看板の女に恋した男
「いらっしゃいませ。ご注文は何にしますか。」
行きつけの喫茶店で、
私と友人は窓際の席に向かい合って腰を下ろした。
店員が寄越した熱々のおしぼりを受け取る。
店内はいくらか繁盛していて、
私たちのような若い男や背広姿の中年の男たちが一服していた。
この喫茶店の窓際のこの席は、私と友人の指定席。
この席に座りたくて、いつも友人と二人連れ立ってこの喫茶店に通っている。
目的は、看板娘に逢うこと。
看板娘とは言っても、この喫茶店の店員ではない。
先程、注文を取りに来た店員も、美人と言っても良い容姿だが、
それでも彼女には敵わない。
私と友人が夢中になっている看板娘、
それは、この喫茶店の窓から望む先、
向かいの廃ビルの屋上に設置された看板に描かれている女だ。
廃ビルの屋上の、手入れもされていない古い看板の中に、
黒いドレスに身を包んだ女が足を組んで座っている。
切れ長の瞳にしめやかな睫毛、長く艶やかな黒髪、
鼻筋が通った彫刻の様な整った顔に、
ぷっくりと肉厚の赤い唇が花のように咲いている。
彼女の歳は幾つくらいだろう。
おそらく妙齢であろうが、
古ぼけた看板の中に佇む彼女は、
十代の少女にも中年の御婦人のようにも見える。
そんな彼女に、私も友人も心底惚れ込んでいたのだった。
私と友人が看板娘に出逢ったのは、今から三ヶ月ほど前。
急な雨の雨宿りに偶然入ったこの喫茶店の窓から、彼女の存在に気が付いた。
雨の中、物憂げに空を見上げている看板娘を一目見て、私と友人は恋に落ちた。
それから時間を見つけては、こうして二人で彼女に逢いに来るのだった。
「彼女、ほんっとうにきれいだよなぁ。」
窓から彼女の姿を見上げて、友人が溜息混じりに言葉を吐き出した。
相槌を打つ私の声も聞こえてないくらい、友人は彼女に夢中だ。
言われるまでもなく、看板娘の彼女は人間ではない。ただの絵だ。
看板娘の彼女の事を他人に話したこともあるが、
ただの看板の絵だと一笑に付されてしまった。
無理もない。
彼女の魅力に気が付かないモノには解るまい。
しかし、私と友人にとって彼女は人間も同じ。
見る者が見れば、彼女はこちらに向かって微笑んでくれるのだ。
そんなことを考えていると、鼻先に友人が顔を寄せていた。
「お前、俺の話を聞いてたか?」
「・・・ごめん。
考え事をしていて聞き逃した。」
「そうだと思ったよ。
まあ、彼女が近くにいるのだから、気が気でないのも仕方がない。
もう一回言うから良く聞けよ。」
言葉を区切り、勿体ぶってから友人は話し始めた。
「俺、これから彼女に逢いに行こうと思う。」
「彼女に逢いにって、どういうことだ?」
「言葉の通りの意味だよ。
彼女がいる看板が設置されているビルの屋上にいく。
俺、もう彼女と離れ離れでいたくないんだ。
一時たりとも彼女と離れたくない。
だから、彼女に告白する。プロポーズする。
そのために、彼女に触れるところまで行こうと思うんだ。」
看板娘の彼女への想いを語る友人は真剣で、冗談を言っている様子ではない。
目はギラギラと血走っていて、果たして友人は正気なのかと疑念が湧き上がる。
私はそんな友人の様子に気圧されながら、ぱくぱくと口を開いた。
「で、でも、あのビルはずっと前から使われていないんだろう?
