表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

不機嫌な他人

作者:

坂口万里は結婚して数年が経ち、ようやく旧姓から今の姓で呼ばれることにも慣れて来た頃、夫の洸一に「悪いけど、この子の面倒を見てもらえないか」と、二人の住まいからそう離れてはいないアパートへ連れて来られた。

部屋へ入ると、小学1年生ぐらいの男の子が待っていた。色白で黒目が目立つはっきりとした顔立ちの子どもだ。彼が座っている席の横に黄色い帽子と紺色のランドセルがあった。

「母親が数日前から家を出て戻らないので、戻って来るまで面倒を見てくれないか」と言う夫に、「この子のお父さんは······」と聞きかけて万里はハッとした。


結婚して間もない頃、夫の子どもを産んだという女性が訪ねて来て、離婚寸前になったことがあった。

夫は、飲み会で酒に薬物を混入させられて無理矢理関係を持たされただけで、付き合ってもいないし浮気ではないと主張した。託卵だったら困るからとDNA鑑定をしたら夫の子どもだった。


子どもの母親は夫の元同僚で、我が子を夫に手渡すつもりはなかった。万里と夫の間には子どもがいないため、万里はその子どものために別れようとしたが、洸一は離婚を承諾しなかった。

養育費は払うという条件で引き取ることはしなかったその子が、今目の前にいるのだと気がついた。


その子は夫に似ているとは思えない。

夫は自分の子ども時代について話すのを極端に嫌がり、親との写真等も殆ど見せてはくれなかったので、夫の子ども時代に似ているのかすら確かめることはできない。

親を呼ぶような結婚式はしたくないと言って万里の両親に儀礼的な挨拶をした後、式は挙げずに入籍だけの結婚をした。夫の親には電話で事後報告しただけだった。


どちらかと言えば母親似なのかもしれないが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。


「こんにちは。お母さんが帰って来るまで一緒に暮らす万里です、よろしくね」

万里はひきつりそうになるのを堪えてなんとか笑顔を作った。少年はこくりと頷いた。

「ええと、名前を教えてもらえる?」

「辻洸太郎」

「洸太郎君、お腹空いてない?」

「さっき食べた」

洸太郎が台所の方へ目を向けたので、見ると食べ終えた弁当の容器が置いてあった。

「今晩何か食べたいものはあるかな? 洸太郎君は何が好き?」

「カレーかハンバーグ」

「そう、じゃあ嫌いな食べ物は?」

「ピーマン、にんじん、たまねぎ、トマトのグジュグジュ」

洸太郎の回答に万里がいかにも子どもらしいなと思っていると、「じゃあよろしく頼む、俺は仕事に戻るから」と洸一はそそくさと帰ってしまった。


部屋はちゃんと整頓されていて、今にも母親が帰って来そうに見えるのが、余計に不憫だった。


「布団を敷く場所がないから、隣に布団を敷かせてもらってもいいかな? 嫌だったら台所で寝るから言ってね」

「······いいよ」

万里はなるべく子どもから離れたところへ布団を敷いた。

「ごめんね、布団を借りるね」

夫と無理矢理関係を持って子どもを産んだ女の家で、しかも彼女が使用していた布団で寝るのは耐え難い屈辱と嫌悪、悪寒すらしそうだ。

母親が家出してしまい、尚且つ見ず知らずのおばさんと同じ部屋に寝ることになるなんて、この子にとってはどんなに不快で苦痛だろうか。


敷くのはマットレスだけにし、座布団を枕代わりにして、服のまま横たわり自分のコートを身体に掛けて寝ることにした。その母親のものは極力使いたくなかったからだ。


(風邪を引きそう······、明日、自分用の寝具を持って来よう、いっそ寝袋でもいいかも?!)


