001.火事です。火事です。
──ジリリリリ。やかましい高音が鳴り響く。そうかと思うと、女性の声で「火事です。火事です」と聞こえてきた。少し冷静になって目を開ける。火災報知器の音と共に聞こえてくるのは、炎の音と怒号だ。煙で目が痛い。やばい、俺も早く逃げないと。だけど足が動かない。それに、俺はどうやら床に突っ伏しているみたいだった。
「先輩、九十九先輩!」
すぐ近くから俺の名前を呼ぶ声がした。痛む体に鞭打って声の方に顔だけ向ける。
「おお、水卜か。お前が無事で何よりだ」
水卜は俺の後輩だ。彼もすぐ近くに倒れていたようで、立ち上がってフラフラと寄って来る。
「先輩、すみません。俺のせいで、俺のせいで!」
煙が段々と濃くなってきた。それに加えて燃えた薬品の臭いも酷い。早く逃げないと、取り返しのつかないことになる。それは水卜とて理解っているはずだ。それでも水卜は、俺の腰から下に乗っかった数個の二百キロドラム缶と、倒れてきた鉄柱を退かそうと必死になっている。馬鹿野郎、お前はハンドドラムリフトじゃなければ、フォークリフトでもないんだぞ。
「水卜、もういい。俺のことはいいから、脱出してくれ」
「そんな事、出来るわけないじゃないですか。俺を守ってくれた九十九先輩を、このまま置いていくなんて……!」
「見ろよ俺の足を。潰れちまって、もう歩けない。仮にドラム缶を動かせても──」
往生際の悪い水卜の耳には、俺の声は届いていない様子だった。
「そうだ、ドラム缶の中身を出してしまえば!」
そう嬉々として言い、彼はベルトに括った仕事道具を手に持ってドラム缶を開封しようとする。
「おい待て水卜。そんなことしたら、この場で二人とも火達磨だぞ」
ドラム缶の中身はアルコール系の有機溶剤だ。火災現場でそんなものを撒き散らせば、いったいどうなることやら想像もしたくない。
「でも、でも……!」
「水卜!」
狼狽して右往左往する水卜に、俺は思わず怒鳴った。あ〜あ。これまで優しい先輩としてやってきたのに、土壇場で台無しだ。
「いいから逃げろ、逃げてくれ。このままじゃ共倒れだぞ」
「九十九先輩を置いていくくらいだったら、その方がいいです」
「馬鹿野郎!」
俺はまた怒鳴った。そのせいで肺から一気に空気が抜け、反動で一気に入ってくる。熱い煙が体内に侵入。思わず咳き込んでしまった。
「ゲホッ──お姉さんの結婚式、来月だろ? お前、めっちゃ楽しみにしてたじゃないか……。生きて、しっかりお祝いしてやれよ」
水卜の家は父子家庭で、10歳も離れた姉が居る。昔から姉が母親代わりで、その姉がついに結婚して幸せになるのだと水卜は喜んでいた。そんな彼が、仕事場の事故なんかでこの世を去っていいはずがない。
「でも、でも先輩……」
「お願いだよ。水卜、もう行ってくれ」
今度は怒鳴らず穏やかに。
「お姉さんを……家族を、大切にしろ。家族と絶縁しちまった俺と違って、お前には……ゲホッ、ゲホッ」
苦しくなってきた。これ以上は偉そうに講釈垂れる事も出来そうにない。
「九十九、先輩…………」
「行け、行け、水卜!」
最期《・》にもう一度だけ怒鳴った。今ので俺の肺は完全に逝った。もうまともに息もできない。幸い、水卜は作業を中断してくれた。汚れた作業着の袖で目を拭い、「すみません」と何度も謝った後に走り去る。まったく、こういう時は「ありがとうございます」だろうが。
走る水卜の背中を見送った俺は、猛烈な眠気を感じた。もういい。ゆっくり眠ろう。そう思った矢先、バリバリと崩落の音が聞こえた。どうやら、俺に向かって壁が、柱が崩れてきているようだ。全てがスローモーションに見える。不思議と恐怖は無い。さようなら。この世界に別れの挨拶をした。嗚呼、我ながら何とも微妙な人生だったな。だけど今更どうしようも無い。さようなら、さようなら。そう念じた瞬間、俺の意識は途絶えたのであった──。
消毒用アルコールは、濃度60重量%以上から危険物の第四類に該当すると聞いた事があります。火気厳禁。