007 イトマラ
リーシェは生来のお世話好きらしい。
名前を呼び合う関係になったことが大きいのかもしれない。食事に入浴、着替えなど、両手が使えない私に張り付いて手助けをしてくれている。私自身もフィーネ付きのメイドとして働いてはいたが、そんな私が心配になるほどにリーシェは献身的だ。ついには、リーシェ自身の時間を大切にするようにと、私が説教をしなければならないほどだった。
突然の召喚から三日が過ぎ、私の生活は一変していた。
アルスメリア王国での戦争に参加し、それからペンダントの中に三百年間も閉じ込められていたのだ。満足に食事をすることすら許されてはいなかった。今では、命の危険に晒されることもなく、温かな食事が与えられ、柔らかな寝所で寝起きできる。これ以上を望むのは、贅沢すぎるだろう。
私は鏡の中の自分自身をボンヤリと見つめる。背後に立つリーシェが、最後の仕上げとばかりに私の髪を櫛で梳かしていた。
鏡台の前に私は座り、リーシェに身を委ねる。心地よさのままに、うつらうつらとし始めていた。
数分後、リーシェが「できたよ!」と弾んだ声で言う。私は寝ぼけ眼を開き、鏡に映った自分の姿を確認していく。腰まで伸びていた髪が、肩のあたりで切り揃えられている。鬱陶しさから解放され、自然と私の顔は綻んでいた。ふと視線を上げると、鏡越しにリーシェも微笑んでいた。
リーシェはペンダントを手にとって私の首につける。私の首元でフィーネのペンダントが輝いていた。
このペンダントはアルスメリア王国での最後の戦いで、フィーネに扮したメイドが身につけていたもので間違いない。フィーネの首元を飾ったところを何度も見てきたのだ。見間違いではないだろう。
グレンが歴史書を確認したところ、アルスメリア王女は最期の決戦で亡くなったとされている。つまり、フィーネは無事に逃げ切れたのだ。
戦には負けたが、フィーネを逃がすことはできた。最期の戦いは決して無駄ではなかった――その事実が私の心を軽くしていた。
ペンダントをまじまじと見つめていた私は、リーシェに肩を叩かれて我に返る。いつの間に持ってきていたのか、リーシェはフード付きのコートを掲げて見せた。
「私が子供の頃に使っていたコートだけど、エルティナならば着られると思うの。今日は街を案内してあげるからね!」
リーシェの声はどこまでも楽しげだ。私が腕を通しやすいように、コートを大きく広げらて待っている。
早く早く、そう言わんばかりにリーシェはコートをずいずいと前へ突き出していく。私は小さく微笑みみ、椅子から飛び降りる。左腕、右腕と順にコートの袖に通していった。
両腕をコートに通すと、リーシェは私の前へとまわる。コートのボタンを一つ二つと留めていき、最期にフードを私の頭に被せた。真っ白な私の髪はあまりにも目立ちすぎるらしい。髪を隠すのはグレンとの約束事だった。
私の姿に満足したのか、リーシェは嬉しげに一つうなずき、私の手を引いて歩き出す。リビングに入ると、ソファーへと座らされた。
リーシェは「すぐに準備するから、待っててね」と私の頭を一撫ですると、小走りでリビングを出て行った。
両手を失っている私にできることは限られている。それでも……。
「このままだと、私はダメになりそうね」
遠ざかっていくリーシェの背中を見つめながら、私はひっそりとため息をつく。小さな危機感を覚えずにはいられなかった。
リーシェの家は地方都市イトマラの北部に位置している。私とリーシェはゆっくりと中心街に向かって歩いていた。
王都からは車で三日の距離にあるイトマラは、王都を目指す旅人たちの中継都市の一つらしい。珍しい品々は王都へ運び込まれるが、王都で売り損なった品はイトマラをはじめとした中継都市に卸される。結果的に、王都で流行遅れとなった品や、話題にもならなかった品が店頭に並ぶらしい。玉石混交な品々の中から、本当に良いものを見定めることがイトマラ独自の文化として根づいているそうだ。
「――だから、良いものを買えたら、皆に教えるの。悪いものを買ったときも同じなんだ。悔しい~って、怒った後は、失敗しちゃったって、皆で笑い合うの」
リーシェは身振り手振りを交えて楽しげに話す。私は相づちを打ちながら、興味深く周囲を見渡していた。見るもの全てが真新しい。私の生きた時代が遠い過去であることを如実に示していた。
精霊信仰のためか、アルスメリア王国の街並みは自然との調和を大切にしていた。豊富な水源に支えられた王都は木や花に満ちあふれ、都市中央に位置する霊泉は精霊と人の憩いの場となっていたのだ。崖下に築かれた王城は荘厳で美しく、最期まで私たちを奮い立たせてくれた。
