046 始まりの終わり
「――薬の効果は二、三日もすれば抜けるから心配いらないよ」
私の右腕からグレンの手が離れていく。検査のために私の体に流れ込まれていたグレンの魔力が霧散していった。
安堵しながら右手を見つめる。動きを確認するように、手のひらを開いては閉じるを繰り返していた。
リーシェがゲオルグに誘拐されてから、三日目の夜。グレンの工房で私は検査を受けていた。
グレンの退院祝いを済ませ、夜はすっかりと更けている。喜びを爆発させたリーシェは騒ぎ疲れたのか、幸せそうに眠りについていた。気丈に振る舞ってはいたが、やはり疲れていたのだろう。
衛兵たちへの事情説明などの面倒事はカーティスに任せていたとは言え、私やリーシェにしか話せないことも多く、なかなか落ち着くこともできなかった。
二つ嘘の証言をしたことも、精神的な疲労となったに違いない。
一つ目は、私が魔物へと姿を変えたこと。
二つ目は、リーシェが精霊に近い存在に変わったこと。
闇の精霊と魔物を結びつけて考えているならば、一時でも魔物となった私を脅威と捉えても仕方がない。
街中で魔物化すれば、どれだけの被害が及ぶかもわからないのだ。危険は排除すべき、そう考えてもおかしくはない。処刑か、それとも監禁か。どちらにしてもお断りだ。
リーシェの人生に影を落とすこともしたくはなかった。
今のリーシェは人間で間違いない。それでも、魔物化した私の魔力を大量に取り込み、精霊に近い存在となっていたことは事実だ。精霊を敵視する人間がいる以上、リーシェが精霊化した事実も隠すしかなかった。
幸いなことに、闇の精霊と契約したのは過去も今もリーシェただ一人だ。精霊契約の影響だと言い張り、リーシェの髪色が白銀へと変わった理由もごまかすことができていた。
真実を知るのは当事者たちだけだ。カーティスと約束したとおり、グレン以外には話すつもりはなかった。
手のひらの開閉を十数回は繰り返した後、私はゆっくりと顔を上げる。向かい合って座ったグレンが優しげな眼差しで私を見つめていた。
「リーシェを選んでくれてありがとう、エルティナ」
「……何を言っているのかしら?」
唐突な言葉に、私は思わず訊ね返す。グレンは笑みを深めていた。
「君が来てくれてから、リーシェはよく笑うようになったと思ったんだ」
「グレンが言うのならば、そうかもしれないわね。でも……」
――私が来てから、リーシェを傷つける出来事も多くあったわ。
口から衝いて出そうになった本音を噛み殺し、私は顔を俯かせる。リーシェ本人は気にしていないのだろう。それでも、言葉にすることが恐ろしかった。
「リーシェの怪我を気にしているのかい?」
グレンが気遣うような口調で訊ねる。私は弱々しく首を縦に振った。
「エルティナは真面目だね」
大きな手のひらが私の頭に触れる。そして、グレンは力任せに頭を撫でまわす。無秩序に私の頭は揺れ動く。不思議と跳ね除ける気にはならなかった。
「誰が悪いかと言えば、リーシェが悪いに決まっているだろう?」
私は弾かれように顔を上げる。グレンは悪戯っぽく微笑んだ。
「エルティナを呼ぶと決めたのも、契約すると決めたのも、リーシェ自身だよ。もちろん、エルティナを助けると決めたのも、リーシェなんだ」
当たり前だと言わんばかりにグレンは告げる。私は目をしばたかせた。
「……私を責めないの?」
「――責めないよ。僕はリーシェを信じているからね。リーシェの決めたことを否定する気はない」
エルティナはどうしたいの? エルティナの気持ちを教えてくるかな?
