006.その優しさ、その献身は
◇◇◇
微風が俺の体を撫でた。重い瞼をゆっくり開けると、最初に見えたのは月──のように美しい少女の顔であった。
「お目覚めですか、恩人様」
少女が言う。次第に意識を取り戻し始めた俺が、彼女に膝枕してもらっているのだと気付くのに時間は要さなかった。なんて幸せな時間だろう。永遠に続いてしまえばいいのに。
「あっ、ご、ごめん」
だが俺は理性で持って多幸感を振り切り、体を起こした。瞬間、全身に痛みが走って呻く。
「恩人様、あまり無理はなさらず。もう少し、お休みになっては?」
そう言い、彼女は自分の膝をポンポンと軽く叩いた。右手首のブレスレットが太陽光を反射して輝く。よく見ると、長かったはずの彼女の素敵なスカートは、膝上ほどまで出るミニ丈になっている。代わりに、俺の体に布が沢山巻かれているのが分かる。腕、脚、体。その部分を中心に痛みがあった。
「無理に動かれると、また血が出てしまいます」
「君、まさかドレスを裂いて……」
「ふふふ。私のドレスなどより、恩人様の手当が優先ですから。どうか、お気になさらず」
天使か?
「い、いやあ、大丈夫だよ。座って景色を見たいから」
「そうですか」
俺の馬鹿馬鹿。せっかくのチャンスなのに、なに恥ずかしがって適当なこと言ってんだよ?! 景色だと? そんなもんより彼女の膝枕だろうが!!!
「あの、恩人様。ぜひ、貴方様のお名前をお聞きしたいのですが……。あっ、私は『アイリス』と申します」
アイリスちゃんっていうのか。名前まで可愛いな……。
「俺は九十九芳樹」
「ツクモヨシキ様? 変わったお名前ですね」
「だろ? ヨシキでいいよ、アイリスちゃん」
「かしこまりました、ヨシキ様。それとその……私のことは『アイリス』とお呼びください。もう十六になりますので、ちゃん付けは少々、恥ずかしいです……」
十六歳でこんなにしっかりしてるのか……。俺が十六歳の頃なんて、右も左も何も分からないクソガキだったぞ。
「そっか、気をつけるよ。それはそうと、手当してくれてありがとう、アイリス」
「いえ。魔物から救って頂いたのですから、当然の務めです」
なんだかいい雰囲気だが、俺にはこの雰囲気を壊してでも確認しなきゃいけないことがある。俺が異世界に来た理由──すなわち魔王討伐のために。
「アイリス。その魔物ってのは、何なんだ?」
「えっと、何と仰いますと……?」
「俺さ、すっっっげぇ遠くから来たから、この辺のこと何も知らなくて」
アイリスの顔に「?」が書いてある。よほどおかしな事を聞いたのだろうと、容易に想像できた。
「魔物というのは、魔獣の子孫を指す言葉です」
「……魔獣?」
「はい。かつてこの世界に『魔王』と呼ばれる存在が現れ、侵略を始めました。その侵略の戦力として魔王が創り出した四匹の手下、それが魔獣です」
よくある設定だな……。ああいや、アイリスたちこの世界の人らにとっては設定ではなく、歴史なわけだが。
「そして、その魔獣が更に手下を産みました。それが魔物です。さきほどヨシキ様が討伐されたアレらは、魔物の一種です」
「なるほどな……。で、肝心の魔王さんは何処に居るんだ?」
「……分かりません」
まあ、そう簡単にはいかないよな。そもそも、あんな小鬼に苦戦しているようじゃ、魔王討伐なんて夢のそのまた夢だろう。
「分からないのですが、魔王の動きが活発化しているのは事実です」
「活発化?」
そう言えば、女神モイラさんは「その世界は現在、魔王による侵略を受けています」とか言ってたっけ。
「十年ほど前でしょうか、それまで大人しくしていた魔王が、突如として侵略を再開したのです。我々人類は必死に抵抗しているのですが……押され気味、といったところでしょうか」
そういう事だったのか……。な〜にが侵略を受けていますだ、もっと大変な状況じゃないか。言葉足らずにも程があるぞ。おっと、バチが当たりそうだから悪口はこれくらいにしておこう。
「……おっと、もう陽が落ちるな。そろそろ家に帰った方がいい」
空が橙色に染まり始めている。地球と同じ時間感覚なのかは分からないが。