屋上に上がると言っても、中に入ることもできないんじゃないのか。」
そんな精一杯の理性的な返事も、しかし友人を止めることはできなかった。
「それは知ってるよ。
調べてみたけど、あのビルは以前から廃ビルで、普段は誰もいない。
裏口には鍵がかかってなかったから、屋上なら階段で行けるはずだ。
なあ。俺、もう我慢出来ないんだ。
だから、お前が止めても俺は行くよ。
今日、ここでもう少し時間を潰して、
日が暮れたら彼女のところに行くつもりだ。」
それっきり、友人はむっつりと黙りこくってしまった。
私も看板娘の彼女のことが好きだ。
愛していると言っても良い。
しかし、そのために廃ビルに入るなどとは。
廃ビルに入るだけならまだ良い。
問題はその先にある。
彼女はどんなに美しくとも、所詮はただの絵。
どんなに近くに行っても、一緒になることはできない。
理性がそれを教えてくれているから、
私は彼女の姿をこの席から窓越しに眺めることで満足しようとしていた。
しかし、どうやら友人は違うらしい。
彼女に夢中である友人は、理性がそれを教えてくれないようだ。
代わりに私の口からそれを知らせても良いものだろうか。
友人を止めることも、席を立つことも、どちらも選ぶことができず、
私は黙りこくっている友人の前で座っていることしか出来なかった。
それから二時間ほどが経って。
喫茶店の窓から見える町は、夜の装いに着替え終わっていた。
きらびやかな町の明かりが夜を照らしている。
私は友人に連れられて喫茶店を出た後、
そんな町の明かりから切り取り残された夜の闇の中にいた。
目の前の路地裏には廃ビルの裏口。
あの看板娘の彼女が描かれた看板に続く道だ。
汚れたりへこんだりした金属の扉に、
申し訳程度に立入禁止の張り紙がされていた。
看板娘の彼女に逢いに行く。
あの喫茶店で友人にそう切り出された後、
私は友人を止めることも見捨てることもできず、
こうして一緒に廃ビルに忍び込むためにやってきたのだった。
気後れしている私とは違い、友人は迷うこと無く裏口の扉に手を掛ける。
金属の扉が錆びついていたのか、思ったよりも大きな音がして扉が開いた。
誰かに見つかってはいないかと周囲を見たが、
夜の街は賑やかで、些細な粗相など気にも留めていないようだ。
そうして私は、闇に飲み込まれていく友人の背中を追いかけるのだった。
廃ビルの中に人の気配は無かった。
友人が調べた通り、普段は誰もいないらしい。
瓦礫だの、打ち捨てられた家具だので、足元は良くない。
窓から差し込む町の明かりを頼りに廃ビルの中を進む。
崩れかかった階段を上ること数階。
上り階段の行き着く先に、
大きな観音開きの金属の扉が立ちはだかった。
「この先が、彼女のいる屋上だろう。
良いな?開けるぞ。せーの!」
友人の掛け声で、私と友人は大きな金属の扉を押し開いた。
大きな金属の扉を開けると、そこには広い屋上が広がっていた。
頭上には大きな満月、眼下には夜の街。
そして目の前には、見紛うことなき彼女の姿があった。
古ぼけて薄汚れた大きな看板に、満月の月明かりが彼女の姿を照らし出す。
夢にまで見た看板娘の彼女の姿。
それはまるで、舞台の上に立つ女優のようだ。
遠くの窓から幾度となく見上げていた彼女の姿だったが、
近くから見ると尚の事美しい。
黒いドレスに身を包み、夜空を見上げる彼女。
その姿を見ているだけでも心が満たされていく。
私と友人は、しばしその艶姿にじっと見惚れていた。
月明かりに照らされた彼女の姿。
それを間近に見られただけでも、私には十分に幸福なこと。
しかし、欲深な友人はそれでは満足しなかった。
じりじりと看板に近寄ると、熱い吐息のような言葉を吐いた。
「・・・愛してる。君とずっと一緒に居たいんだ。
俺のところに来て欲しい。」
熱に浮かされたような友人の愛の囁き。
しかし、彼女は何も応えない。
当然だ。
どんなに魅力的でも、
彼女は看板に描かれた絵でしかないのだから。
生身の人間と、絵に描かれた彼女と、結ばれることは絶対に無い。
だから私の理性がここに来るのを拒んでいたのだ。
絶対に結ばれない彼女に近付くべきではない。
遠くから眺めて満足するべきだ。
後悔の苦い味が口の中に広がっていく。
きっと、友人も傷ついていることだろう。
友人は私よりも情が深いから、その分だけ余計に傷ついているはずだ。
そう思っていると、
彼女の姿を映す私の視界に友人の姿が入ってきた。
ふらふらと熱に浮かされたように、友人の足取りがおぼつかない。
間近に見る彼女の姿に正気を失ってしまったのだろうか。
ぼそぼそと声が漏れ聞こえてくる。
「愛してる。
俺はこんなにも君の事を愛してるんだ。
それなのに、どうして君は応えてくれないんだ。
・・・もしかして、こっちに来るのが怖いのか?