それから1週間を過ぎても母親は戻ることなく、結局ひと月後に部屋を引き払い、万里達が暮らす家に同居することが決まった。

夫に宛てた「もう戻るつもりはないので息子をよろしく」と言うメモがマンションの郵便受けに入れられていたからだ。


洸太郎ははじめ引越しを嫌がったが、「お母さんの服や使っていた食器や布団や荷物も全部一緒に持って行くから」と言うと「わかった」と返事をしてうつむいた。

もう戻ることはないと知っていても「お母さんが帰って来るまでだから。それまでお父さんと一緒に暮らそうね」としか声をかけることができず、万里はいたたまれない気持ちで一杯になった。


時々布団の中で泣いている洸太郎を布団の上からさすったりぽんぽんして、「大丈夫きっといつか戻って来るから」と言ってあやした。


夫の洸一は以前から気難しいところがあり、些細なことで機嫌を損ねると、言葉や暴力という形では怒りはぶつけて来ないが、自室にすぐ閉じ籠ってしまうことがあった。万里にとってはそんな夫の扱いに苦慮してきた結婚生活だった。

そこへ洸太郎が加わり、突然不機嫌になったかと思うと自室に籠ることが頻繁になって行った。


「僕のせい?」

「ううん、違う。多分お父さんは自分に怒っているのよ」

「なんで?」

「怒る必要がないのに怒ってしまうとか、イライラする必要がないのにイライラしてしまう自分に腹が立っていると思う。だから怒って何か洸ちゃんに怒鳴るとかぶったりしては来ないでしょ? 物に八つ当たりしたりもしないし、そこだけは偉いと思うわ」


洸太郎が慣れるまでは全て洸太郎のペースに合わせていることが、無自覚だとしてもストレスなのかもしれない。自分のペースを乱されることがとにかく苦手な人なのだ。

私の洸太郎への洸ちゃん呼びが気に入らないとか、夫に向ける以上に洸太郎にはにこやかに接している私の態度への苛立ちとか嫉妬かもしれない。


(そう、我が家には子どもが二人いるようなものよ)


二人にはできるだけ明るく接し、不機嫌そうな夫にも笑顔で対応しようと努力した。それでもあまり効果はなかったけれども。

夫がもしもアダルトチルドレンだとしたら、洸太郎が自分の子ども時代を思い出させたりして不快になっているのかもしれないから、それを責めることはできない。


今までも洸太郎への養育費も律儀にちゃんと払って来たし、仕方がなかったとはいえ洸太郎を引き取ったのだから、それすらしない親よりはマシだ。

それよりも、薬を盛って関係を持ってできた子どもに『洸太郎』という名前にするとか、わざとか当てつけにしか思えない。そんな犯罪的な誘惑をしてまで得た子どもなのに、夫に丸投げして子どもを放置していく母親の方が余程悪辣だと思う。

しかも、この住まいとはそんなに離れていない場所で親子が暮らしていたことがショックだった。


どうしてそんなことができるのだろうかと、万里には全く理解できなかった。


洸太郎は素直で周囲にも気を使える優しい子だ。子育てをしたことがない万里にとってはとても助かっていた。

「洸ちゃんがうちに来てくれて嬉しいよ。お母さんが迎えに来ても、時々遊びに来てね」

「······うん」

「お父さんもね、子どもの頃にお父さんの親と辛いことがあったみたいなの。不機嫌になるのは多分そのせいだから、洸ちゃんは気にしなくていいんだよ」

義理の子どもと不仲とか、懐かれずにギスギスしていたら相当ストレスだったと思う。


学区内の引越しだから、住所変更だけで転校せずに済んだことは、少しは洸太郎の負担を減らせたかもしれない。

世の中には結婚相手の連れ子を育てるとか愛人の産んだ子どもを育てる人もいるものだけれど、まさか自分が育てることになるとは思っても見なかった。

でも、洸太郎のような子どもならば、悪くはないなと思えて来ている。

それに、大人の私よりも、子どもの洸太郎の方がずっと不安で辛いだろう。あんな親でも帰って来ないのは困るのだろうから、この生活を少しでも心地よく、楽しんでもらえるようにしてあげたい。

