、必死に、ひたすらに、二人を護る為に、障壁を張り続ける。
巨大ネイアスから放たれる、高出力の攻撃は次、また次と繰り出される。
しかし、一瞬の光が爆ぜるような音と共に、バランの脚を裂く、
「…がッ……!!」
声にもならない叫びが出る。
肉が裂け、骨が軋む。
身体のバランスが一瞬にして崩れる。
動けないアリエスを落とす訳にはいかない――その想いだけで歯を食いしばった。
だが脚が止まりかける。
もう一発くる、そう思った。
その時――。
「下がれ、バラン!!」
叫んだのはイドラだった。
その瞬間、イドラが障壁の前に飛び出す。
バンの障壁は間に合わなかった。
だから――身を挺した。
魔力の光が砕け、衝撃が走る。
イドラが、吹き飛んだ。
「隊長!」
バランが叫び、バンが即座に再展開する。
だが彼も、もう限界を迎えている。
障壁は今にも砕けそうな薄氷のように震えている。
「……もう、持たない……!」
そのとき。
セーナは動かなかった。
動けなかった。
目の前の現実があまりに重くて。
虚ろなアリエス。バランの苦悶。イドラの倒壊。バンの限界。
自分は――何も出来ていない。
誰よりも冷静でいようとした。
戦いを支える役でいようとした。
それだけで十分だと思っていた。
でも今、誰も立てない。
「……私しかいない……」
自分に言い聞かせるように呟く。
ずっと封じていた。
誰にも言えなかった。
でも。
今この瞬間、誰かが死ぬなら、自分の秘密なんてどうだっていい。
セーナの瞳が僅かに濡れる。
その瞬間、彼女から立ち上がる底知れない魔力。
電流のような、パルスのような、漏れ出す魔力がセーナの周囲を舞う。深く、青白い、凍てつくような、燃えるような相反する力。
「強化魔法【制限強制解除】」
その右腕に幾何学模様の魔法陣が浮かぶ。
呟くだけで魔力がセーナに干渉していく。
次第に膨大な魔力がセーナから噴き出す。
制限強制解除――それは、発動と引き換えに、自身の命を削る魔法。セーナの奥底に存在する莫大な魔力が眠りから起こされ、身体能力、魔力操作全ての能力が底上げされる。
しかし、使い切った後のことは言うまでもない。
「…セーナッ!」
バンの叫び声は届かず、セーナは巨大ネイアスに向かって走り出す。通った後は青白い魔力が軌跡となって残る。
雷鳴のように、目にも止まらぬ速さでネイアスの攻撃をくぐり抜ける。
地面が震え、空気が変わる。
セーナから生まれた力が、周囲の風景さえ塗り替えていく。
「……これが、私の全部」
魔力の奔流がネイアスへ放たれる。
爆音、轟音、砕ける音。
その決死の一撃が巨大ネイアスを撃ち抜く。
胸部装甲が破裂し、銀色の霧が噴き出す。
だが――それだけだった。
倒れていない、止まっていない。
ネイアスがセーナを”見た”。
巨大で強靭な刃を振り上げる。
(……ああ、終わる)
それでも背を向けはしなかった。
逃げることも、祈ることもしなかった。
ただ、覚悟を決めた瞳で、真正面から睨みつけていた。
刹那。
灰の閃光が走った。
魔法と共に、空間が裂ける。
灰の髪、灰の外套、圧倒的な魔力の余波。
誰よりも強く、誰よりも真っ直ぐに――。
ゼラ・カーディナル・バレット。
皇帝が、眼前に降りた。