君はずっとそうして看板の中にいるから、こっちに来るのが怖いんだろう。
そうだ。そうに決まってる。
だったら、俺がそっちに行くよ。
俺が君のところに行く。
待っててくれ。今からそっちに行くからな。」
友人の様子に只ならぬ気配を感じる。
見ると友人は、看板の中に入ろうとでもしているのか、
彼女がいる看板に張り付いて体を擦り付けている。
顔を寄せて頬ずりをする様に、腕を広げて擦る様に、
片足を上げて腰を看板に擦り付ける様にする友人の姿に、
私は薄ら寒さすら覚えて身を震わせた。
いや、私が身を震わせたのは、友人の姿を見たからではない。
友人が体を擦り付けている相手、彼女の様子に気が付いたからだ。
看板の中の彼女が、こちらをじっと見ている。
「・・・そんな馬鹿な。
彼女は看板に描かれた絵だぞ。
それが動くわけがない。」
思わずそんな言葉が口から漏れる。
そんなことは言われずとも分かっている。
看板娘の彼女は、看板に描かれた絵。
だから動くわけがない。
愛の言葉を囁きかけても無反応。
いつもの通り、夜空に浮かぶ月を見上げている。
そのはずだった。
しかし、何度も目を擦ってみても、彼女はこちらを見ている。
彼女はこちらを見て、妖艶な微笑みを浮かべている。
それから彼女は、体を擦り付けて愛の言葉を囁く友人に視線を移した。
動かないはずの彼女の腕が、看板に擦り付く友人の顔にそっと触れる。
すると友人は彼女が伸ばした手に手を重ねて、
彼女の顔に頬ずりをしてうっとりと恍惚の表情になった。
「ああ、やっとこっちを向いてくれた。
君が俺のことを見てくれるのを、ずっと待っていたんだ。」
友人が彼女の体に触れる。
彼女が友人の体に触れる。
その度、友人の体に、すっと口が開いて中身が覗いた。
真っ赤な口から、同じ色をした液体が滴り落ちていく。
看板に使われているペンキだろうか。
いや、違う。
この看板は古いもので、ペンキが生乾きで色移りするような事はありえない。
そうすると、あの赤い液体は・・・。
「おい、大丈夫か?」
私は咄嗟に友人に声をかけた。
しかし、友人は私の言葉など意に介さず、彼女との逢瀬を愉しんでいる。
恋人同士の様に体を触れ合わせる度に、友人の体に真っ赤な口が開く。
びしゃびしゃと赤い液体が流れ出て、友人の足元に水溜りを作っていく。
そこまできて、ようやく私は正気を取り戻した。
彼女のことを近くから見ていたせいか、頭がぼーっとしていた様だ。
「おい、止めろ!
体が切れて血が出てるぞ。止めるんだ!」
友人にしがみつくようにして、看板から引き剥がそうとする。
しかし、彼女に魅入られたままの友人は離れない。
愛おしそうに体を看板に擦り付け、新しい切れ目を増やしていく。
ブツッ、ブツッ。
肉を切り分ける音が夜の廃ビルに落ちて跳ねる。
私が必死に止めようとするのも虚しく、
血塗れの友人はずるずると体を沈ませ、自分の血溜まりに伏してしまった。
体中に切り傷の口を開け、血溜まりができるほどに出血してもなお、
友人の表情は安らかだった。
そんな友人を、看板の中の彼女は嬉しそうに見下ろしていたのだった。
それから私はすぐに救急車を呼んだ。
間もなくしてサイレン音が廃ビルの前までやって来て止まり、
屋上に白いヘルメット姿の救急隊員たちが現れた。
しかし、懸命の救命措置にも関わらず、友人は帰らぬ人となった。
友人は看板の中の彼女に切られて死んだ、
などという話は誰にも信じてもらえるわけもなく。
結局、友人の死因は、
古い看板がささくれ立って、
鋭く飛び出た金属部分で負った切創による失血死とされた。
後から看板を調べても、どこにも突起など見つからなかったのだが、
ともかくもそういう結論が下された。
そうして事後の処理が全て済んでから、
私は、看板娘の彼女のところに通うのを辞めることにした。
あの看板も廃ビルも、事情があるとかで今もそのまま残されている。
しかし、私は、廃ビルの屋上にはもちろんのこと、
あの喫茶店にも近付くのを辞めることにした。
友人が亡くなった場所に近付くのは憚られるから?
満月の下、看板の中の彼女が動いたように見えたのが恐ろしかったから?