洸太郎の母親が帰って来ても来なくても、できる限りちゃんと育ててあげなければ。

万里はそう決意した。


子育てには非協力的な洸一は、遊園地や映画、レジャースポットへ洸太郎を連れて行ってくれるように頼んでも渋るので、仕方なく万里が連れ出していた。

万里もそれまで興味のなかったゲームやスポーツ、子どもに人気の遊びを一緒にやるなどして、自分の世界も広がった。


「二人でやるのはつまらないから付き合って」と夫にババ抜きとかカードゲームに参加させて見たが、楽しいのを我慢しているような複雑な表情をしていた。

父の日とかもあえてやってみたら、まんざらでも無さそうだった。

運動会にも引っ張り出して連れて行き、洸太郎の写真や動画を撮らせた。

万里と洸太郎が「お父さん」と呼ぶのを最初は不快そうにしていたが、そのうち慣れたのか諦めたのか、特には嫌そうな顔はしなくなった。

強要はせずに、少しずつ三人で親子らしい時間、家族の真似事でしかなかったとしても、その経験を重ねる努力は洸一にもプラスにはなる筈だ。


洸太郎と暮らしはじめたお陰か、万里は洸一に対して、以前よりも自己主張するようになり、夫の態度に怯えずに接することができるようになった。



それから1年経った頃、洸一の単身赴任が決まり、洸太郎との二人暮らしがはじまった。

万里の実家へも泊まりで遊びに連れて帰るようになると、万里の両親は自分の孫のように受け入れ洸太郎を歓迎した。


洸太郎がテレビの動物番組を見ながら「いいなあ」と呟いた。

「犬猫は飼えないけど、ハムスターとかウサギとかならばいいよ」

「ほんと? 飼っていいの?」

「ちゃんとお世話してくれるならね」

早速ホームセンターのペットコーナーへ行って「この子がいい」とブルーサファイアの雄一匹と専用ケージ等の飼育に必要な一式を購入した。

余程嬉しかったのか、飼いはじめた数日間は枕元にケージを置いて寝ていた。夜行性のハムスターが立てる音に夜中に起こされてしまってからは、リビングに置くようになった。

洸太郎はケージから出して遊ぶのが好きだったので、毎回どこかにハムスターが隠れ込まないかヒヤヒヤさせられた。

砂風呂の中で息絶えたハムスターを見つけると、この世の終わりでも来たかのように洸太郎は激しく泣いた。

ベランダの鉢植えの土に埋めてお墓代わりにした。次はもう少し寿命の長いハリネズミを飼うことにした。


単身赴任の夫の部屋へ二人で訪ねて行くと嬉しそうにするどころかまた不機嫌になってしまう。そのため様子を見に行くのは万里一人で行くようにしたのだが、それでも不機嫌さは変わらない。

やっぱり自分のペースが狂うのが嫌なのだろうと、それはもう仕方がないと諦念し、不機嫌なのは平常運転と割り切った。


他人と暮らすのが不向きで、相手と良好な関係が築けないのにそれでも誰かと暮らしたがる厄介な性分は、どこまでも自己中だ。


そんな夫に離婚して欲しいと言われたのは、洸太郎がこの春から大学進学で上京してすぐだった。

夫には内縁の若い妻と夫に良く似た顔立ちの小学生の娘がいた。


万里は慰謝料は受け取らず、洸太郎と過ごしたマンションを処分するつもりなら、洸太郎へ与えてもらうように頼んだ。

「どうして君は僕から何も受け取ろうとしないんだ?」

またもや夫は不服そうに言った。

「万里はいつだってそうだ。欲しければ言ってくれれば与えたのに」

洸一は腹立たしげに顔を背けた。


(私はあなたが口に出さないものでも、全部忖度してやって来ましたけどね?!)


「欲しいものはありませんから」

「君はいつも僕を責めない」

「責めて欲しいんですか?」

万里は少しからかうような口調で聞いた。

「······ものわかりが良すぎる」


(反論したりわがままを言えば言ったで、更に不機嫌になるくせに!)


