006 友人
「私は早く出て行った方がいいのでしょうね」
リビングに戻ると、グレンは私は横抱きにしてソファーへ座らせる。椅子を取りに行くグレンの背中へ向け、私ははっきりとつぶやいた。
「……僕はそうは思わないよ」
一瞬だけ足を止めたグレンは振り返らずに答える。何も聞かなかったかのように、グレンは歩き始めた。
隠さずに出て行けと言えばいいものを……。内心呆れながら私はグレンの背中を見つめていた。娘を傷つける相手を、擁護したいと思う父親などいないだろう。もしかしたらグレンは負い目を感じているのかもしれない。
精霊召喚と言えば聞こえもよいが、私は無理やり連れ込まれた被害者に過ぎない。自分都合で呼びつけ自分都合で追い出すなど、あまりにも礼を失している。
グレンが本心を押し隠しているのは、私への気遣いに違いない。
私と正対するように椅子を置き、グレンは深く腰かける。その瞳を悲しげに揺らしながら、下唇を強く引き結んでいた。
言葉を探しているのだろうか、グレンは落ち着きなく手を組み替えていく。しびれを切らした私が、口火を切った。
「両手を治す方法はまだ教えてもらえないのかしら?」
私が訊ねると、グレンの顔に寂しげな笑みが浮かんだ。
「……聞いたら、ここを出て行くつもり?」
「――その方がいいでしょう」
言い淀むグレンに対し、私は間髪入れずに答える。
何を迷うことがあるのだろうか。私以外にも精霊はいるのだから、別の精霊を改めて呼び出せばいい。相性の悪い精霊と仲良くする必要はどこにもない。捨ててしまえばいいのだ。
苦しげに表情を歪めるグレンの考えが、私には理解できなかった。
「ここを出て、どこか行く当てでもあるの? 無謀だとわかっているよね?」
……痛いところを突いてくるわね。
グレンの言うとおり、私に寄り辺などありはしないし、自衛ができるとも思ってはいない。両手を失い、魔力も枯渇気味の精霊など格好の獲物だ。精霊狩りに遭えば、成す術もなく私は捕らわれ、実験材料にでもされるだろう。とはいえ、私には無謀な選択肢を考えの外に押し出すことはできない。グレンの気が変わり、私を実験道具とする可能性を否定しきれなかった。
前に進んでも立ち止まっても、私の命は危険に晒されていた。
「わかっているわ。……だから、両手を治したいのよ」
……貴方の気が変わらないうちに。言外の本心を、精一杯の笑みで押し隠す。
グレンはまじまじと私を見つめると、一つ息を吐き出した。表情を引き締め、グレンは真剣味を帯びた視線を送ってきた。
「申し訳ないのだけど、僕には君の両手を治せないよ。君の両手を治すことができるのは、リーシェだけだ。……その顔は納得してないようだね?」
グレンは私に言い聞かせるようにゆっくりと話す。しかし、その内容には納得がいかない。私から逃げ出すリーシェに何ができるのか? グレンへ向ける視線が訝しげなものへと変わっていく。
私の疑惑の目から察したのか、グレンは大きく首を横に振った。
「僕は本気で言っているよ」グレンはすっと目を細める。
「到底信じられない話だと、貴方にもわかっているでしょう!」
平静を装うが、私の言葉には抑えきれない険がこもる。内心の焦りが顔に出てしまっていた。失敗を悟った私は目を伏せるが、鼓動は痛いくらいに早まっていた。
突然の激昂に驚いたのか、グレンは大きめを開く。そして、目を閉じて考え込む。数秒間、静かな時間が流れていった。
唐突にまぶたを上げたグレンは、自分自身の両頬を叩きつけた。叩いた両手で頬をつまむと横に伸ばして見せる。両頬から手を離したグレンは、固まる私に柔らかく微笑んだ。
「精霊の私的利用は禁止されているんだ。もう一度言うけれど、僕は君を利用するつもりはない。昔と今とでは精霊への考え方も違うから、君もそんなに心配しなくてもいいんだよ」
私は目をしばたかせながらグレンを見つめる。
数秒視線を交わした後、戸惑うように私の視線は逸らされる。グレンが嘘をついているとは思えなかった。
「信じられなくとも、僕が言ったことは事実だ。……精霊狩りを恐れなくてもいいんだよ。少なくとも、ここにいる限り僕が君を守る。約束するよ」
力強く宣言するグレンを思わず凝視する。……私は信じてもいいのだろうか? 信じたい気持ちと、疑う気持ちが交差していく。私自身もフィーネと出会うまでに、何度となく精霊狩りに襲われ、最後には囚われているのだ。
囚われた私をフィーネが救い出すまでの間に、精霊の末路を散々に見せつけられている。死にゆく精霊の断末魔の叫びも、精霊をいたぶる人間たちの嗜虐的な笑みも、私は知っているのだ。
嫌な想像を振り払うように、私は大きく首を左右に振る。それでも、思い出した恐怖に体は小刻みに震えていた。