いや、多分違うだろう。
理由は、自分だけが抜け駆けしたくなかったから。
友人はもうこの世にはいない。
私が一人で彼女に逢いに行けば、私と彼女は二人っきり。
これではまるで、友人が恋敵だったようではないか。
恋敵が死んで、私が一方的に得をしたかのようになってしまう。
それを認めたくなくて、私は彼女のところに通うのを辞めることにした。
彼女がいる看板のところに行くのは供養の時だけ。
今日はその報告をするために、廃ビルの屋上まで来ていた。
夕焼けに染まる屋上で、あの看板に近付く。
看板にも床にも、友人の血糊の跡が生々しく遺されている。
そこに花束を置いて手を合わせた。
心の中で友人に挨拶をして、瞑っていた目を開く。
目の前には看板。
看板には今も変わらず彼女がそこにいる。
その横に、友人が遺したであろう血糊がべっとりと付いている。
真っ赤なその血糊が、何だか人の姿のような形に見えたのが、
後々まで私の印象に深く残っていた。
友人が亡くなって一年が経つ。
私は今日、供養のために、
久しぶりにあの廃ビルの屋上を訪れていた。
裏口の金属の扉も、瓦礫だらけの廃ビルの中も、全てがあの日のまま。
大きな金属の扉を開けて屋上に出る。
眩い夕焼けに染まる屋上で、あの看板が待ち構えていた。
私は夕日の中の看板を目にして、
思わず手にしていた花束を取り落としてしまった。
様子がおかしい。
看板の中には彼女の姿。それはいい。
その隣に、もう一人いる。
この看板を最後に見たのは一年前のことだが、私は正確に記憶している。
看板のあの位置には友人が遺した血糊があったはず。
看板に付いた血糊が人の形に見えたのが印象に残っているから間違いない。
それが今、完全に人の姿をしている。
血糊が線を描き人の姿を形作っている。
血糊が描くのは、懐かしい友人の姿。
亡くなった友人が、看板の絵となって姿を現したのだった。
「もしかして、君なのか?」
私が語りかけても、もちろん看板の絵は応えない。
絵の姿となった友人は、看板の中で彼女と仲睦まじそうに手を繋ぎ、
揃ってこちらを見て穏やかに微笑んでいる。
私を驚かせたのはそれだけではない。
誰もいないはずの屋上に人の気配がする。
視線を下に落とすと、看板の友人と彼女の前に御包みがある。
その中では、産まれて間もない赤ん坊がすやすやと眠っていた。
もしやと屈んで顔を近付けると温かい寝息を返し、
小指を差し出せば微かに握り返してくる。
絵ではない。この赤ん坊は本物の人間だ。
慌てて御包みごと赤ん坊を取り上げようとすると、
赤ん坊の傍の看板に赤い文字で一言、
「娘を頼む。」
そう書き遺されていたのだった。
小鳥たちが囀る朝。
居間でコーヒーを愉しんでいると、隣の部屋でドタバタと慌てる気配。
すぐに襖が飛ぶような勢いで開けられて、少女が姿を現した。
あちこち跳ねた黒髪を手櫛で整えながら、
食卓に並べてあったトーストに齧りつく。
「ちょっと、どうして起こしてくれなかったのよ!
今日は朝早く出かけるって、言ってあったでしょう。」
朝食を用意して貰ったお礼どころか、寝坊した八つ当たりを一つ。
黙っていれば美少女と呼べなくもない、これが私の愛娘だった。
娘とは言っても血の繋がりは無いし、
それどころか法的には家族ですらない。
せいぜい同居人と言ったところだ。
友人が亡くなったあの出来事から、もう十数年が経つ。
供養に訪れたビルの屋上で赤ん坊を拾って、私はその子を引き取ることにした。
手続きなど大変だったが、
それが亡き友人からの頼みだったのだから苦とは感じなかった。
とはいえ、私は結婚経験も子育ての経験も何もない身。
法律上の責任ある立場など、とても引き受けられるわけがなく、
ただの同居人同然の関係で試行錯誤、なんとか生活してきた。
その間、あの子はすくすくと成長し、
難しい年頃の女の子ながらも私と仲良く接してくれている。
この辺りはあの子に遺る父親の影響を感じずにはいられない。
その分、外見は母親に似ている部分が多い。
美しい黒髪も、整った顔も、母親の面影がありありと見て取れる。
今でも十分に美人だが、将来は母親似の美女になることだろう。
将来やりたいことがあるんだとかで、
毎日、朝早くから学校に何にと駆けずり回っている。
そんなに急いでやりたいこととは何なのか、
聞いてみてもはぐらかされて教えては貰えない。
そういえば、
娘が私をお父さんと呼んでくれなくなったのは、
いつ頃からだったか。
私の事が嫌いだから、というわけではなさそうなのだが。
そんなことを思案している間に、
トーストをコーヒーで流し込んで娘が立ち上がった。
ドタドタと慌ただしく隣の自室から鞄を取ってくると、
私の方に振り返って笑顔を向けた。
「じゃあ、いってきます。」
・・・ああ、あの笑顔には見覚えがある。
振り返った彼女の美しい笑顔に、不意に私は心躍らせるのだった。
終わり。
看板の中にいる幽霊の話を書こうと思いました。
看板の中にいる人と、現実の人と、
それぞれ違う形で結ばれることになりました。
作中の私は赤ん坊を娘として引き取りましたが、
いわゆる里親などではなく血の繋がりも無い、
法的には家族ですらありません。
ただの同居人はいつでも他人になってしまう、
あるいは、いつでも他人に戻ることができます。
私も娘ももちろんそのことは承知していて、
娘が将来やりたいことにも関係しているとかいないとか。
そのためにもっと大きな家に引っ越したいと、娘は考えているようです。
お読み頂きありがとうございました。