「だからあなたは私が気に食わない、私では満たされないわけですね」


はじめは洸一の幼少期のトラウマ等の問題かと思っていたけれど、それ以外にも、夫の不機嫌の原因は、私のことが気に入らなかったからだと気がついた。


それならば、もっと早く別れてくれれば良かったのに。


友人の紹介で知り合った洸一から付き合って欲しいと言われて交際がはじまった当初は、こんなに不機嫌な人ではなかった。

第一印象は、人当たりの良い青年にしか見えなかった。

ただ物凄く慎重で、手を繋いだり距離を詰めて来るまでに、その葛藤や躊躇が手に取るようにわかってしまった。


親が買い与えたのか、ローンを払う必要も無いマンションを既に所有して住んでいた。

彼の部屋でソファに座る私の胸の下に、突然顔を押し付けるように抱きついて来た時は固まってしまった。

それが恋人同士のハグには到底思えず、子どもが母親に求めるものに等しく思えたから。これが彼からの私へのはじめてのハグだった。

どう反応していいかわからなかったから、恐る恐る彼の背に手を回し背中をさすった。子どものような彼を子ども扱いするのは失礼だから、配慮しながらそっと撫でた。

腰にがっちり手を回され、整った顔立ちで、その体勢から上目遣いで甘えるような拗ねるような表情を見せる男に戦慄しつつも抗えない自分がいた。

会う時はいつもそのようなハグの時間が待っていて、それ以上の関係にはならなかった。


洸一の幼少期のトラウマ、アダルトチルドレンの可能性を疑っていた。

大学では心理学を専攻していたのでその知識はあり理解もできたから、私が少しでも役に立てるならばという、恋人というよりはセラピストもどきとクライアントのような関係だった。

恋愛のときめきによるドキドキでは全くなく、彼との関係で感じるドキドキハラハラは別の種類のものでしかなかった。

そんなだから、結婚を申し込まれた時は驚いてしまった。それまでキスすらされたことがなかったから。


それでもその半年後に結婚した。結婚してもその独特のハグはしてきたが、夫婦としての夜の営みは全くなく、籍だけ入れた仮初めの伴侶という感じだった。

そんなおり、洸太郎の母親が現れたので、これはもう離婚するしかないと思った。

結婚前からそうだったが、彼は私が離れて行こうとすると引き止めるのだ。


交際中、洸一があの独特のハグをする度に私は怯えはじめた。それは洸一の異様な行動が更にエスカレートして、軟禁とか監禁されるようになったらどうしよう、これ以上進んでしまうのは危険だという焦りが芽生えていたからだ。

なんとか洸一と別れるきっかけ、離れる口実を探していた。仕事があるとか友達と約束があるからその日は会えないと言い訳しては会う回数を減らすようにしていった。

それを察したのか、しばらくは一般的なハグをして来て自分のノーマルさをアピールし私を安心させようとしてきた。

それで自分に繋ぎ止めることができると踏んだのだろう。


洸太郎を産んだ女性が訪ねて来た時に離婚を切り出したら、同じように引き止められた。

それで引き止められてしまう自分もどうかしているのだと十分自覚していた。

振り切って別れたら、普通ではないことを逆上した洸一にされそうに思えた。

当時の洸一にはそのような危うい雰囲気が今よりも強く、万里は逃げることができなかった。


夫の赴任先に新しい家族がいるのを知ったのは、洸太郎が中学生の時だった。

いつもは今週末行くからとか来週行くと連絡を取って行っていたのだが、その日は連絡無しで行ったのだった。

まるで長年の親子のように部屋から出て来るところを目撃した。

洸一のあんなに幸せそうな表情を見たのはその時がはじめてだった。


少ししてから、連絡をあえて取らずに改めて確認をしに行くと、玄関先で慌てる夫の足元の向こうに、女性の靴と幼児の靴が脱いであるのが見て取れた。

「お客様が来ているの?」

「····あっ、ああ」

「じゃあ、私はこれで帰りますね、ごゆっくり」

もうわかっているのに、わざわざ確認しに行くなんて自分でも馬鹿だとは思うが、焦った夫がどんな反応をするのか見たいという、怖いもの見たさと意地悪さが入り交じっていた。


その時離婚を要求しなかったのは洸太郎が自立するにはまだ小さかったし、母親も帰って来てはいなかったからだ。せめて高校を卒業するまでは離婚を回避しようと思った。


すぐに夫から「自分のことは自分でやるから、こっちにはもう来なくていい」というメールが来た。

あの独特のハグすらしなくなった彼には、私はもう必要ないのだろう。洸太郎の養育係りでしかないのは明らかだ。


怒りや虚しさよりも、正直ホッとしていた。彼の中の私への依存は消えたと思えたからだ。

新しい家族と良好そうなのは、アダルトチルドレンの悪影響から少しは脱したのではないか。それはそれで喜ばしいことだ。新しい家族との暮らしが洸一の理想の家庭ならばそれでいい。