「…………」
アイリスは何も言わず俯いている。ああ、そうだ。彼女の表情を見て思い出した。アイリスは確か、勘当された身って言ってたっけ。
「あっ、ごめんアイリス。不用意だった」
「いえ、悪いのは……私ですから」
何があったんだろう。こんなにも可憐な十六歳の少女が勘当されるなんて、余程のことじゃないか? そう思うのは日本人の価値観故だろうか……。
「私、スキルが無いんです」
勘当の理由を聞きたがっていた俺の顔で察したのだろう。アイリスは元気の無い声で言う。
「スキルが、無い?」
転生後の世界では、多くの人がスキルを持っている。またもや女神モイラさんの言葉だが、例外がここにあったようだ。
「十歳前後でスキルが目覚めますよね? どんなに遅くなっても十二歳です。しかし私は十六で、未だに目覚めていないのです」
安心してくれ、俺は二十一歳で目覚めた。とは言えず、ただ彼女の話に耳を傾ける。
「ですから、両親や兄弟姉妹らから『忌み子』とまで言われ、虐げられてきました。部屋は牢屋です。雑巾を投げられるなど日常茶飯事ですし、服だってこれともう一着しかありません。その二着を買って貰えた理由だって、ただ『裸では見窄らしい』からというだけです。そして今朝方、遂に勘当とまで言われてしまいました」
なんというか、イライラする。スキルが目覚めていないなどという、たったそれだけの理由で虐げられるのか。ここの人たちの倫理観はどうなってるんだ……と思ってしまうのは、やはり俺が異世界人だからなのだろう。
「あんまり余所の家庭に口出しするのもアレだけど、そんなの酷いと俺は思うよ。あんまりだと思うよ。スキルが無いからなんだって言うんだ」
「いいえ、ヨシキ様。私が悪いのです。スキルの無い私が、悪いのです」
そう言うアイリスの目には、涙が浮かんでいる。声は震えているし、拳も固そうだ。
「この様な話をしてしまい申し訳ございません、ヨシキ様。忌み子が傷の手当などしてしまい、申し訳ございません。私は……もう参ります」
色々と思い出して感情がグチャグチャになったのだろう。アイリスは強い口調で言って立ち上がった。脚に着いた土を払い、今にも走り出そうだ。
「アイリス!」
どうにも黙っていられず、傷が痛むのを無視して彼女の手を握った。
「ヨシキ、様……?」
「俺はそうは思わない。俺は君が忌み子だなんて思わない。だって、君はこんなにも丁寧に手当してくれたじゃないか。自分の大切なドレスを裂いてまで。それに、その……気絶した俺に膝枕までしてくれてさ。その優しさは、その献身は、もはや君のスキルだよ」
我ながら滅茶苦茶な事を言っているとは思う。余計なお世話だとも思う。だけど、彼女のような心優しい天使みたいな子が虐げられているのは許せない。何か言わないと気がすまなかったんだ。相当驚いたようで、アイリスは目を大きく開いている。瞼をパチパチさせるたび、感情の雫が大きくなっていく。やがて頬を伝った。
「……ふふっ」
アイリスは可憐に笑い、俺に掴まれてない方のてで涙を拭う。
「おかしな方ですね、ヨシキ様は。十六年で初めてです、そんな風に言っていただけたのは」
笑う彼女を見ていると手を握っているのが急に恥ずかしくなり、そっと離してしまった。
「えっ? 俺、おかしいか?」
「ええ、おかしいです」
「そんなド直球に言うなよ……」
とりあえず、彼女は笑顔を取り戻してくれた。まあ応急処置みたいなものだが。感情の起伏が激しいところを見ると、アイリスは小鬼共に絡まれて疲れているのかもしれない。
「ヨシキ様はこの後、どうされるのですか?」
「うん? ああ、そこらで野宿かもな。お金無いし」
「い、いけません! この辺りは暗くなると魔物が出ますから。せめて、せめて町にお入りください!」
アイリスが言う。そして、今度は彼女が俺の手を引いた。
「イテテテテ!」
無論、傷が痛む。
「あっ、ごっ、ごめんなさい!」
謝罪と共に、アイリスは小動物の如くアワアワ動きまわってている。そのうち漫画みたいに足が渦巻きになるんじゃないのか……?