イトマラは、アルスメリア王国ほど自然に満ちてはいない。かわりに、人の熱気に満ちていた。そこかしこで笑い声や怒り声が響いて騒々しく、所狭しと店が並んでいた。男も女もなく、声を荒げる姿には眉根を寄せずにはいられない。……ただ、言い争いの後にはお互いにすっきりとした顔を見せるのが不思議だった。果たして争った者に対してわだかまりを残さずにいられるのだろうか。私には意味がわからなかった。
「エルティナは、何か気になるものとかあった?」
リーシェは小走りで私の前に出ると、振り返りざまに訊ねる。
足を止めた私は考え込むように黙り込む。視線をさまよわせた後に、小さく息を吐き出し、私はポツリとつぶやいていた。
「……人が多いわ」
リーシェは「はじめて見ると、驚くよね」と答えると、小さく笑みをこぼした。
「でも、今日はまだまだ少ない方なんだよ。前のオークションの時なんて、街中の人が広場に集まって、大変だったんだから」
「オークション?」私は小さく首をかしげる。
「そうだよ。エルティナがつけているペンダントはね、そこで買ったんだ」
悪戯っぽく微笑むリーシェは、そっとペンダントに触れる。私もリーシェも、ペンダントへと視線を落としていった。リーシェがペンダントを買わなければ、いや召喚しなければ、私は閉じ込められたままだったのだろうか。
孤独な日々を思い返し、震え出しそうになった体を必死に抑えつける。少しずつ私自身が消えていく感覚は――恐怖でしかなかった。
後遺症なのか、私の記憶はどこか抜け落ちている。……診察したグレンが言うには、私が失った記憶を取り戻すことは難しいらしい。
動揺をリーシェに悟られないように、私は無理やりに笑みを作った。
「私がいたのだから、このペンダントは当然高かったのでしょう?」
私が冗談めかして言うと、リーシェは露骨に顔を逸らす。ペンダントから手を離し、リーシェは一歩後ずさる。私の視線は訝しげなものに変わっていった。
ちらりと私をのぞき見たリーシェは肩を大きく跳ね上げた。
「え~と、あの、ね……」どこか気まずげにリーシェは口ごもる。
「そんなに安かったの? ペンダントが汚れていたことは知っているから、驚きはしないけど……」
私は小さく肩をすくめる。リーシェがペンダントを磨く姿を見ていたためか、汚れ具合は十分に理解していた。よほどの物好きでもなければ、買ったりはしないだろう。そんな物好きな一人であるリーシェに向かって、私は微笑んでいた。
「アルス金貨で百枚くらいかしら? 私には思い入れがあるけれど、一般的には骨董的な価値しかないでしょうし」
私は楽しげに予想する。本心ではアルス金貨で千枚はくだらないと考えていた。アルスメリア王国の王女、フィーネが愛用していたペンダントは精霊の技術の粋を集めた逸品だ。三百年前に作られたとは言え、通りに並ぶ品々と比べても、技術面では劣っていない。それどころか勝っているのではないか。歴史的な価値を踏まえれば、予想額を下回ることはないだろう。
「えっと、アルス金貨?」リーシェが怪訝な声を出した。
「アルスメリア王国でのお金よ。金貨、銀貨、銅貨、鉄貨の順で値段が安くなるの。……ごめんなさい、昔のお金を、リーシェが知っているわけがないわね」
私の声は段々と尻すぼみになっていく。少し考えれば、三百年前と今とでは貨幣が違うことに、予想がついたはずだ。浅慮を恥じ入るように私の頭は下がっていた。
「パン一個でどれくらい?」
慌てて声をかけてきたリーシェに反し、私はのろのろと顔を上げる。
「……そうね、銅貨で二枚くらいかしら」
「それだったら、パンを五十個くらい買えるよ」
間髪入れずにリーシェは答える。一拍遅れでペンダントの価値を理解した私は大きく目を開いた。銅貨で百枚、銀貨で十枚、金貨だと一枚……。私の予想額を大きく下回っていた。
嘘をつかれているのでないか。一縷の望みに縋るように、私はリーシェの瞳を見つめる。心配そうに表情を歪めたリーシェは、言葉を探すように口をもごもごと動かすばかりだ。嘘をついていないことは明らかだった。
涙ぐんだ瞳をリーシェに見せないために、口を強く結んだ私は顔を俯かせていく。首元を飾るペンダントが鈍く輝いていた。
――私たちは、無価値なんかじゃない。
心からふつふつと沸きあがる思いを必死に飲み込んでいく。アルスメリア王国で過ごした日々を否定されたと感じるのは、私の勝手だ。リーシェに憤りをぶつけることが、間違いであることはわかっていた。
悔しい。苦しい。悲しい。負の感情がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられていく。歪み始めた視界に抗う術を、私は知らなかった。