「まずはゆっくりと休んだらいい。君にも、リーシェにも、きっと時間が必要だと思うんだ。……リーシェも、隠れていないでこっちに来なさい」
穏やかな口調で話していたグレンが、急に入口へ振り返って声を張り上げる。小さな悲鳴が聞こえた。
グレンの視線を追うと、目元を赤らめたリーシェが気まずげに立っている。慌てるあまり押し出してしまったのか、リーシェの体を隠していた扉は大きく開かれていた。握り締められていたスカートにはしわができていた。
リーシェはもの言いたげに私を見つめていた。私が顔を向けても、今回は視線が逸らされなかった。目をパチパチと動かす私に向かい、リーシェは歩き出した。
一歩、二歩と、踏み出すたびに歩みを速め、私の真正面にリーシェが立つ。唇を引き結んだまま、瞳の奥を強く輝かせ、私を見下ろした。
気圧された私は小さく体を後ろへ引き、ソファーの背もたれに体をぶつけた。
「……出て行かなくていいよ」
リーシェは絞り出すような声で言うが、私はすぐには反応できなかった。
数秒遅れで意味を理解した私はリーシェを下からのぞき込む。リーシェは不満げに唇を尖らしていった。
「出て行かなくていいから!」リーシェは強い口調で言う。
「どうして?」
反射的に私は訊ねる。思いがけない言葉に向けた問いなのか、強気な態度に向けた問いなのか、私自身にもわからない。突然のリーシェの変化に、私の思考は追いついていなかった。
私が嫌いならば追い出せばいいのに、何を言っているのだろうか? リーシェに向ける視線の粘度が高くなっていく。
「だって、お父さんは酷いことなんてしないもん! お父さんは精霊を傷つけたりしないのに……怖がって欲しくないよ……」
感情をそのまま口に出していたことに気がついたのか、リーシェは気恥ずかしそうに声の調子を落としていく。チラリと後ろを向こうとして慌てて前へと向き直る。耳は真っ赤に染まっていた。
グレンが好き、たったそれだけのなのだろう。それだけで私への苦手意識すら薄らいでいるようだ。
裏表のないリーシェの態度に、私は小さく笑みをこぼす。それは、リーシェの後ろに控えるグレンも同じらしく満面の笑みを浮かべていた。年甲斐もなく茶目っ気たっぷりにウィンクを送ってくる。
リーシェ一人だけが顔を曇らせていた。
「貴方は酷いことをするのね?」私はからかうように言う。
「――そんなことしないよ!」
弾かれたように顔を上げたリーシェは声を張りあげる。リーシェは険しい目でにらんでいたが、唐突に気まずそうに目を逸らした。
「……私も酷いことなんてしないから」
消え入りそうな声でリーシェはつぶやく。その視線は私の両腕に向けられていた。両手を強く握りしめ、顔を俯かせていた。
……ここは、リーシェよりも大人の私がもう少し踏み込むべきだろう。
「貴方の名前を教えてくれないかしら?」
私が優しく訊ねると、リーシェの目が大きく開かれる。パチパチとせわしなくまぶたを動かしていた。
小さく笑い、私はソファーから飛び降りる。驚くリーシェの顔が私へと向けられていく中、一歩二歩と距離を縮めていった。
戸惑うリーシェの顔を見上げ、私は口を開いた。
「ここに居てもいいのでしょう? それなら、名前くらい知らないと不便だわ」
呆けた表情でリーシェが固まる。数秒後、今度は私が固まった。リーシェの頬を幾筋もの涙が濡らしていた。
困惑する私をよそに、リーシェは目元を力一杯に擦り出す。リーシェは満開の笑みを咲かせた。
「リーシェ・ラドメアだよ! リーシェでいいよ!」
リーシェは弾んだ声で言うと、期待に満ちた視線を送る。そわそわと落ち着きなく体を左右に揺り動かしていた。初対面のときの恭しい態度はどこかに消え失せてしまったのか、私との距離感を急激に縮めるリーシェに、私の心は不思議と満たされていた。
精霊と人間――種族の違いを尊重した上で友人となったフィーネとは違う、同族同士のような気安い友人関係を築く。それはきっと、悪くないことなのかもしれない。ささやかな未来を想い、私は頬を緩めていた。
「私はエルティナよ。リーシェ、よろしく頼むわ」
「エルティナだね! 私もエルティナって呼んでもいいよね?」
否定されるとは思っていないのか、リーシェは当然のことのように訊ねる。
苦笑を漏らし、リーシェの思惑どおりに私は大きくうなずく。リーシェは歌うように「エルティナ、エルティナ」と私の名前を口ずさんだ。私がわざとらしく首をかしげて見せると、リーシェの即興曲はさらに楽しげなリズムを刻んでいった。
「……そろそろ僕も混ぜて欲しいのだけど、いいかな?」
気まずげに頬を掻きながらグレンがおずおずと訊ねる。私とリーシェは横目でグレンをのぞき見た後、視線を戻してお互いに見合う。どちらからともなく笑いを噴き出した。
おろおろとするグレンをよそに、私とリーシェの楽しげな笑い声が響いていった。