問いかけるようにグレンが私の瞳を覗き込む。私の答えは決まっていた。
「私は……リーシェと一緒にいたいわ。だから、許してくれないかしら?」
「僕の許しなんていらないよ。リーシェを選んでくれて、本当にありがとう」
グレンが深く頭を下げる。つられて私も頭を下げた。
「リーシェもだけど、グレン、貴方にも感謝しているわ。ありがとう」
私の言葉が意外だったのか、グレンは視線だけを上向かせて固まっていた。体を起こした私は悪戯っぽく微笑む。ウィンクを一つ送ってみせた。
呆れたようにグレンは笑いながら、椅子の背もたれに体を預けた。
「エルティナも笑えるようになったんだな」
「……もし、そう思うのならば、リーシェのおかげね。きっと」
「リーシェのおかげ、か」
「ええ、リーシェのおかげよ」
私はグレンと顔を見合わせる。そして、どちらからともなく声を出して笑い合った。
「――仲間外れにしないでよ!」
唐突に扉が開き、工房の中へとリーシェが飛び込んできた。目を覚ました時に、私とグレンの姿が見えずに探していたのだろう。肩で息をしている。
二人分の笑い声が聞こえたからか、私とグレンだけでこっそりと楽しんでいると誤解されたのかもしれない。
両頬を膨らませて唇を尖らせたリーシェが、ずんずんと私とグレンに近づいて来た。
「どうして、二人だけで楽しんでいるの! 仲間外れなんて酷いよ!」
リーシェはピシリと右手の人差し指を突きつける。私とグレンは再び顔を見合わせて微笑んだ。
「怒らないで、リーシェ。ごめんね」
「寝ていたから、起こせなかったんだ。悪かったよ」
私はリーシェの右手をとり、両手で包み込んだ。
「だって、お父さんもエルティナもいなくなっていたから……」
最後まで言うことなく、リーシェは寂しげに顔を横に向ける。グレンと久しぶりに話をしているからか、お姉さんぶった姿は見られない。
父親に甘えたがる娘がいるだけだった。
「リーシェ、寂しい思いばかりさせてごめんね」
グレンは穏やかな口調でささやき、椅子から立ち上がる。両膝を床に着け、立ち尽くすリーシェを抱きしめた。
リーシェの瞳が大きく開き、くしゃりと表情を歪めていく。堰を切ったように涙が零れ落ちていった。赤ん坊みたいに泣き声を上げ、グレンにしがみついていた。
感情を爆発させるリーシェに微笑み、私は天井を仰ぐ。
これで、リーシェもグレンも少しは素直になれるかもしれない。結局、不器用な父娘だったのだ。
エミリアの件も聞いてみれば、何のこともない。年頃のリーシェに母親に代わって味方となってくれる女性を作りたかっただけで、色恋の話でもなかった。恋心をゲオルグに利用されたエミリアに同情しないこともないが、私に許すつもりはない。リーシェも決して許さないだろう。
リーシェが本当に必要としているのは、母親代わりではなく、グレン自身に他ならない。リーシェもたったの一言を告げれば良かったんだ。
――お父さんと一緒にいたい。
単純なボタンの掛け違いだ。素直になりさえすれば、わだかまりは簡単に解消される。抱きしめ合う二人の姿を見るに、心配はもういらないだろう。
さて、そろそろ私も少しだけ素直になってみようかしら。
私はピョンと椅子から飛び降りる。リーシェとグレンの肩をトントンと指先でつついた。
「私も仲間に入れてくれないかしら? 少し寂しいわ」
冗談めかしてつぶやく私に、グレンは呆れた表情を浮かべる。リーシェは涙で濡れた目をパチパチと動かした。
「私に甘えてもいいのよ。おいで、リーシェ」
私はリーシェに向かって両手を広げる。慌てた様子でリーシェは目元に拭い、自分の頬をグニグニと引っ張った。
そして、リーシェはお姉さんぶった笑みを浮かべていた。
「エルティナが、私に甘えるの!」
リーシェが力任せに私を抱き寄せる。背中を撫でるリーシェの優しい手つきに酔いしれ、私は静かにまぶたを落とした。
もし姉がいたらリーシェみたいなのだろうか、妹になった自分を想像し、私はクスリと笑った。
ここまでで小説1巻分くらいかなと想います。
続編も考えていますが、ここで一旦完結にします。
拙い部分もあったと想いますが、読んでくださってありがとうございました。