そこではもう不機嫌ではないのだろうから。


元々この結婚自体が間違いなのだ。それを承知で本気で逃げることをしなかったのは自分のせいだ。

それで逃げるタイミングを何度も逸して来ただけなのだ。

私達は夫婦ではなく、単なる籍を入れただけの同居人でしかなかったのだから。


とにかくもう疲れた。何もかも全部投げ出したい、何もしたくない。

その日に帰宅してからは風邪を装い何日かダラダラと寝て過ごした。


それでもまだ自分はリタイヤはできない。洸太郎が一人立ちできるようになるまでは放棄するわけには行かない。

私はあの無責任な母親や父親とは違うのだから。


洸太郎に不審に思われないように、夫のところへ行くと言っては一人でホテルや旅館に滞在した。

しばらくはそれが万里の息抜きになり、心の休養には大いに役立った。

立ち直って来ると、洸太郎も誘って温泉旅行をしたりするようになった。


夫とはいずれ離婚をすることになると予想し、更に洸太郎の母親がいつ戻って来ても困らないように心の準備も現実的な準備もとっくにできていた。



「万里さんはこれからどうするの?」

万里が離婚に同意し、マンションから出て行くという連絡を受けて、洸太郎が慌てて上京先から帰って来た。

「実家に戻るよ。親も高齢になって来たから当分はそこで暮らす。私の仕事はリモートでもできるからね」


万里は漫画の原作を書いたり、ライトノベル小説家、エッセイストとしてそこそこの収入はあった。

全ての経験は作品のネタにしようという気概のためか、自分の体験や経験も客観視してしまう傾向が強く、淡々と対応してしまう癖がつき過ぎて、これが相手にとっては可愛くないと感じさせてしまうのだろうと万里自身も気がついている。


離婚を切り出されても驚きもせず、泣くわけでもなく、夫を引き止めもしない妻なのだから。


こんな人はそうそういない、こんな体験はレアだわと内心思ってしまう職業病!?

この結婚生活も離婚も、いつかネタにする日も来るだろう。


「万里さん、ごめん、俺······本当は父さんの子どもじゃないんだ。母さんがそういうことにしておけばいいんだよって······」

泣き出しそうな顔をしている洸太郎の顔は、やっぱり洸一には似ていない。

外見は似ていなくても声や癖や仕草が似ている親子はいるが、それも見当たらない。

中肉中背の洸一に対して、洸太郎はバスケをしていた影響かがっちりした長身で洸一よりも頭1つ分背が高い。洸一のような神経質さもなく穏やかな性質だ。

トマトのジュクジュクが嫌いなんて言っていた頃が嘘のように大きくなったなとしみじみ思う。


「多分そうかなって昔から思ってたよ」

「そうなの?!」

なぜ洸太郎の母親が鑑定結果を操作できたのかは知らないけれど、あの人なら、どんな手を使ってでもやってのけそうだもの。

「······それから、母さんの居場所ももう知ってるんだ」

「ふふっ、それも多分そうだろうなって思ってた。案外近いところにいたんじゃない? 前もそうだったからね。お母さんとここで暮らしてもいいのよ、この家はあなたのものだから自由にしていいんだよ」

洸太郎は泣き出した。

「······万里さんが本当の母さんなら良かったのにっていつも思ってた。······あんなにズルくて汚い親は嫌だ。だから母さんの居場所がわかっても、もう一緒には住みたくなくて······黙っていてごめんなさい。俺は万里さんと暮らしたかったんだ」


2年ほど前、万里の留守中に母親がこの家を訪ねて来て、その時自分の父親が洸一ではないと洸太郎は聞かされていた。

母親は洸一の同僚時代に自分が交際を申し込んでもまるで相手にされなかったので、それが許せなくて無理矢理関係を持とうとした。 それでも洸一には冷たくあしらわれたことを、その後もずっと恨みに思っていたが、万里と結婚したのをきっかけに嫌がらせをしてやろうという悪意を実行に移した。


「大学を出るまでは、洸一さんには秘密にしておきなさいね。卒業したら、お母さんには内緒で再鑑定してその結果を洸一さんに持って行って詫びればいいわ。あなたが謝りに行けばあなたのことだけは許してくれるかもしれないから」

「そっ、それでいいの? 本当に?」

「あなたのせいじゃないし、子どもは悪くないのよ。それに洸一さんに今後何かを返すにしろ、親から自立するにしても、あなたに経済力がなければそれもできないでしょ?」


仮に洸一に今までの学費を返せと言われたとしても、洸太郎の学歴や身につけた知識や技術、経験までは奪うことはできない筈だ。

子どもに詐欺の片棒を担がせる親は最低最悪で許せないけれど、洸太郎のためには大学を卒業させてあげることは、今後の彼の人生の助けには少しはなるだろう。


「罪悪感があるなら、自分の親みたいな大人には絶対にならきゃいいのよ。今度は自分と同じ境遇の人を少しでも助けてあげることができたらいいね」

「万里さんはそれでいいの?」

「それでいいよ。それに私にとって洸一さんはもう他人だから、今後あなたのお母さんとどうなろうと私には全く関係ないし」

万里があかんべーと舌を出しておどけて見せたので、洸太郎は泣き顔のまま吹き出した。

「それから、私と洸一さんはザ·仮面夫婦だったから、洸ちゃんが私達の真似をしちゃダメよ、いい見本じゃないからね。まともな養父母じゃ無くてごめんね」

「ええ?!」

「でも、洸ちゃんがいてくれたから、これでも少しはマシになったのよ。ありがとうね」

「······」

「うちの実家にも遠慮せずに遊びに来てね。もし何か困った時には相談に乗るから、ちゃんと頼ってね」


私も洸一も洸太郎の母親の被害者ではあるけれど、最大の被害者は洸一への復讐の道具にされた洸太郎なのだ。これ以上あの母親の犠牲にならないように洸太郎だけは守ってあげたい。

血は繋がってはいないけれど、11年も生活を共にした私の大事な家族なのだから。


万里が実家に帰ってしばらくしてから届いた洸太郎のメールによれば、あのマンションに母親と長年の彼氏らしき男が住み着いたらしい。洸太郎の上京先に突然二人でやって来て、マンションの鍵を無理矢理奪っていったとか。

その男が洸太郎の本当の父親かどうかはわからない。


マンションの件は、鍵の盗難届けを出したので警察沙汰になって、二人はマンションから出て行った。

罪深い人はどこまでも際限なく貪欲だ。自分の行為が犯罪だとハッキリ自覚させるには、地道に刑罰を受けさせるしかない。例え親子間であっても。


そうやって泣き寝入りはせずに、毒親に対抗して行くしかないのだ。


万里は洸太郎が望めば、将来的に実家の養子にしようと思っている。万里の両親も賛同してくれた。

姓が変われば、犯罪者の息子の汚名から少しは守ることができる筈だ。


後数年もすれば全てひっくり返る筈だ。その時は今までのツケを彼女が全部支払うことになるだろう。


その時洸一がどうするかなんてどうでもいい。もう家族でもなんでもないのだから。

助けが欲しければあの新しい妻を頼れば済むことなのだ。


万里は扱い辛く接し難い洸一からやっと解放されて自由になれた。これからはその自由を満喫するのだ。


長年万里を悩ませてきた不機嫌な夫も、洸一を不機嫌にさせていた妻ももういないのだから。



その後4年を待たずして、洸太郎の母親は痴情沙汰を起こして、相手に首を絞められて果てた。

亡骸は母親の親戚が迷惑そうに引き取って行った。


予定を早めて再鑑定すると、洸太郎の父親は洸一ではないことが判明した。

しかし母親が死亡したために本当の父親を知ることは困難になった。

洸一は戸籍はこのままで良いとした。大学卒業までの費用は洸一が面倒を見るが、マンション以外の財産分与と遺産相続はしないということで決着がついた。


「ねえ、その時の洸一さんはどんな感じだったの?」

「ほんの少し不機嫌そうだったけど、昔よりはずっといい顔をしていたよ」



(了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